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濱口竜介監督「悪は存在しない」ラスト解説│偶然と想像が積み重なった悲劇と「分からなさ」への畏怖

濱口竜介監督といえば、少しつつけばバランスが崩れそうな人間関係や(多くの場合それは崩れる)、事故や災害、思いがけない偶然によって決定的に変わってしまう人生のドラマ、特に都市の人々を描く作家というイメージだったのですが、今回は、監督、自然を舞台に映画を撮ってもこんなに面白いのか!凄まじいと思いました。
 
薄雪積もる森のシーンが美しく、観客を一気にその映画世界へ引き込みます。同時に、監督らしく絶えず緊張感やそこはかとない不気味さを感じさせる、ダークな大人の寓話といった世界観が魅力的でした。

この映画が何を表現しているのか、そしてもちろんあの驚きのラストの解釈について考えてみました。

*ここから『悪は存在しない』のネタバレを含みます
*2024. 5. 24 (金)まで無料公開(沢山見て頂けているため期間延長)





人間に対して突然、無差別に牙を剥く自然。自然災害や時には生き物が人の命を奪うこともあります。もともと日本は災害が多い国ですが、私たちはあのコロナ禍でまた自然の脅威というものを再確認しました。

しかし、こういった自然の暴力性に対して、私たち人間は自然が悪とは考えません。自然には悪意がないからです。自然には人間の善悪の価値基準が当てはまりません。

『悪は存在しない』は、ここに一つの問いを投げかけます――自然ではなく人間が他者に対して振るう暴力にも、悪意が含まれない類のものはあるかもしれない。様々な要因が連鎖して生じた悪意のない暴力。小さな出来事が積み重なって大きな流れとなり、その帰着点として発露した暴力。その結果だけ見ればそれは紛れもない「悪」でしょう。しかし、そこに至る一部始終を見届けた時、その暴力は自然が人間に振るうそれのように「致し方ないこと」として感じられるのかもしれません。

巧と花・人間と自然の狭間で

映画の舞台は長野県に位置する架空の町、水挽町。この自然豊かな土地に代々住む巧と娘の花は湧き水を汲み、薪を割って火を焚く素朴な暮らしを送っています。

まず、巧と花は人間よりも自然の近くにいる人、そんな感じがしました。

巧は花の迎えの時間や打合せの時間を忘れる、お金の計算を間違える。花は学童保育で他の子どもたちと遊ばず、一人で森の中を歩いて帰る。この親子は人間界のルールよりも自然の中で生きているという感じがします。

さらに巧と花を比べると、どちらかというと巧の方がより人間側に寄った存在であるように思います。町の便利屋の巧は、住民が水を汲むのを手伝う、山菜について教えるなど、まるで自然と人間の橋渡しをするような役割を担っています。

花は巧以上に自然の中で過ごす時間が多いです。巧が水を汲んでいる時や、グランピング場の説明会に参加している間も森の中で一人で過ごします。

人間と自然の間で生活しているようなこの親子ですが、巧はより人間の世界に近く、花は巧以上に自然の世界に近い存在といえると思います。

このことは、巧がグランピング事業のスタッフ2人の前で帽子を取り、自分は開拓三世だと素性を明かすのと対照的に、花の方はラスト、鹿の前で帽子を取ることでも象徴的に表されていました。

高橋・自然を利用する人間

そんな素朴な生活を送る巧と花でしたが、ある日、家の近くでグランピング施設を作る話が持ち上がります。その事業者である芸能事務所Playmodeのスタッフ2人、高橋と黛が住民向け説明会のためにやってきます。芸能事務所が国の補助金目当てではじめたこの事業は、町の誇りである湧水を汚染するリスクがあるものでした。

高橋と黛は説明会で住民たちにこてんぱんにやられますが、その後、少しずつではありますが巧と打ち解け、両者の歩み寄りの可能性を感じさせながら映画は進んでいきます。巧は高橋に薪の割り方を教えたり、2人に湧水で作ったうどんをおごったりします。

しかし、歩み寄りを見せていく一方で、濱口監督の脚本は両者がすれ違い続ける部分というのも浮き彫りにしていきます。

グランピング場の予定地が鹿の通り道という話題になった時、黛は「鹿が臆病な動物なのであれば、人に近づくこともないんじゃないですか」と言う。それに対して巧は「グランピング場ができたらそこにいた鹿はどこに行くんだ?」と問いを投げかける。高橋は「それはどこか別の場所に」と返す。自然の生態系のことを考える巧と、人間の価値基準でしか物事を見ない2人の会話はかみ合わない部分があります。

芸能事務所での仕事にうんざりしている高橋は、グランピング場の管理人として水挽町に移住することを考えるようになりますが、その一方で、自然と共生するとはどういうことかを理解していません。

説明会の時に住民が「都会から来る人はみんなここにストレスを投げ捨てに来るんですよ」と言っていました。結局のところ、今の高橋はストレスを捨てにくる都会の人と似たようなものです。

このように、高橋は自然を利用する人間の象徴として描かれます。
 
巧が高橋たちと時間を過ごし打ち解けていく一方で、花は森の中で一人で過ごし、ついには行方不明になってしまいます。
 
このように、映画後半では、人間界の象徴としての高橋、自然界の象徴としての花、そして両者に挟まれた巧という構図がはっきりとしてきます。そして、多くの方が驚いたであろうあのラストでこの三者が偶然、一堂に会します。

巧はなぜ高橋の首を絞めたのか?

