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#89【雑感】贈与か呪いか(1)

バタバタしていて今日は投稿が遅くなりました!
note.システムが自動で教えてくれる連続投稿が50日を越えたのを途切れさせたくない!(ほんとうはもっと続いているけど1日だけ日付をまたいでしまったのでシステム上はこの投稿で52日目)

昨日ちょいと山のほうまで行ってきたためか、昨晩から無限鼻水製造機になっています。花粉症って山の中では出ずに帰り道の電車とかでいきなり爆発するんですね……。陽気がいいのにつらたん、早く花粉終わってくれ。

ちなみに今日のタイトル画像はパノラマ写真です。桜はきれいだけどゆがんでいて気持ち悪いところが、「贈与か呪いか」というテーマにピッタリかなと思って選びました。

おお、書いている間に筋肉痛と微熱まで出てきた。
筋肉痛は昨日2万5千歩歩いたせいかと思っていたが、微熱かあ……
昨日の新幹線で隣り合わせたオバサンの風邪うつされたかなあ。マスクしてたけどとんでもねー咳してたんだよなあ……。このオバサンとさらに向こう隣のファッショナボーなあんちゃんが、荷物の置き場所で小競り合いを始めて、くらたはいたく迷惑したのに、さらに風邪まで…………呪います……。


はじめに

今日の投稿は、人身事故や命の話に触れています。お読みになるかどうか、ご自身の責任で適切なご判断をお願いいたします。

今日のできごと

職場に行ってきた

今日も用事があって職場に行ってきたわけです。
くらたが作ったデータ集計用エクセルで相談があると言われ、年度更新かと思ったら違って、新しく一つ集計データを作れないか、とのお話で、ぽちぽちしてきました。職場のパソコンはファンクションキーとコントロールキーの配置が家のパソコンと違うので、コピペやCtrl+Zを何度も間違えてイラっとしました。ああ懐かしいこのかんじ。

年度更新は休職前に自分がすでに来年度分まで作っていたもよう。
「一年に一度の処理って次にやるとき忘れてて毎回思い出すのに時間がかかるから、思い出したときに数年分やっとけ」って、確かに自分が考えそうなことです。いやー、わたしってすげえな(←ぬけぬけと……)。ときどきこういうことあるけど、過去の自分からの贈与に超助けられてる。
こんなに有能な人間を(その有能さは弊社では理解されにくいが)、つぶして働けなくしておく呪いをかけるなんて超もったいない話だぜ!(←ぬけぬけと……!)
まあ、おかげでストレッサーから離れて穏やかに暮らしていますが(贈与)。

プレーオフファイナルに行く予定だったのに……!

その後、予定よりだいぶ遅れたけど一目だけでもとプレーオフファイナル1日目を見に味の素スタジアムに向かいました。

ところが途中、南武線から京王線に乗り換えようとしたら、京王稲田堤駅で人身事故があり運休……!駅構内にも入れない。Oops……!学生時代、京王稲田堤乗り換えで通っててこんなこと一度もなかったけど今日に限って?!

ただでさえ出遅れてるのにもう絶対間に合わない!迂回の方法がない。タクシー止められるような道路が近くにない。タクシーアプリでも配車までに10分だと……?!
タクシーで味スタまで直行できそうだったけど、費用と残り時間を比較してもう諦めて、バスケットライブ見ながら帰りました……。しょぼん。

おおお、すごいなぁ富士通、あのDENSOを抑えたかぁ。
でもDENSOぜんぜんヘッドダウンしてない。終わった後のハドル組んだエブリンの檄、明日は修正して勝つんだって、超かっこよ!これは現地観戦では見られなかったから(席的にむりだった)、バスケットライブで見られてよかった。
ハードな局面でのフリースローを決めきっていて、トヨタ自動車アンテロープス時代は「ステは大丈夫だけどエブリンは心配」って感じだったんだけど(何様!)、会社立ち上げて事業も始めて、制限されずにのびのびと力を発揮できる環境って人をこんなにも変えるんだな。
明日は予定があって行けないから、明日DENSOが勝って、月曜日の試合があるといいな~。

贈与か呪いか

人身事故を受けて

さて。
人身事故と聞くと、うっ、とくるものがあります。
くらたの脳みそは入ってきた情報はなんでも自動的にあれこれ想像してしまうので、こういうときは、どうかご無事で、とだけ祈ってそれ以上は深く考えないようにつとめています(意識してつとめないと想像してしまう)。

くらたは、今年定年で人生終盤に入っていく先輩をうらやましく思うし、生きることが辛いことだと思ったことはあるけれど、希死念慮を持ったことはありません。また、昨今話題の安楽死にも慎重な考えです。
くらたがそう考えている理由は、生を受けた身体は成長しようとし、病気や傷には治癒力が働くことから、生まれたからには生きようとするのが「身体の基本的なベクトル」だと思うこと。脳も身体の一部ですからそれに倣ったほうがいいんじゃないかなと思うこと。死はその「身体の基本的なベクトル」を止める点であり、同時に不可逆的な変化だからです。
未来がどうなるかわからない可能性に心がドライブするENFP的な側面も影響しているかもしれません。その「どうなるかわからない」部分を捨てきれない感じ?

ただ、これはくらたの考え、つまり、くらたの「脳も含めた身体的制約」「身を置く環境」「経験」から今のくらたが考えていることの域を出ないので、人や時によっていろいろな感じ方、考え方があると思います。

人は圧倒的なビハインドを負って生まれてくる

引き返す道すがら(京王稲田堤から稲田堤間ってけっこう距離ある)、もし事故に遭われた方がご自身で選ばれたことだとしたら、こんなに天気のいい桜もまだ咲いているような気持のいい日なのにどうしてかな、という思いがふと浮かびました。(意識的につとめていても浮かぶ)

くらたの心の師・内田樹さんが、人間は贈与を受けた状態で誕生する、という趣旨のことをどこかで書いていたような気がするんだが探し出せない(いつものこと)。「人は生まれた瞬間から圧倒的なビハインドを負っている」というような言葉だったと思いますが、くらたがそう理解したというだけのことか……?

くらたはアラサーのころに内田樹さんの「労働は贈与に対する反対給付だ」という論を先に読んでいて(これは『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文春文庫)、「贈与なんて受けてない!地雷撤去ばっかりだ」と憤慨していました。
でもその後どこかでその「生まれたこと自体が『贈与を受けたこと』であり、人は生まれた瞬間からその圧倒的ビハインドを負っている」論を読んで、その二つが合わさって自分の中で腑に落ちたのです。
だから絶対どこかで内田樹さんが言ってるはずなんだけど、忘れてしまったああああ。

閑話休題。
「親ガチャ」という言葉が生まれてきたように(くらたが未成年のころにはなかったよこの言葉)、自分がいつどこで誰の元にどのような身体をもって生まれるかをコントロールできる人はおらず、望むと望まざるとに拘らず命を贈与され生を受ける。生を与えられてしまった以上命ある限り生きるとすれば、それはあるとき呪いのように感じられることもありそうだなあと、狭い道の狭い青空を見上げながら思ったのでした。

長くなったので、明日に続きます。

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