「今度飲みに行こうね」という日本のあいさつ。
こんにちは、ろくです。
なんか4月、よくバズりました。
スマホ画面いっぱいにTwitterの通知がきていたのをたまたま同僚に見られたときは、はい終わり、って心の中でつぶやいた後、そっと画面を閉じてすべてをなかったことにしました。たぶん無理でした。
中でも1番伸びたのはこれです。
1.4万リツイート、12万いいね。正直こんなにブランコに乗りたいやつがいるのかと引いてました。
このツイートについて本当はもっと言いたいことがあったので、今回は140字枠を勝ち取れなかった言葉たちをここで供養したいと思います。
「今度飲みに行こうね!」
街でばったり遭遇した友達と別れるとき、電話を切るとき、ひさびさにLINEした友達との締め言葉、「今度飲みに行こうね!」。
いつからかは忘れたけど、大人になってから言うことも言われることも増えた。もはや「さようなら」よりもよく使う、こいつはもう挨拶である。日本語を学ぶ外国人とかぜったい覚えた方がいいだろ。
でもよくよく考えたら何で「飲み」なのかなと無駄に思考を巡らせる。趣味だからね。
とりあえず社交辞令か
行けたら行くくらいの口約束か
そもそも我々大人は飲まないともう腹を割って話せないのか
どれも当たっていそうで、とても切ない。これが大人になるということなんですかお母さん。
わたしも飲み会は好きで、誘われたら行くし、自分から誘うことも4年に1回くらいはある(今度飲み行こうねを除く)。
お酒が好きというより雰囲気そのものがいい。
あと居酒屋のご飯は本当おいしいよね。だいすき。
でも話をするなら本当は公園のブランコぐらいでいいんじゃない?と、わたしの中のわたしがわたしに問う。そうだ、高校生のとき、中学まで一緒だった幼なじみと夜の公園に集合してお互いの近況を報告し合う時間が本当に好きだったんだ、と急に思い出したことがこのツイートをするきっかけになった。
静かな公園で相手の声がよく聞こえて、相手の目を見ずに話す、独り言のようで独り言じゃないあの感じ。話聞いてんのかこいつと思うこともしばしばあった気がするしきっと相手も思っていたと思う。それがちょうどよかった。
ブランコを思いっ切り漕いだり、ただ座って前後左右にゆらゆら揺れたり、たまに砂いじったり、地面に丸とか四角とか靴で書いて謎の地上絵を大量生産したり、なにかの片手間に話をすることが、なにかの片手間に相手が話を聞いてくれることが、会話の空気を和ませてくれた。それがちょうどよかった。
これが「向かい合って手いじりもせずに相手の目をしっかり見て、話をし合いましょう。さぁどうぞ。」であったなら、わたしは言いたいことの半分も言えていなかったのだろう。
同時に、あの多感な時期の悩みや苦しみは、その時のわたしたちにしか感じられない特別なものだったんだなと感じる。現に今あの時の感情を何ひとつ思い出すことができない。
みんなはどう思ってるんだろう
このツイートを見た人の反応で1番多かったのは、「わかる」「ほんとこれ」みたいな共感の声。なんだみんな実はブランコに乗りたかったんじゃん、と、謎の安堵。
あとは、「公園は子どもたちの場所です近所迷惑です」みたいな、おおよそ想定内のご意見。これに関しては、大人が公園で話したいと言っただけで、「夜に公園で酒を飲んで大声でさわぐ」イメージがこの人にはあるんだろうなと思った。この人に、というかこれが世の中のイメージなのかもしれないなとも思う。その気持ちもよくわかる。夜の公園でさわぐ大人、わたしもめちゃくちゃ嫌いだよ。
その他にも、「今ブランコ乗ったら三半規管がやばい」みたいな、大人あるあるな反応もあり、その気持ちもよくわかるってなった。
大人は結局
飲みに行くしかなさそうな気がしてきた。
ブランコで話をし合えたあの何気ない時間は、意外と貴重だったのかもしれない。
大人になるまでの特権だったのかもしれない。
もう二度と戻ってはこないブランコタイム。
いやだ悲しい悲しすぎる諦めきれない頼む座らせてほしい。だれか
今度ブランコ乗りに行こうね!
またな。
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