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【世界遺産】岩手の平泉、中尊寺金色堂に行ってみた

中尊寺って、聞いたことあるけど、よく知らん!

ぼくはあまり日本史をちゃんと勉強してこなかった。
というのも、中学までは普通に日本史の授業を受けたのだが、高校では
高1・・・世界史(必修)
高2・・・世界史(選択)
高3・・・世界史(選択)
と、高1以降は日本史が必修科目になく、歴史は世界史しか勉強してこなかったのだ。

そんなわけだから、中尊寺がどんな場所なのか、よく知らない。
だからといって、今読んでくださっているあなたと同じで、日本史の授業は全部寝てたとか、盗んだバイクで走り出すとか、そういうことはしてこなかった人だから、松尾芭蕉が行ったことがあるらしいとか、「金色堂」というすんごい金ピカのお寺(?)があることくらいは知っていた。

でも、そのくらいの知識、または興味だ。

そんなぼくだったけれども、令和四年(2022年)の10月末、中尊寺に行ってみることにした。
きっかけは、友達とLINEで何気なく旅行について話していたときのこと。

僕:「まだ東北に行ったことないから、今度の旅行では東北に行ってみようと思うんだよね」
友:「東北いいね!東北のどこ行くの?」
僕:「大学のとき宮沢賢治とか読んでたし、岩手かな~」
友:「岩手だったら、中尊寺があるよ」

・・・ほう、中尊寺とな・・・。
正直、お寺といえば京都のイメージであって、仏教の建築や美術が栄え、それを現代まで遺してきた場所が、京都以外にあることが想像できなかった。
たまたま持ち合わせている知識でいうと、東北といえば初代征夷大将軍の坂上田村麻呂が攻めた場所であり、都からも遠く、度重なる飢饉に悩まされた農村、といったイメージだった。
だから、これは本当に岩手あるいは東北の方々にはごめんなさいなのだが、由緒ある寺といってもたまたま残ってたから大事にされてるんでしょ、くらいの感覚だった。
なにしろ、移動が途方もなく大変だっただろう当時のこと。京都からあれだけ離れているのだから、大した文化が伝わっているはずがない、と勝手に思い込んでいたのだ。

そういう思い込みってあると思うんですけど、う~ん、どうでしょう?エッヘッヘ。

ともあれ、一度は東北を訪れてみたかったのは事実だし、行くなら寒すぎない時期がいい。
また、逆に言えば、雪深い農村(勝手な思い込みです。失礼。)に、松尾芭蕉をも引き寄せる何かがあるということ。そのことがむしろ興味を引く。

そして実際に平泉を訪れてみたのだが、これが驚いたのなんの。すげーとこでしたわ、中尊寺。

平泉に到着。歩いて中尊寺へ向かう。でもこの章は寄り道の話です。

平泉駅には12時30分頃に着いた。
当初は、駅のすぐ横にあるレンタルサイクルの取扱所で自転車をレンタルして行こうと思っていた。
だが、そこが結構並んでいた。

平泉駅。NewDaysついてます。
左奥にレンタサイクルございます。小さくてすみません。

どうしようかと思って周囲をうろうろしていると、案内板に「中尊寺 1.5km(確か)」と書いてあったので、歩くのが好きなので歩いちゃうことにした。

歩いてみると、やっぱり空気も東京よりきれいだし、右手には山々が見えるし、結構気持ちいい。
5分ほど歩いただろうか。きれいに整備された開けた場所が見えた。
ここは「無量光院跡」といって、もともとは奥州藤原氏3代当主である藤原秀衡が、京都の平等院を模して建てたお寺があったそう。今はその跡だけが残っている。ちなみに世界遺産である。
・・・というのは後から知ったことで、
「なんかの歴史的なトコかな~。でも早く中尊寺行かなきゃ!」
と思って通り過ぎてしまった。

もう400mほど歩いたところ、
「←高館義経堂」
という案内板が。
「無量光院跡」はさっと通り過ぎたけど、「高館義経堂」には寄り道してみることにした。
理由?「何となく」ですよ。このあとちゃんと中尊寺も出てきますから、ちょいとお付き合いくだせえまし。

「高館義経堂」。少し上り坂を上ったところに、急な階段がある。獰猛な虫(蜂!?デカっ!!)の羽音にびびりながら登る。
受けつけで300円を支払って入山。パンフレットももらう。
そう、「義経」の文字があるように、ここは兄である源頼朝に追われて落ち延びた源義経が住み、最期には追い詰められて自害することとなった場所だ。

