共同研究による短歌史再考(後半)【再録・青磁社週刊時評第七十八回2010.1.12.】

共同研究による短歌史再考(後半)     川本千栄

 また、近現代短歌の境目はどこか、ということについて、三枝は次のように語っている。

三枝 前衛短歌と現代短歌の境界は実はなし崩しで、本当言うと前衛短歌が現代短歌の中心にあるというニュアンスでしょう。前衛をどういうふうなかたちで現代短歌と近代短歌の間に置くかというのも曖昧なんだ。だから、そういう用語の安定化みたいなものも必要じゃないかな。

 この発言に立ち止まったのは、今から約10年前の1999年12月発行の『岩波現代短歌辞典』の記述を思い出したからである。その「近代短歌と現代短歌」という項で、三枝は次のように書いているのだ。

 …「自我の詩」は近代短歌の成熟の中で、ことさら強調するのが相応しくないほど、歌人たちに根付いて行った。それを「自己表現としての短歌」と言い直しておけば、これは近代短歌だけの特徴ではない。…見えて来るのは、前衛短歌という思想表現を呑み込んで、自己表現を豊かに太らせる短歌百年の大きな流れである。そこには近代短歌と現代短歌の違いはない。

 三枝の言うように、「自己表現としての短歌」という観点では近代短歌と現代短歌に違いが無いとするなら、その中にどのように前衛短歌が位置づけられるのか。かつて前衛短歌全盛の時代には、現代短歌イコール前衛短歌であり、近代短歌との差異は明らかであった。しかし、現代短歌の最先端に前衛短歌が位置しない現在時点において、前衛短歌とは何かを問い直すことは、即ち現代短歌とは何かを問い直すことにも繋がるだろう。
 こうした全てのことをまとめて、何よりもこの企画のいいところは共同研究である、という点である。これはかつて同誌に連載され、後に一冊にまとめられた「昭和短歌の再検討」と同じである。共同研究にすることによって、お互いの文章やその思想から新たな論点を得たり、間違いや足りない点があればそれを補うことができる。先に挙げた、女性5人による戦後短歌の見直しと共通する考え方である。
 個人的なことになるが、私自身も前衛短歌を全く体験していない世代だ。しかし、今から、十年ほど前、自分が短歌を始めた頃、自分より若い世代で前衛短歌の影響を強く受けていると言う歌人がたくさんいたことに結構驚いた。その強い人気を持つ秘密をぜひ知りたいと思うのである。

(了 第七十八回2010年1月12日分)

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