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私がベジタリアンを目指すのを辞めたわけ。

生まれて初めて農業のお手伝いをした。

鹿児島県で2週間、主に行ったのはキャベツの収穫。
芋の苗植えも少しやったな…

農作業中、沢山の虫に出会った。ミミズや蝶々、名前のわからない小さな幼虫。

その時に「動物の死を伴わない作物はほとんど存在しないんだろうな。」と思った。

美味しい野菜には虫がつきものだ。

虫に食べられてばかりでは商売にならないから、見つけ次第殺すこともある。

最近よく耳にするヴィーガンやベジタリアン。

私自身ヴィーガンでもベジタリアンでもないが、それらのライフスタイルは素敵だと思うし、実際に行える人を尊敬する。
 
私は以前、ベジタリアンを目指していた。
 
お肉を食べる曜日を決めたり、自分で選んで買えるものは出来るだけお野菜ばかりにしたり…

その理由は主に倫理面からだ。


植物も動物も生き物であるけれど今の科学でわかる範囲だと動物は明らかに殺されるのを痛いと思い、殺されることを嫌がっている。

人間はお肉を食べなくても生きることはできる。(健康的に生きれるかどうかは賛否あるだろう。)

倫理的には食べない、もしくは食べるのを減らした方がいいのではないかなと…

そして、牛や豚など食べるために生まれさせ、狭い場所で一生過ごさせるといったところも考えていきたい問題だと捉えていた。


私が訪れた鹿児島県は畜産業も有名で、実際に畜産農家に訪れたり、話を聞くこともできた。

柔らかく美味しい肉牛を作るには、筋肉よりも脂肪。

私が実際に聞いた話によると、やはり運動はあまりさせないらしい、そして餌には出来るだけビタミンAを与えない。(ビタミンAは必須栄養素であるため健康に悪影響を及ぼす。)

牛がぶくぶく太り、倒れる寸前でお肉にする。

もちろん、人工授精も行われている。

農家さんによって家畜の育て方は様々であるが
この育て方は生きる権利が軽視されているように感じた。

川で釣る魚や山で狩る鹿やイノシシのほうがまだ生きる権利は尊重されているように思える。

たった二週間ではあるが。野菜の収穫を経験し畜産業の話を聞き、わたしが感じたのは

まず最初に、お肉を食べる食べないではなく、生き物が食材になるまでの経緯を見直したいということ。

私は選択できるのであれば多少硬くても伸び伸びと育ったお肉をいただきたい。

先程も述べたように、おそらく、動物の死を伴わない作物はほとんど存在しない。
野菜も何かしら殺されることを嫌がる生き物を犠牲にしている。

どの食材を選んでも私たちは何かを犠牲にしている。

しかし、死は必須条件であったとしても生き物が食材になるまでの時間をより良くするすることは不可能ではないと思う。


最近私は平飼い卵を選ぶようになった。

自由に動き回れる鶏が産んだ卵だ。

私は舌が肥えている方ではないので目隠しをしたら、平飼い卵とそうでない卵の違いはわからないと思う。

しかし、どのような背景で食材になったかという情報がとても美味しく感じさせてくれる。

"美味しさ"は情報であったり思い出であったり、味以外の要素も大きいと私は思う。


私がここで伝えたいのは、何を食べるのが良くて何が間違っているということではなく、ただ舌で美味しいと感じるものだけを求めるのではなく情報のおいしさをみなさんの生活にも是非取り入れていただきたいということ。


全ての生産者に敬意を込めて


ご一読ありがとうございました。

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