もちろん、このことは入口付近の看板を読んではじめて知った。
そうか、平泉というのは義経もいた場所なのか。思わぬ出会いに心もオドル。

しかも、松尾芭蕉のかの有名な句「夏草や 兵共が 夢の跡」の句碑もあった。

句碑。半分は読めませんが「や」とか、「夢乃跡」はなんとなく読めますね。

そうか、芭蕉が言う「兵」とは、源義経たちのことなんだ。彼はきっとここに来たときに、戦場での雄たけびや、義経が自害する際の無念をありありと感じたに違いない。今自分が立っている場所も、義経や芭蕉が立ったことがある場所なのかもしれない。

句碑の反対側にある、義経が祀られている義経堂へと向かう。その途中に見える景色の美しさ。奥には山が連なり、山の麓には何枚も何枚も、稲が刈り取られて薄い茶色になった田んぼが広がる。その手前には川が流れている。あぁ、これが『奥の細道』に出てくる「北上川」か。吹き抜けるような気持ちよさにしばし身をゆだねる。

観てください!この景色!
いい景色が見られることがぼくの幸せです。

少し登る。いよいよ義経堂の前に立つ。中には義経の木像が置かれている。礼をして、目を合わせる。

正面に見えますのは、
義経堂(ぎけいどう)でございます。

実は義経堂の手前に、義経関連の資料館があった。そこで少しだけ義経について学んだ。義経が優秀な武将だったということは知っていたが、しかし義経が移動した経路を見て驚いた。本州の大半といっても過言ではないような距離を移動している。この距離をすべて馬か徒歩か、あるいは籠によって移動したのだろうか。そしてこの移動の目的は、おそらくほとんどが「戦い」だったのだろう。義経は31歳で死んだ。しかも、実の兄に追われて。兄のために戦い、兄によって死んだ。全国を転戦する人生だった。31歳で、妻子とともに自刃。一体どれほどの無念だっただろうか。どれほどの苦しみだっただろうか。どれほど恨んだだろうか。どれほど怒りの炎を燃やしただろうか。

そんなことを思いながら、義経の像としばし対峙する。
でも、よくよくその表情を見ていると、意外と「ま、いっか」「やりきったよね」「ぼく、よくやったよね」という、すがすがしい顔に見えてくる。特に目元が涼しい。

31歳という短い生涯だったかもしれないが、これほど太く生きた人はなかなかいない。
人の一生には春夏秋冬があるというが、もしかしたら義経は、たったの31年で、その季節をすべて生きたのかもしれない。

山を下りていく。さっきいたでかい虫に出会わないように、車道を使って下りる。
歴史的な遺産をみて「ふ~ん」ではもったいない。今回は義経が感じられてとてもよかった。
山を下りてみて思った。芭蕉の感動はどれほど深く、濃かったのだろう。
詩をひとつ作っちゃうくらいだから、義経が自刃するときの感情、あるいは戦場での音、人の声、におい・・・そういったものがありありと見えていたんだと思う。

芭蕉はアーティストだね。義経も芭蕉もカッコいいお。

中尊寺に到着。坂がめっちゃ急なんですけど!

高館義経堂からちょっと歩いたら、中尊寺の参道の入口が見えてきた。入口の近くには、金色堂の大きな模型が展示されている。テンション上がる⤴。

入口から参道に入ると、しばらく上り坂が続く。参道には「月見坂」という名前がついており、道の両脇には立派な杉がずらずらずらっと並んでいる。とても清浄な空気。清々しい。

木が立派。空気も清浄。

・・・と思うのもつかのま。ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ・・・!きっ、きつい!まだ半分しか登っていないのに、もう動悸・息切れが!
この「月見坂」、かなりの急坂である。体感的には傾斜はほとんど45度だ。雪が積もったらスノボで滑りたい。いや、こりゃぁお年寄りの方とかホントに滑っていっちゃうんじゃ・・・、と思うくらいの急坂である。それでも、この斜面をゆっくりながら確かな足取りで登っているお年寄りの方もいる。逆に言えば、ここに来て登れるような方はまだ元気ということで、その年齢になっても元気でいられているということが、仏様のご加護なのかもしれない。

ふうふう言いながら登っていく。平日だが、ガイドに引き連れられた団体ささんや、若いカップルもいる。彼らを横目に一人で登るぼく。
傾斜がなくなった。どうやら月見坂は登り切ったようだ。菊や盆栽が展示されているのがよき雰囲気だ。このすぐ先に金色堂があるのだろうか、と思っていたが、実際には何種類ものお堂が並んでいて、ここが仏教の”一大テーマパーク”であることに気づかされる。

