見出し画像

「タイムスリップ」自己破壊のロマン

私は定期的に「今までの自分を破壊し尽くしたい」というような衝動にかられる。

私は高校生の頃、ゲームが大好きであった。
友達とApexに熱中し、昼の14時から朝の5時まで、通話をしながら楽しんだのを覚えている。
勉強なんてそっちのけであった。
しかし、ある時、とてつもなくゲームを辞めたくなってしまったのだ。
なぜだろうか。
それは、
「私の人生はこれから先もずっとゲームをし続ける人生なのだろうな」
と考えてしまったからだ。
これは私にとって大きな絶望であった。
永遠にゲームから快楽を享受する存在として映し出された未来の私。
想像するだけで憂鬱になってしまった。

しかし、そんな私も、ゲームを辞めたおかげか、再び受験勉強に集中でき、無事、大学生活を送っている。
今は理系学部に所属し、有機化学を中心に勉強している。
いや、半分ほどウソをついてしまった。
本当のことを言うと、これらは過去形で表現されるべきである。
二回生になった現在、私は別のことを考えている。
それは、文系学部への編入だ。
理系という学部の中では、大学院まで進み、研究職に就いてその道を極める道と、研究は程々にして普通に就職する道の二つ選択がある。
しかし、反対に言えば、これらの選択肢以外はありえない。
研究に努める未来の私、ここに希望などなかった。
理系の勉強が特段楽しいわけではなく、ただ、人生を一つのキャリアとして捉えた時、大学というものが必要であったのは事実だ。
しかし、そこには絶望しかなかった。
だから、私にとって本当に興味のある分野、社会学を勉強したく、今は編入試験の対策に励んでいる。

もしかすると、私は、将来の私が決まってしまうことに、居心地の悪さを感じているのかもしれない。
いや、反対に、決まってしまった未来の私。
これを破壊することに、喜びを感じているのかもしれない。
私という存在を一旦壊すことで、私という存在が、再び、無限の可能性を含んだ私として生まれ変わる感覚。
この中にロマンを感じるのだ。

皆さんはどうだろうか。
未来の自分に絶望したことはないか?
あえて、今までの自分を壊すことで、もう一度やり直したくはないか?
「もし、タイムマシンがあったら、もう一度やり直したい」
そう考えるのは、無限の可能性を持った私を、作り出すためなのかもしれない。

子供の頃の全能感を卒業できなかった稚拙な人間の、ほんの戯言なのかもしれないが。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?