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発達障害を持って生まれる人が増えたのか、発達障害の人にとって生きにくい社会になったのか

息子が「アスペルガー症候群、又は高機能自閉症」と診断されたこと。
それは、私だけでなく、私の親やその親戚たちが初めて「アスペルガー症候群」という言葉を知るきっかけになったんだよね。

私の親戚は、年に何度かみんなで集まる事が多かったから、私は自分側の親戚には包み隠さず息子の障害のことを話したし、どんな時に困って、そういう時にどんな風にしてくれたら助かるかを伝え続けたんだよね。

最初は戸惑いを隠せなかった親戚たち。でも息子への理解は、意外な形で広がっていったんだよね。

それは、親戚たちの中の何人かが「自分も(我が子も)アスペルガー症候群かもしれない」って気づいた事。その中でも私の叔父は、実家で農業を営んでいた時は何も問題なく生きてこれたのに、ある会社に就職してから生き辛さをかかえるようになって苦しみ続けてたんだよね。その原因がきっと「自分の中にあるアスペルガーの特性だ」って知って自分の生き辛さに納得ができたらしい。

発達障害と診断される人は増え続けているんだけど、私は叔父をみていて思うのは、「発達障害の特性を持って生まれる赤ちゃん」が増えているというよりは、その数にはそんなに違いはなく「発達障害の特性をもって生まれてきた人にとってこの社会が生き辛いシステムになってきている」ことの方が「発達障害の診断を得る人が増えている」要因になっているんじゃないかなって思うのね。(もちろん、考えられる要因は他にもまだまだあるんだけど…)

戦後しばらくは農業などの第一次産業、物を作る製造業等の第二次産業がメインだったよね。そういう社会では、人とのつながりよりも「物」との対峙で仕事が全うできる選択肢が今より多かったんじゃないかなって思うのね。叔父が「生きやすかった」って言ってた農業に従事していた時代はまさにこの頃だったのね。

発達障害、特に自閉症の人にとって好きな事って、誰かとスポーツをしたり遊んだり、ランチ会や飲み会といった「人」との関わりを求める事より、電車・車といった「物」に偏りがちなんだけど、だからこそ「物」と対峙した時の集中力・能力・知識が長けているケースが多いんだよね。それは「物」との対峙だと「人」との対峙のように「ゆれ」の部分が少ないかもしれない。

だから製造業といった第二次産業がメインだった頃には、発達障害の人たちには適切な「居場所」が今よりもより多くあって「生きにくさ」が露呈される機会が少なかったのかなと想像するんだよね。

でも機械化が進み「物」と向き合う人手の需要が減り、今の経済を支えているのは「サービス業」。「人」と向き合う機会が圧倒的に昔より多い社会だよね。発達障害の人には、例外ももちろあるけど、たいてい最も苦手な分野なんだよね。だから生きにくさを持っている発達障害の人の居場所が減って「生きにくさ」を声に出す人が増えてきて、それが診断増に影響してるのかな…と。

最近では、発達障害の人に対して「サービス業界で仕事をする為のスキル講座」的なものもあり、それを望む人には可能性が広がってきていると思う。でも一方で、「発達障害の人たちがありのまま/自分の特徴を活かして」活躍できる居場所作りにももっと意識が向いてくれたらなぁと思うのね。

こんな風に考えるとね、発達障害ってつくづく「環境が作り出す障害」「関係性で作り出される障害」なんだな~と実感するんだよね。

言い換えると、いつも言ってる様に、発達障害の人の障害といわれる部分の多くは、周囲の理解も含めた「環境調整」で緩和されたり、長所になったりするんだよね。 

「生きやすい居場所作り」 

これを、発達障害を持つ本人の努力によるスキル獲得以外に周りの人ができる大切な事として考えてもらえる機会が増えればいいのにな、という想いを伝えたくて書いた今日のnoteです。よろしくお願いします。

たくさんの方々に読んでいただいたり、支援方法を参考にしてもらえたらと思い記事を無料公開していますが、 今までもこれからも勉強を続ける私の為に「投げ銭」という形でご支援いただければすごく励みになります。 よろしくお願いします。