最大の謎は、巧はなぜ高橋の首を絞めたのか。巧の動機とその意味を、①現実のレイヤー、②想像のレイヤー、③メタファーのレイヤーという物語の3つのレイヤーで考えたいと思います。

①現実のレイヤー

まず、物語上の現実のレイヤーでなぜ巧は高橋の首を絞めたのか考えましょう。

ここを理解するために、大事なのは巧と花のストーリーラインを想像することだと思います。

一見、仲の良い巧と花の親子ですが、巧は花の迎えの時間を忘れるなど、娘に対する注意に欠けるところがあります。

映画の前半、巧と花が森を歩くシーンが2回繰り返されます。1回目は実際に起きたこと、2回目は花が寝て見ている夢です。花が見る夢の中だけ、巧と花は手をつないで歩きます。花は、父親と手をつなぐことを夢に見る少女なんですね。

巧がグランピング場の説明会に参加している間も、花は一人で羽を集めに出かけます。区長からは「あんまり一人で行かない方がいいよ」と言われていました。同じ日の夜、巧は芸能事務所の2人の絵を描くのに集中していて、花が話しかけてもまともに相手をしません。

このように、巧が花に十分に向き合えておらず、逆にグランピング場の件にどんどん入れ込んでいくという様子を映画は見せていきます。

濱口監督は、この映画はビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』の影響を受けているとインタビューで仰っています。※1

『ミツバチのささやき』は、少女アナの魂の彷徨がメインストーリーとして描かれますが、その脇で、大人たちの悲しみや苦悩がさりげなく顔を覗かせます。この映画の舞台となった1940年スペインでは、スペイン内戦が独裁者フランコの勝利に終わり、多くの国民が疲弊し絶望を感じていました。
 
『悪は存在しない』は、『ミツバチのささやき』のこの構成を反転したような映画になっています。

メインで描かれるのはグランピング場誘致を巡る大人たちの騒動ですが、ところどころに花の孤独、母親の不在が彼女の心に落とす影というのが顔を覗かせます。(ちなみに花 Hana という名前も Ana を連想させます。)

物憂げな少女アナの母親
『ミツバチのささやき』©2005 Video Mercury Films S.A.

『悪は存在しない』は『ミツバチのささやき』と同じく死の匂いに満ちています。『ミツバチのささやき』における村人たちに殺される左派の青年やアナが夢中になる毒キノコが、本作における森に横たわる鹿の死骸や断続的に鳴り響く銃声です。
 
花は鳥の羽を集めるのに夢中になっていきます。きっと、花の中でピアノが母親との思い出の象徴になっていて、不在の母親(はっきりとは示されませんが恐らく亡くなっていると思われる)への思慕から羽を集めているということでしょう。

『悪は存在しない』の制作は、音楽家 石橋英子さんが自身のライブ演奏の際に上映する映像作品の制作を濱口監督に依頼したことからはじまりました。花が「楽器」に紐づいた鳥の羽を集めるというのは、『ミツバチのささやき』のアナが「映画」で観た怪物フランケンシュタインに惹かれていくのに対応して、本作の制作が「音楽」を出発点としていることに由来している気がします。

しかし、巧はその花の繊細な心の問題には気付いていない様子です。巧は高橋たちに対応する一方で、その間、花を放って置いているという状況がありました。そんな巧の姿勢がついに花に危機的な事態をもたらします。

行方不明となった花が独りで血を流して倒れているのを見た瞬間、巧は花の抱える問題にやっと気付いたのかもしれません。

②巧の想像のレイヤー

巧はあの場面で、花の命を救うために高橋の首を絞めたように見えましたが、これはどういう心の動きだったのでしょう。

高橋はグランピング場ができたら「鹿はどこかへ行く」と無責任な返事をしていました。巧は、花の危機を鹿そして自然からの警告だと想像したのではないでしょうか。

想像というのは、濱口監督の映画において重要なモチーフです。

この少し前のシーンで、巧たちが銃声を聞いた時、黛は「なんで実際に聞いたことないのに銃声と分かるんですか」と高橋に聞いていました。高橋は「銃声ってこんな音だろう」と想像して判断したわけですね。

