共同研究による短歌史再考(前半)【再録・青磁社週刊時評第七十八回2010.1.12.】

共同研究による短歌史再考(前半)        川本千栄

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)

 あけましておめでとうございます。2010年の年が明けた。去年まではゼロ年代という言い方がよくされたが、それで言うと、今年から10年代が始まった。何でもかんでも年代で切って考えるのは良くないとは思うのだが、文化は時代の影響を受けずにはいられないものだ。10年ごとの区切りというのも、物事を史的に考える時に、大雑把ではあるが一つの指標となる。
 最近、短歌史を見直そうという動きが感じられる。この週刊時評でも触れたが、2009年7月11日に「今、読み直す戦後短歌」というシンポジウムが行われ、秋山佐和子・今井恵子・川野里子・佐伯裕子・西村美佐子・花山多佳子の6人が戦後短歌史を問い直す試みを行った。2月11日には同シンポの第二回があり、第二芸術論の時代に焦点を当てるとのことである。大いに楽しみだ。
 角川『短歌』では「前衛短歌とは何だったのか」という共同研究の連載が始まった。1月号はその第一回で、連載の書き手である佐佐木幸綱・三枝昂之・永田和宏の三人が座談会をしている。この座談会を読むといやがうえにも連載への期待が高まる。

佐佐木 現在の若い人たちは、短歌にかかわったときから前衛短歌は既成の事実としてあったので、何となくその流れのなかで歌を作ってきているわけだが、その流れの源流、成り立ちみたいなことをこの時点から洗いなおしてみようということが基本的な路線だと思います。…

 座談会の初めの部分で、佐佐木がこのように共同研究の企画意図を述べている。前衛短歌と伴走した世代の一人である佐佐木、前衛短歌の影響を強く受けた世代である永田三枝、この三人だからこその視点と掘り下げが期待できる。単に前衛短歌の成り立ちや史的意義だけでなく、同時代人ならではの臨場感あふれる現場の再生もあるだろう。
 初回の座談会の中では、多くの論点が提出されている。前衛歌人とはだれを言うのか、「第二芸術論」のプレッシャー、前衛短歌が取り残したもの、などよく問題にされているものの他にも、前衛短歌がなぜあんなに評価/否定されたのか(三枝)、表現論として考えるのか思想として考えるのか(永田)、など興味をそそられるものが多数挙げられていた。その中でも特に面白いと思ったのは、受け手として、前衛短歌の主張の読み取り間違いがあったのではないか、という指摘である。

永田 拡大解釈をして、これもだめだ、あれもだめだというかたちで反前衛狩りみたいなものをしてしまった、その当時の歌壇というものがあった。塚本邦雄がリアリティの深化は大事だ、リアリティの追求が本当はアバンギャルドの真髄なんだと言っているところをすっ飛ばして、日常はだめだと言っているとか。われわれは近代はだめだともう刷り込まれているが、寺山が言っているのはそうじゃない。彼がいちばん言いたかったのは、自己相対化ができないのがだめなんだという、そこだと思う。…

 永田の発言によると、近代歌人、特に「アララギ」の歌人たちは、自分の生活を真っすぐうたえばそれが歌だという信仰を持っていたが、それも本当は「アララギ」のテーゼからははずれている。前衛歌人が近代を否定したのは、その信仰によって自己相対化の契機が全く見えない、という部分ではないか、という事である。
 これは現在だからこそ見えてくる点であろう。この短歌時評でも度々問題として挙げた「リアル」や「実感」の問題とも絡んでくるところなので、そうした読み取り間違いを、ぜひ詳しく解きほぐして欲しいと思う。

(続く)

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