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『鯉派』Vol.1

昨日には昨日の僕が住むだろう日当たりのいいベランダの部屋 門坂崚 昨日の自分と今日の自分を切り離して感じている。もう昨日は、今からは可視範囲ですらない。手が届かないことが「だろう」で表現されている。

何もなかったことを報告するための滑りやすい坂のぼる何度も 手取川由紀 「歩哨たち」より。タイトル通り歩哨がイメージされている。この一首には戦争を前提とした場面だけでなく、日常生活の徒労感にも感覚が及んでいると思えた。

サンダルのままで歩いてコンビニで買えないものがなにひとつない 藤井柊太 二重否定なのだが、何でも買えるかと言うと少し違う。売っているものは全て買えるが売っていないものは何も買えない。何が売っていないかは想像できない。自分の欲しいものは分からないのだ。

④門坂崚「「私性」試論」
〈例えば、カラオケなどで私たちが歌うのは、常に既知の曲である。それはメロディが内面化されていなければ、言葉をのせて歌うことができないからだ。(…)短歌においては、曲の歌詞だけが毎回違うようなもので、私たちは曲を知っているからその場で渡された歌詞に合わせて「うたう」ことができる。〉
 この例え、とても面白い。短歌の韻律が曲で、テクストが歌詞のようなものだということか。曲が変わってしまうと歌えない、つまり上手く読めない。カラオケの例えがこの論の身体性にフィットしていて分かりやすい。

⑤門坂崚「「私性」試論」
〈身体領域の運動としての定型を擬似的に共有することで、短歌は体感そのものを生々しく伝えうる。あるいは、作者にとって既に定型が身体化されていたがためにこのように読み得たのだともいえる。(…)短歌の私性は「うたう」という行為が身体的な自己表出であるところから発生している。そして、他者の歌を読む者がまたそれを「うたう」のは、それを「私の身体」の内的な運動として「うたい直そう」としているといえるだろう。〉
 このあたりとても納得できる。「うたう」ことの身体性から私性が発生する、作者と読者が定型を共有することによって体感をも授受する、という辺り。単なる情報の伝達ではない、という主張は短歌の本質に迫っていると思った。

2023.12.24. Twitterより編集再掲

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