見出し画像

わたしが見た3.11をここに残したい。


語り手のわたしから、読み手のあなたへ


あの日、被災地で起きていたことを、わたしと同じ時代を生きるあなたや、わたしが死んだ後に生まれてきたあなたに、まっすぐ伝わる言葉で残したいと思った。

気付けば記事は13000字を超えてしまった。それを聞いただけでうぉ…と拒否反応が出る人もいるかもしれないが安心してほしい。わたしも自分で引いている。


そして、このnoteを有料にすることを許してほしい。あの日のことを残したいという気持ちの一方で、あの日にもう一度向かい合い文字に起こすというのは、想像以上の労力と、このガラスメンタルへの影響があった。読みたいという人だけ、ぜひ読んでほしい。読めないという人は、無料部分だけでもいいので、ぜひ読んでみてほしい。


今、高校2年生だったわたしが震災直後に書いた記録を編集し、ここに残すことにする。




それはいつもとなにも変わらない日だった


2011年3月11日(金曜日)の朝、いつもとなにも変わらない1日の始まりだった。

いつもどおり起きて、いつもどおり半分寝ている状態でパンを口に突っ込み、いつもどおり嫌だ嫌だと言いながら玄関を開け、部活に向かった。

なんでこんな朝早くから練習させるんだろうな、もしかして監督って家に居場所ないんじゃないか?と嫌味な心配をする、そんな春休みだった。


体育館に到着すると山積みになったパイプ椅子が目に止まる。数日前に卒業式で使ったものだ。
いい加減だれか片付けてくれと心の中でつぶやきながらシューズを履き、荷物を置いて着替え、ネットを立てようとしたとき、「練習前に椅子全部片付けとけ」、家に居場所がない監督の声が体育館に響く。


この日体育館を使用するのはバレー部のみ。というか、ほぼ毎日バレー部だけが体育館一面、センターコートで贅沢に練習をしていた。強化指定部だった。
入学式、卒業式の準備や片付けは、運動部の仕事になることが多い。これは室内運動部あるあるなのだろうか。その体育館を使う運動部がほぼバレー部だというのだから、わたしたちが片付けをするのは致し方ないことだった。
ステージの下にある、パイプ椅子を入れるためだけに開発されたような移動式収納台をガーガーとフロアに引き出し、そこに何百脚ものパイプ椅子とわたしたちの不満を詰め込む。かなり重くなった収納台を、2人がかりで全力で押し、ステージ下に送り返した。そして、いつもとなにも変わらない地獄の練習が始まる。


あと5分やったらもう死ぬ、と思ったところで午前の地獄の練習が終わり、放心状態でお昼を食べ、鉛のように重たくなった体をなんとか奮い立たせると、あっという間に午後の練習が始まる。いつもとなにも変わらない。午後はひたすらAB戦の予定だった。校長が練習を見にきた。朝せっかくしまったパイプ椅子を1脚、ステージ下から自分で取り出してそのままステージ前にどっかりと座った。これもいつもとなにも変わらない。そこに座られるとサーブ打つ時、無駄にめちゃくちゃ緊張するんだよな。みんなそう思ったに違いない。ホイッスルが鳴り、AB戦が始まる。


長いラリーだった。何度もブロックを飛ぶ。何度もスパイクを打つ。足が重い。息が苦しい。そんな感じだったと思う。ボールを追いかけ、動き跳び回るわたしたち、コートの横に立ってなんやかんやと指導している監督、ドリンクやらタオルやらをパタパタと準備するマネージャー、どっかりと座って試合を眺める校長。



それは突然だった。




校長が立ち上がり、何かを叫んでいる。ラリーが止まった。ボールが落ちる。校長が叫んでいる言葉が今度は鮮明に聞こえてきた。この場で唯一、静かに座っていた校長だけが、いつもとなにも変わらないと思っていた今日が崩壊していく音に、いち早く気付いていた。








「試合止めなさい!!!地鳴りだ!!!地震が来る!!!!!」







午後2時46分、東北地方三陸沖海底24キロを震源とするマグニチュード9.0の大地震発生。






※以下、地震・津波の描写、震災時の感情を想起させる表現を含みます。

ここから先は

11,584字

¥ 1,000

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?