もしかすると、ラストの花が鹿と対峙しているあのシーン自体、巧が頭の中で想像した光景なのかもしれません。巧と高橋が花を見つけたとき、花は既に鼻から血を流して倒れていて、巧がそこに至る経緯を想像したのかもしれません。巧は少し前に銃声を聞いていたので、撃たれた手負いの鹿に花が出くわしてしまったのだと想像したということですね。

想像には、想像した人自身の思考パターンや行動原理が反映されます。巧があのラストの場面で、ケガをしている花を見て手負いの鹿から攻撃されたのだと想像し、それを自然からの警告だと受け取った。このように、巧の想像には、人間と自然のバランスを取るという彼の思考パターンが反映されているんですね。

③メタファーのレイヤー

最後にメタファーのレイヤーがあります。「高橋は自然を壊す人間」の象徴でした。水挽町に高橋を受け入れることは、グランピング場を受け入れ自然にダメージを与えることを意味します。一方、花は「自然」の象徴でした。そして、巧の行動原理は「人間と自然のバランスを取ること」です。

メタファーのレベルで見ると、巧の高橋を受け入れる行為は人間の介入を許すということ。人間を受け入れる分だけ自然は壊されます。バランスが取れていれば問題ないのですが、巧が高橋を受け入れてきた結果として、今、自然の象徴である花がケガをしています。

このように、高橋を排除し、花を助けるという巧の行為は、人間側に傾き過ぎた自然と人間のバランスを元に戻すための行為、そのメタファーとして理解することもできます。

このラストの悲劇に向けて、水挽町に夜の帳が下りていきます。夜の闇はあらゆるものの境界線を曖昧にします。そして自然の象徴である鹿と花の目が合う時、あの悲劇が起ります。あの瞬間、花と自然の境界は溶け合い一体となっていたのかもしれません。

© 2023 NEOPA / Fictive

偶然と想像の連鎖がもたらした悲劇

先ほど、巧が高橋の首を絞めたのは、巧が花のケガを自然からの警告と想像したからではないかと書きました。これは、濱口監督は「偶然」と「想像」というものを映画の中でどう扱うかということをよく考えて映画を撮られる監督だからです。

フランスの映画監督エリック・ロメールは、偶然と想像をモチーフとした映画をたくさん撮っています。濱口監督はこれらの作品がお好きということで、2021年の短編集『偶然と想像』はロメールの影響を受けていると発言されています。※2

エリック・ロメール『木と市長と文化会館 または七つの偶然』
©1993 LA C.E.R.

「偶然と想像」の「偶然」の方についてですが、『悪は存在しない』も小さな偶然が連なり大きな悲劇につながっていく物語でした。

「便利屋さんにグランピング場の管理人をしてもらえばいい」というコンサルと社長の思い付きから、水挽町へ再度向かう高橋と黛。車中の何気ない雑談を通して、高橋が「結婚して田舎に引っ込もうかな」と自分の進路を考えはじめます。もの凄いタイミングでマッチングアプリでマッチするという偶然によって弾みがつき、「すごくしっくりくるわ」と地方移住の願望が確信に変わっていきます。

高橋と黛は巧とうどん屋にやって来て、その流れで水汲みを手伝うことになる。巧がまた花の迎えを忘れて、3人で花を探しに行く。黛がウコギの棘で手を切る。こうした出来事が連なって、結局、巧と高橋が2人で花の捜索に向かうことになります。偶然だと意識しないくらいの小さな偶然がいくつも積み重なり、あの悲劇的なラストへとつながっていきます。

グランピング場の説明会の時、駿河区長がそのずさんな計画を水の流れに例えていました。「上の方でしたことはどんどん積み重なって最後にもの凄く大きな結果になる」これ、はじめは現実の社会構造の例えでもあると感じましたが、それだけではなくて、小さな偶然が積み重なって大きな結果、今回の場合はあの悲劇的なラストにつながるというこの物語の行く末も暗示していたんですね。

人間と自然の曖昧な境界

ラストの解釈のところで書いた通り、巧の最後の行動は自然に対する畏怖の念に発したものであり、やはりこれがこの映画のテーマの一つだと思います。『悪は存在しない』には、私たちがコロナ禍の時に感じた自然の脅威に対する畏怖の念が反映されているように感じました。

この「自然に対する畏怖」というのは、もうこれまで数多の作品に描かれてきた、いってしまえばありきたりなテーマです。だからこそ、それを観客にどう体験させるかというのが重要だったと思うのですが、そこがこの映画は面白いと思いました。

まず、観客を巧と高橋のどちらにも感情移入させておいて、2人がついさっきまで歩み寄ろうとしていたにも関わらず、片方がもう一方に危害を加える展開にすることで観客に強いショックを与えますよね。

