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ディスレクシアの子が教えてくれた、特別支援って「困っているから助ける」の延長だってこと

今日は、息子の親友アダムのお話し。

アダムにはディスレクシアがあって、小学校から学習障害の子供専門の私立に通ってたんだよね。
でも、そこの学校での授業がアダムには簡単すぎてつまらなくなってきて、息子の通う公立中学に転校してきた。

一つ年上のアダム。でもなぜか息子とウマが合って、転校してきてあっという間に仲良しになって家族ぐるみでの付き合いが始まったんだよね。

昔、アダムの事をツイートしたことがある。
字が四方八方に飛び散るように見えて読み書きに時間がかかるディスレクシアのあるアダムが、放課後残って科学の先生に手伝ってもらって社会のクラスの論文の宿題を仕上げてた。口頭で伝えるアダムの言葉をタイプする先生。あっと言う間に5枚の論文ができあがった。それを見てたビリーが「ずるい!僕も言うだけだったら簡単にその課題が終わるのに!」と文句を言ったんだよね。

そしたら先生が、「じゃ、タイプしてあげるから言ってごらん」と。でもビリーは言葉が浮かんでこなかった。で、先生は「この方法はアダムには必要だけどビリーには合わないみたいだね。でも宿題で困ってるならいつでも相談にのるよ。何かいい方法がみつかるかもしれない。いつでも頼っておいで」と。ビリーはそれで納得してたそう。

それを見ていた息子が私にきいたんだよね。なぜ先生は「アダムにはディスレクシアって障害があるから特別な方法が必要なんだ」って言わなかったの?と。

『それは多分「ディスレクシアがあるから助ける」のじゃなく「アダムが困ってるから助けてる」のであって、障害の有無関係なく困ってたら誰だって助けて貰えるって事をビリーに伝えたかったんじゃない?』という私の説明に納得した息子。

「困っている人がいたら助ける」ってシンプルな事のはず。でも先生が障害のある子だけ支援すると「ずるい」と言う子がいる。ズルいと言う子は多分「助けて貰えてない何か」を抱えてるのかもね。でも、障害の有無関係なく「自分が困っている時に個別に対応してもらえて解決した経験」が増えれば、個別に支援を受けている子に「それは必要。よかったね」って理解が進むのかもって思う。

実際、息子がIEPで保障されていること、例えばテストを静かな別室で受けたり、試験時間を延長してもらえたりしてるのを知った息子の友人達は「それがチャビに必要なら、そうしてもらえてよかったね」と言ってくれる。それはきっと、その子達が学校で「個別に対応してもらえて解決した経験」があるからこそだと思うんだよね。

話を戻すと、去年私立高校を受験したアダム。そこの学校には特別支援(Special Education)のサービスはなく、受験も支援なしで自力で受け、今も支援なく授業を受けているアダム。頭は凄くよくて、IQ的にはその学校に余裕で受かるレベルの賢さだったんだけど、いかんせん文字の読み書きにハンディキャップがあるせいで、補欠合格でギリギリ滑り込みで入学できたアダム。

でもあえてアダムにとっていばらの道であるその学校を選んだのは、「教育を終えて社会に出た時に、なんとか道を開けていける自分になっているように、自分の武器である”勉強ができる事”を伸ばして、今から準備しておくべきだと思ったから」と。

人一倍予習と復習に時間をかけて努力し、家族、先生、友人の協力のお陰もあって、今でもトップクラスの成績を維持しているそう。それも「困っている人がいたら助ける」が根付いているからなんだろうなと思うのね。

アダムファミリーと一緒にハイキングにいったんだけど、「将来を見据えて今から準備しろよ」ってチャビに一生懸命説明してくれてるアダムがとっても頼りがいのある高校生になってたのが嬉しくって、それを書き留めておきたかったから書いた今日のnote。

たくさんの方々に読んでいただいたり、支援方法を参考にしてもらえたらと思い記事を無料公開していますが、 今までもこれからも勉強を続ける私の為に「投げ銭」という形でご支援いただければすごく励みになります。 よろしくお願いします。