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カーブを曲がると

体を傾け、カーブを曲がっていく。顔を切っていく空気の味が知りたくて、鼻で大きく息を吸ってみると、新しいヘルメットの匂いと新緑の木々の香りが混ざり、とてつもない初々しさに包まれる。通奏低音のエンジン音に、風の音、時たますれ違う車の音が反響する。寒さと緊張でキュッと体をこわばらせ、そんな私を置いてかないように優しい足取りで進み続ける。再びカーブに差し掛かり、体を傾けて曲がっていく。

4月、バイクではじめて長距離旅に出かけた時のことだった。1週間前、夏のように暑かった日々が嘘のように冷え込み、まだ肌寒い朝、我々はバイクに乗り込み、トスカーナ州の海を目指して出発した。信号ばかりで1分おきに止まったり走り出したりしていた街中をあっという間に抜け、田んぼ道に差しかかる。前の車についていくように滑らかに進む。ある時から、よしというかけ声のようなエンジンが聞こえると、山道をぐっと上る。エンジン音が緩んだなと思うとカーブに差し掛かる。傾く体に必死で捕まっていると前から対向バイクが来る。挨拶のピースサインをしなくてはと思って手を出す頃にはすでに過ぎ去っていた。再びエンジン音が聞こえるとカーブの終わりで爽快にスピードが上がる。さらにエンジン音が高まると、ぐっと山道をまた上っていた。どのくらい繰り返しただろうか。寒いと感じ始めた頃に、バイクはスピードを緩め、山小屋の前で止まった。標高968mと書かれたカフェはまだシーズン前のようで人はほとんどいなかった。バイクを降りて中に入ると、足も手もカチコチに凍っていることに気が付いた。カプチーノの温かさが沁みる。朝ご飯を食べながら、まだ朝なのかと思った。

再びカーブを曲がる。もう何度目だろうか。ひたすら木陰道を走る。山越えがこんなに大変だなんて全く想像もせず、無邪気に行こう行こうとバイク旅を快諾したことを後悔し始めたその時だった。ふっと木が途切れ、太陽がさす。急に眼下が開け、朝、目を覚ましたばかりの子供のように目をこすると、ポツポツと家の屋根が見える。頭を上げ、その先、もう少し遠くに目をやると谷間に町が見えた。なんだろう。近視の目を凝らすと、数秒後、赤いクーポラが堂々とそびえるのを視界に捉えた。フィレンツェだ!!思わず叫んだが、ヘルメットに反響するだけで、エンジン音と風の音の中で前まで届いたかは分からない。しかし、その願望を察したかのようにスピードが弱まり、バイクが止まった。飛び降りて地に足を付け、もう一度じっくりと目を凝らすと、それは紛れもなくフィレンツェだった。感動する私をゆっくり包むその胸は、いつにも増して逞しかった。

元メディチ家の屋敷の庭園という公園にお邪魔すると、青い空に白い雲、若い芝生に木々の新芽、機嫌の良い春の日に紫の花がまた一層のどかな空気を作っていた。昼食の場所までもう少し。再びバイクにまたがると、暖かな陽を受けながら山を下る。小さな街を抜け、再び丘を登り始めると、ほんの10分前が嘘みたいに頭上は黒い雲で覆われ、気付けばポツポツと大粒の雨が肩を叩く。少し降ってきたなと思った頃に昼食の場所に付き、我々が建物の中に入ったその瞬間、外で何か小さなものが沢山ぶつかる音がして、外を見ると雹が降り注いでいた。すんでのところで雹は免れたが、バイクを思ってか外を見つめる顔を見ると、少し心が痛かった。昼食後、再び日がさす頃に外に出ると、バイクは無事でいつものようにピカピカで、海を目指して一直線に山を下っていった。

次の日、朝日を浴びた海は穏やかに輝いていた。まだゴミ1つない砂浜に寝そべって、90度傾いた世界を眺める。サングラスをして犬の散歩をする人、両親の1m先で一生懸命に足を前に運ぶ小さな子供、喋るわけでもなく無言の信頼を寄せ合うように手を繋ぐカップル、朗らかな笑い声をあげ素肌を見せるお年寄り。海辺のレストランで、真上から降り注ぐ太陽を浴びながらランチを取った。グラスに注ぐ白ワインは一瞬でぬるまってしまうようでありながら、それがまた良かった。潮風を浴びながら、目に沢山海を入れながら、磯の香りをたっぷり含んだボンゴレがまた、最高に美味しかった。

海を出ると再び山に差し掛かった。かつての威光を今に伝える白い大理石の山々は、近づくとまた別の威厳がある。川を渡ると別の家がポツポツと現れる。カーブを抜けると、また別の色の屋根を持つ家が並ぶ。いったい彼らはどんな暮らしをしているのだろうか。今日はどんなご飯を作っているのだろう。ここの子供たちは明日どうやって学校に行くのだろう。北アイルランドから夏にバカンスに来るというこの人たちは、冬の間どんな仕事をしているのだろう。元メディチ家の館と言われるあの家に住む人は、あるいは、この小さな平家で畑を耕しているあの人は、どんな毎日を送っているのだろう。視界に流れていく家々を見ながら、あらゆる暮らしを想像するうちに「みんな違ってみんな良いのだなぁ」と、なんだか当たり前のことに今更気づいたようで、でも親身にそう思ったから良いやと思った。カーブの先に何が見えるのだろう。山を越えると、次はどんな山が待っているのだろう。少し寒くても前のめりに走っていくバイカーの気持ちが少しわかった気がした。

※この記事は「1番近いイタリア2024年春号Primavera」の巻頭エッセイからの抜粋です。「1番近いイタリア」についてはこちら。


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