可能な限りお堂を見て回った。特に「地蔵堂」というお堂が印象に残った。そこに安置されているお地蔵さまがとても素敵だったからだ。
小さいながら、天まで届くようなスラっとした立ち姿や、どんな人をも優しく見守っていると感じさせるお地蔵さまのその雰囲気に魅了された。まるで、見えない手を優しくぼくの肩に乗せ、「大丈夫だよ」と言ってくれている・・・そう錯覚、いや実感するほどに深く柔らかい優しい雰囲気だった。
この像が当時からあったものかはわからない。仮にあったとしよう。当時の人は極楽浄土に希望を抱いていただろうから、このような優れた像を見たら、どんな人でも――仏道修行をしていない(する機会もない)農民でさえ、ありがたさに心安らいだことだろう、と思う。
それと同時に、人に”優しさ”や”安心”を伝えてしまうほどの雰囲気をまとった仏像を彫ることができる、そんな優れた技術を持った仏師の存在が当時からあったことにも、畏敬の念を持った。
その姿はこちら・・・あっ、写真撮ってなかった。ぜひ、想像で補ってください。ここがぼくの旅の詰めの甘いところ。ご容赦くだせぇまし。

そこからさらに歩いていくと、右側に大きく「中尊寺」と書かれた札が掛かっている門にぶつかった。
とうとう来たか!!高鳴る胸を抑えることもせず、門をくぐる。

門の向こうにはクールな松の木が植えられていて、その向こうに大変立派なお寺がある。これが、例のすごいお寺なのかっ!

これが例のお寺なのかっ!

ここでひとつ白状しておかなければなるまい。実はぼく、このお寺が「金色堂」なのかと思ってました。てへ。
いや、銀閣寺も、銀色じゃないじゃないですか。だから中尊寺も、当時は金色だったけど、もう色落ちちゃったのかなって、思ったんですよ。

じゃあ、あの金色の建築物はなんなんだよって。あ、そっか。こことは別にあるんだ!なるほど!
そう、ここは中尊寺の「本堂」である。本尊は釈迦如来で、大きくて迫力があった。像の高さは約2.7m、台座・光背を含めると5mにも及ぶのだそう。
せっかくなので、ホームページから「中尊寺」の説明を引用しておこう。

中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と、山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院です。

中尊寺HP「境内のご案内」の「本堂」より

(このサイトを見るだけでもかなり楽しめますよ。ひそひそ)

ということで、今見ているのは、本寺の「中尊寺」である。京都のビッグサイズのお寺や成田の新勝寺ほどは大きくないけど、荘厳な雰囲気が漂っている。
この空気をしばし味わったら、また参道に戻り、奥を目指す。

金色の建造物。金色の・・・お墓?

金色堂は「中尊寺」の奥の方にあるようだ。藤原清衡は、どうやら一番おいしいものは最後まで取っておく派らしいということが、別に読み取れない。

金色堂を見るためには、宝物館である讃衡蔵(「さんこうぞう」と読むそうです。読めるかい!)の入口でチケットを買う必要がある。窓口で買うか、現金使用不可の発券機でPASMOなどで買うことができる。大人800円。

金色堂は讃衡蔵から少しだけ歩いたところにある。しかし、その姿は見えない。風雨から保護するため、「覆堂」という建物に覆われているからだ。
しかも、覆堂内は撮影禁止。金色堂は、徹底してその価値が守られている。

階段を登り、覆堂をぐるっと回って、奥にある入口から中に入る。するとそこには・・・。
屋根以外のすべての構成要素に加え、中においでなさるすべての仏像が、黄金に、あるいは白銀に光り輝く、驚異の建造物が存在していた!!
「なんじゃこりゃ・・・」。覆堂内の薄暗い中でライトアップされているということもあるが、それ自体が光っているのではないかというほど明るさを放っている。
金色を基調に、ところどころ白銀が輝いている。それは、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされたという貝殻を使った、精巧な意匠の螺鈿細工によって、柱という柱が飾られているからだ。
仏像を載せている台座も同じように、正面には金の側面の上に三体の孔雀が彫られ、螺鈿細工が施されている。
その真ん中におわしますのが本尊である釈迦如来。両脇に観音菩薩、勢至菩薩、それらをさらに仏像が囲むという、仏像界のアベンジャーズのような豪華な布陣。
そこにいるすべての人が、その圧倒的な存在感に魂を奪われている。
ぼくは斜めから見るしかなく、まず釈迦如来さまから見て右斜め前から見て、次に観衆のすきまをぬって左斜め前に移動し、見た。
全体を見て、部分を見る。どこを見ても、金・金・金、光・光・光である。