しかし本質的には、この映画の面白さは「人と自然の境界を曖昧にしたこと」これに尽きると思います。ラストの巧の行動を、自然が巧を介して人間にしっぺ返ししたのだというふうに捉えることもできますね。

コロナ禍の時にも、新型コロナウイルスの発生は人間が生態系を破壊しすぎたことが原因であり、コロナ禍は自然から人間へのしっぺ返しだという言説が広まりました。

自然の目線を捉えたカメラ

ここで生きてくるのが、この映画が自然の目線から撮られているということです。

この映画はカメラワークが印象的でした。中でも一番印象的なのは車の後ろ、リアウィンドウの視点から捉えたショットでしょうか。

森のシーンでは、人物を手前にある木々や草が遮り、生えている木々や草越しに巧、花、高橋たちを見ている感覚が印象的でした。

山わさびの視点から巧を見るショット、鹿の死骸の視点から黛を見るショットなど、自然が彼らを見返しているかのようなショットがありました。

監督、本作のカメラワークについて「カメラがそこにもあそこにもあるというありようを通じて、“自然の目線” みたいな視点を作品に組み込んだ」と仰っています。※3

映画は冒頭と同じ、森の木々を下から見上げたカットで締め括られます。はじめは、森を歩いていく花が空を見上げた視点と思っていましたが、そうではなくて、これは逆に木々が自然が花を見つめているという画だったんですね。

そしてそのことに気づくと、実はこの時、観客自身が自然に見返されていたのだと気づくという仕掛けになっていました。

自然はずっと見ていた。偶然と想像の連鎖がもたらした悲劇のこの最後の介入者は、巧たちをずっと俯瞰していた――そんな感じさえする、自然の目線を捉えたカメラワークが秀逸でした。

自然・他者・アート――「分からなさ」への畏怖

ラストの巧の行動は意外に思われた方が多いと思います。他者の頭の中で何が起きているのか、傍目には分からないものです。ここは、演技未経験だった大美賀均さん演じる巧の「何を考えているか分からない表情」が効いています。
 
小さな偶然と巧の思考パターンが反映された想像が積み重なって起きたあの悲劇。ここまで書いてきたように、巧の行動原理や偶然の連鎖をひも解けば、「こういう考え方をする人があのような状況に置かれたら、あんな行動もとってしまうのかな」となんとなく思えてくるのですが。
 
多くの事件には、犯行に至るまでの長い経緯があります。私たちがメディアやSNSを通して接する情報は、そんな複雑な背景がそぎ落とされたものです。
 
もし物語の全体を見ずに、巧が高橋の首を絞めるシーンだけを切り取って見れば、「巧は悪人だ」と言い切れるでしょうが、そこに至る経緯をすべて観てきた観客からしたら、それができる人は多くないのではないでしょうか。
 
この映画では、巧の意思よりも、彼が高橋の首を絞めるという行動に至るまでの偶然と想像の連鎖が強調され、その流れの帰結としてあの行為に至ったことが強調されます。
 
その連鎖に悪意は含まれません。小さな流れが次第に大きくなる水の流れのように、自然が人間に対して振るう暴力のように、偶然と想像の連鎖の流れがもたらした「避けようのない出来事」という側面が色濃く描かれているように思います。
 
この映画から感じたのは、この他者やあらゆる事件の真相の「分からなさ」というものに、時に理不尽に人間に暴力を振るう自然を重ねているということです。
 
事実を解析し、これはこういう意味だ、こうしたからこうなったのだと分析する。そんな人間の理性的・科学的な態度の彼岸にある、人智を超えた自然という存在。それを他者や事件の真相の「分からなさ」に重ねているように思いました。
 
そしてこの「分からなさ」というのは、巧の行動理由や結末を曖昧にしたこの映画の作りにも通じるものがあります。なぜ巧はああしたのか、あのあと、花と高橋は助かったのか、あるいは――。事実は曖昧なままです。ラストに立ち込める霧が象徴的でした。
 
人智を超えた自然も、他者も、優れた映画を含むアートにも、頭では理解できない領域、説明できない領域がある。そのことを否が応でも感じさせられる映画でした。また、観たあと、そうした未知で不確定なものに対する畏怖の念を忘れずにいたいと思う作品でした。
 
 
ということで、この説明を拒む映画『悪は存在しない』について、それでも可能な限り作品の本質に迫ろうと私なりに向き合ってきました。

石橋英子さんの音楽も素晴らしかったです。哀しい、恐ろしいといった人間が抱く感情を表現した音楽ではなく、複雑で重層的で、人間の感情とは関係なく存在する自然、人間を俯瞰している自然、そして木々や動物・虫たちの蠢きみたいなものを感じる音楽でした。

皆さんはどう思われましたか?ぜひ感想をコメント欄でお聞かせください。
 
最終更新 2024.5.18


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✤出典
上から注釈※1~3

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