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片足のない鳩に息子がしたことの話し

昔、まだ幼かった頃の息子の話しです。

アメリカの長い長い夏休みの間に日本に一時帰国した際に訪れたあるお寺。あまりにも暑かったので木陰のベンチで休んでいると鳩がいっぱい寄ってきた。息子は、予想外な行動で寄って来たり突然集団で飛び立つ鳩が苦手だったんだけど、鳩の餌が売られてるのを見つけて「買って」と珍しくおねだり。

最初は恐る恐るベンチの上から餌を投げていた息子。でも突然意を決したように立ち上がって一羽の鳩の元に歩み寄って行ったんだよね、それは片足のない鳩だった。その鳩の前に餌を置いた息子。でもやっぱり怖いからはや足でベンチに戻って来た。

片足のない鳩にわざわざ餌をあげに行った理由をきくと

「他の鳩はすばしっこく食べるけど、あの鳩は早く動けないからこっちに来れなくて食べてなかったんだよ。だから同じだけ食べられるように僕の方からあっちに行ったんだよ」と。

なんだかその言葉に胸がとっても熱くなったんだよね。
これって障害のある人への「機会均等」の精神。
「足がないからかわいそう」という憐れみじゃなく、ハンディキャップを補って他の人と同じように何かを楽しめたり参加出来たりするのが本当の意味での支援なんだよね。

息子はきっとアメリカで「チャビ君、アスペルガーの障害があってかわいそうだから…」じゃなく「チャビ君にとってそうすることが必要だから」と機会均等の為の支援を体験したからこそ、他の場面でそれを自ら実行できたんだよね。

ーーー障害のある人への「かわいそう」という哀れみへのギモンーーー
こんな風にね、障害がある人に「障害があるからかわいそう」「だから助けましょう」という考えで支援をするのは違うんじゃないかなって私は思うんだよね。某24時間テレビなんかは、このロジックだよね。でもね、これだと障害のある人は常に「下」に見下げられちゃうと思うのね。

そうじゃなく、障害がある事で「みんなと同じ事ができない/させてもらえない」からこそ支援が必要なんだと思うんんだよね。だって障害のあるなしに関係なくみんな「対等」な人なんだしね。

ーーー障害のある人の頑張ってる姿をみて「感動」する事へのギモンーーーまた、かわいそうと憐れむのと同じように、障害のある人が頑張って生きる姿に「感動」する人は多いと思うのね。

でもそこから得るものが「障害があっても頑張って生きてる人がいる!だから私も頑張ろう!」ではなく「障害がある人はなぜこんなに頑張らなければ当たり前の生活が出来ないのだろうか…?そんなに頑張らなくても楽に生きていけるように、私にできることが何かあるかな?」であってほしいな。


英語でPityとCompassionは共に「同情」や「哀れみ」という意味なんだけど、実は全く意味合いが違うんだよね。

Pityは「自分があんな風じゃなくてよかった…」だけど
Compassionは「この人の為に私が出来るのは何かな?」という視点。

障害のある人にとって嬉しいのは、哀れみや感動なんかより、後者のCompassionやそれに伴う行動じゃないかな。

だってあの片足のない鳩だって「かわいそうだね…」「あの鳩だって頑張って生きてるんだし私達も頑張ろう」なんか求めてなくて、必要なのはきっと息子が起こした「行動」だったはずだから。

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