こんな豪華な建物を建ててしまおうと思う人は、一体どんな人だろう。どんな願いを持って、どんな救済を期待すれば、このような建物が脳裏に浮かぶのだろう。また、この建物を建てるだけの材料を、一体どうやって買ったのだろう。その材料を買うだけのお金を、一体どうやって集めただろう。
ぼくは、日本史における東北に地味なイメージを持っていた。だが、そのイメージは完全に間違いだったのだ。奥州藤原氏はとてつもなく繁栄していた。今風に言えばとてつもない成功者だと言えるだろう。前澤さんだって、こんなペントハウスは建てないだろう。

しばらくの間、ただただ視覚が驚くに心を任せる。それがおさまってきたことを感じ、覆堂を後にする。
いやーっ、驚いたなー。
中尊寺の清々しい空気を吸い込んだ。

だが、驚きはまだあった。
実際、ぼくは今のところ大絶叫していない。大絶叫したのはこの後である。お楽しみはまだまだこれからだ!

金色堂を見たあとには、旧覆堂(1288年から現覆堂が建設された1965年まで金色堂を守っていた)や、池に浮かぶ弁財天を見たりして楽しむ。

この章だけ写真なしになっちゃいそうなので、
弁財天の写真をどうぞ。

あそうだ、まだ宝物館を見てないんだった。そこに行こう。ということで、チケットを買った讃衡蔵(=宝物館)に入る。

入ったらさっそく、台座も含めて天井まで届きそうな巨大な三体の仏像がお出迎えしてくれる。大きいため威圧感もあるけれども、何事かを祈っているのか、あるいはこの自然界を生み出した永遠の叡智に触れているのか、柔和な表情で目を閉じているため、見ているこちらも安らいだ気分になる。

讃衡蔵の中には、他にも非常に美しい仏像や、金色堂の螺鈿細工の一部や、仏像を載せていた台座の中から見つかった藤原氏の遺品が展示されている。

その、遺品の解説を読んでいるとき(以下はホームページからの引用ですが、同じような文言が館内の解説文に書いてありました)。

昭和25年(1950)には金色堂須弥壇(しゅみだん)の内に800年の間安置されてきた藤原四代公の御遺体の学術調査がおこなわれます。

中尊寺HP「境内のご案内」の「金色堂」より

えっ!?「800年の間安置されてきた藤原四代公の御遺体」ですと!?さっきまで見てたあの台座の中に、1950年まで、奥州藤原氏の皆様、いたの!?えぇー----ー!!!!!!!???????
ごん。痛で。ガラスケースに頭ぶつけちゃったよ。

ここで出ました。大絶叫である。一応言っときますが、もちろん、大絶叫したのは、脳内でごぜぇますので、悪しからず。
ぼくにとって、このことが一番驚きだった。なんと、あの黄金の建造物は、藤原氏4代の「お墓」だったのだ。しかも、遺体の調査によって、年齢や死因、血液型などもわかったという。

さらに、後で調べてみてさらに絶叫した。藤原氏の皆様は、「いた」のではなくて、今もあの中に「いる」のだ。
あの金色堂の中に、900年前の人の遺体が、今もある。そう思うと、歴史の存在がやけにリアルになってきた。
ぼくにとって歴史というのは基本的には想像するものだから、フィクションとあまり変わらない。
もちろん建築物や文化遺産によっては当時のものがそのまま残っていることもあり、それを間近で見ることもあるが、それでも「遺体」ほどのリアリティはない。
彼らは、900年後にも自分たちの墓の前に人々が訪れることを想定してこの建物をつくったのだろうか。彼らの頭の中には、2022年のぼくらの存在が浮かんでいたのだろうか。
そのようなことに注意が向いたとき、900年前という過去が、ぐいっと「今」に近寄ってきた。彼らは想像上の人物ではない。肉体を持ち、声を持ち、この物理世界に一定の空間を占めていたのだ。そのことが一気に実感された。少しめまいがした。

讃衡蔵を出る。ふぅ、もう満足だ。参道を戻り、月見坂を下る。少し脚がぷるぷるする。

平泉、スゲーわ・・・。

この後、同じく藤原氏がつくった毛越寺にも行ったが、読者諸君、もうこの辺でお別れだ。

岩手って、けっこう派手なところじゃないか。派手さに面食らっちまったぜ。
ぼくの今までの固定観念は、見事にひっくり返った。この快感を、ぜひ味わってほしい。

中尊寺では、日本にひとつだけの驚きがあなたを待っている。
平泉に宿りし魂のヒストリー、現地で感じてみては?

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