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自分の・我が子の障害を受け入れるって簡単なことじゃないんだよね

ちょっと考えてみればわかるような単純なことでも、誰かに言われるまで気づかないってこと、よくあるよね。

ー昨日のnoteの中の一文

「親だって突然自閉症の子の親になったわけで、我が子の事でもどうしたらいいのか、どう教えればいいのかわからない事だらけなんですよね」

に対していくつか「確かにそうだよね」って反応をもらったんだけど、これって私にとって結構な確率で「言わないとわかってもらえないこと」なんだよね。

身体に障害があって生まれてきた赤ちゃんの親は、お腹の中にいた時か生まれた瞬間に「我が子に障害がある」って突きつけられるんだよね。

これに対して発達障害のある子の親の場合、「育てにくいな…」「私の育て方が悪いのかな…」って何年か悩み抜いてから診断を得て初めて我が子に障害がある現実を突きつけられる。

これが、障害の告知を受けた子供だったり、成年後に発達障害だとわかった人だったりだと、もっともっと長い年月を「原因のわからない生きにくさ」に困らされて初めて「自分の障害」という現実を知るんだよね。

でも、何れの場合にしても

「あなたの子供には(あなたには)障害があります」
「はい、わかりました」

そんな単純なものじゃないんだよね。

この「あなたの子供には(あなたには)障害があります」から「はい、わかりました」にたどり着くまでの過程を「障害受容」って言ったりするのね。でもその道のりや長さは人によって様々で、ずっとさまよい続けている人もいる。そしてまた、「はい、わかりました」だけがゴールっていうわけでもなく「頭ではわかっていても、でも何かモヤっとしたものが残り続ける…」って感じで自分や我が子の障害と向き合っている人は多いんじゃないかなって思うのね。

◆障害の受容までの”いったりきたり”長い道のり◆

Understand(理解)とAccept(納得・受容)は表面的には「うん、そうだね」になるんだけど実は全く違うのね。UnderstandとAcceptの間にはいったりきたりの長い道のりがあるんだよね。ちょっとその辺りの「障害受容の過程」への私の想いを今日は説明したいと思います。

<Understand(理解)にたどりつくまで>
例えば発達障害の障害受容は、まず診断を得るまでの得体のしれない生きにくさに苦しんでいた時期を、診断によって「だから苦しかったんだ」って知ることから始まるケースが多いよね。これはまだUnderstand(理解)のちょっと前の段階。

その時には「苦しかった原因を知ってほっとする」感情と「この子は(自分が)障害者だ」っていう現実との間で葛藤があるんだよね。中には「そんなはずはない」って障害の診断を受け入れるのも難しい親(又は告知を受けた本人)だっていてあたりまえだと思うし、例えば発達障害なんて言葉がなかった世代や周囲の「育て方のせいだ」っていう非難の言葉に、我が子の障害の受容とは別に「障害のある子の親(祖父母)としての自分」を受容するのがまず必要な人だっているんだよね。

そして、親が子供の障害の診断を得たところで、今までどう対処していいかわからなかった事の原因や理由がわかるだけで、すぐに対処できてハッピーな生活が始まるものでもないのね。葛藤の期間を経て、ようやく障害について知識を得て理解を深めようし始めるんだよね。ここまできてやっとUnderstand(理解)が始まる。

そして少しずつ自分がどう関わっていいかわかるようになっていって障害のある子供の生きやすさや笑顔も増え「理解(Understand)」が「納得・受容(Accept)」に変わっていくんだよね。

<Understand(理解)からAccept(納得・受容)までの道のり>
少しずつ発達障害の理解を納得・受容に変えていくのには、何年もかかって当たり前だと思う。子供が障害の特性でうまくいかずパニックを起こしたり、自信をなくしたり、大変な思いをする姿を見る度に、親の我が子の障害への受容は後戻りするんだよね。

もちろん障害のある本人だって、苦しいだけの毎日を受け入れられないよね。

発達障害のある子供も、告知をされて自分の特性や苦労の理由を「理解」できても、自分の障害を「納得」して「受け入れる」のには相当時間がかかって当たり前だと思う。うまくいかない度に障害を否定したくなるし怒りたくもなると思う。だからね、「できる!」っていう経験が障害の受容には不可欠なんだよね。

<障害の受容にとって大切な”できる”という経験>
障害の受容って、日常に「できる!」の経験を増やしたり、折り合いを見つけていく事なんだと思うのね。そしてその折り合いは「諦め」ではなく「納得」であってほしい。「障害があるから仕方ないよね」といった諦めの折り合いじゃなく、「障害があって他の子と同じ方法では無理だけど、この方法でならできる」っていう納得。

障害を持ちながら色んな事に順応していくそういった経験が、その人を「受容」に向かわせてくれるんだと思うんだよね。それは「対自分の障害」だけではなく「対周囲の無理解」でもあるはず。

だから障害の受容ってね、「障害を持っていても生きやすい社会」がどれだけ確立してるかに大きく左右されると思うんだよね。障害を持っていてもさして生きにくいわけじゃなかったら、その障害は「生きる障壁」ではなくなるし、障害の受容も比較的に容易になるんだと思うのね。だからね「障害の受容」って本人や親の努力だけに責任を押し付けちゃだめなんじゃないかなって私は思うんだよね。


こんな風に、自分の・我が子の障害を受け入れるって簡単なことじゃないんだよね。その道のりがとっても短い人もいれば、ずっと迷走し続けている人だっている。少なくても、障害の診断を得てすぐ「はい、わかりました」ではないんだよね。もっと言うなら、障害を受容できないでいる人がダメっていうわけでもないんだよね。

だからね、もし誰かが障害の事で悩んでいたら、障害の診断自体を否定したり、「そんな風に見えないよ」って信じようとしなかったり、逆にその人や親が障害を受容することを無理強いするのは控えてほしいなって思います。

もし「力になりたい」って思ってくださるなら、障害のある人の普段の生活や、学校や、職場のような日常に「できる!」の経験を増やすお手伝いをして貰えたらなって思います。よろしくお願いします。

たくさんの方々に読んでいただいたり、支援方法を参考にしてもらえたらと思い記事を無料公開していますが、 今までもこれからも勉強を続ける私の為に「投げ銭」という形でご支援いただければすごく励みになります。 よろしくお願いします。