あの時、鼻に指をつっこんでいなかったら、私は今このnoteを書けなかっただろう

#あの選択をしたから
夏がくるたび思いだす。
私の「あの選択」は間違いなく2007年8月の夏にあった。

選択がもつ可能性というテーマなのに、ここから先は明るい話は少ない。
たった一つのポジティブな点は、この記事を書いた私――40のおっさんになり、階下の息子たちがブロックを崩している音を聞いている――は、いまここにいるという話。
あの時、鼻に指をつっこんでいなければ、私は今、ここにはいないのだ。


始まり

関西でもそれなりに有名な私大に、たまたま運良く工業高校から進学できた私は、卒業に悩んでいた。
部活動をやり、単位はおとしまくって、最短卒業年数が7年という親の金を吸いまくっていた親不孝ものであった。
その卒業だって、3年次以降に受ける過渡現象論という地獄の単位が取れなければ怪しいところであった。
卒業に自信がもてない。だから、就職活動もおそく、他の人はほとんど内定がでまくったあとでの就活である。
受けられる会社はほとんどなかったが、4社受けた。
一社は子供のころから親しんだパソコンメーカの関連企業で、面接で落ちたことは帰りの電車でわかっていた。
もう一社はコンピュータセキュリティの会社だった。資格もとっていたし、いろいろ興味はあった。しかし、実家に帰ろうと思ったから、内定を頂いた電話でお断りした。
のこる二社は実家から通えるところに工場があった。

鋳物工場の電気主任技術者

三社目は地域でも有数の規模の鋳物工場だった。ここは若い電気主任技術者を募集していた。留年しているが新卒で若く、電気主任技術者免状がある私にとって、魅力的な工場だった。
何せ第2種電気主任技術者が必要なほど、大電力で受電している工場である。
入社時に持っている資格は第3種電気主任技術者でも構わないとのことだったから、数年間実務を経験して2種の認定を受けさせてくれるのだろう。さらに実務経験をつめば第1種電気主任技術者の免状だって貰えるかもしれない。ステップアップができる魅力的な会社だった。
そこで履歴書を送り、夏休みのある日、面接をしていただけることになった。

工場見学と面接

面接を担当していただいた二人からは、丁寧な工場内の説明をしていただいた。製品の製造工程、できたものを見せていただいた。
一人は電気主任技術者だったから、就職後の職場となる受変電設備についてもフェンスの外から見せていただいた。やはりデカかった。実務を経験していない私には大きさしか判らなかった。
そして、面接。話は面白く、とんとん拍子で進んだ。当たり前だろう、私はいいところに就職したい。あちらはいい人を採用したい。
留年しまくりの私が優良な就活生だったかといえば怪しいが、在学中に取得した電験3種の免状は優良な人材の目安の一つだったのだろう。
午前中で面接が一通り終り、私は帰ることになった。結果はまた後日とのことだった。
近隣のエリアはバスがほとんどない。地方都市で、工場が集約されているようなところは通勤者の9割が自家用車で通勤するから、バスなど通すだけ無駄なのだ。もよりのバス停に次のバスがくるのは16時台だから、4~5時間ある。周りには時間をつぶせるような喫茶店などはない。
親は交通事情を判っていたので、タクシー代をくれていた。小遣いにしようと思ったが、そのために耐える夏の暑さと慣れぬ革靴の歩きにくさは玄関をでた私の心をあっさりと折った。鋳物工場の正門の外でタクシー会社に電話をし、配車をお願いした。15分くらいでくるとのことだった。
面接の出来、仕事の内容、将来得られそうな資格と給料、卒業の可否を色々と思ったとき、ふと鼻の奥がむずがゆいと思った。

さて悩む。家でならちゅうちょなく鼻をほじっただろう。しかし、ここは就職したい会社の正門前だ。周りには人はいないけど、どこかで工場の人に見られているかもしれない。タクシーが来たら、タクシーの中でほじるか?
いや、それだってはずかしいじゃないか。しかし、家でほじるまで我慢できるか?
鼻の奥のむずがゆさをとるか、それとも恥をとるか。究極の選択だった。

そっとハンカチをだしながら

私は母親がもたせてくれたハンカチを取り出し、左手でもった。
それで覆いかくしながら、鼻をほじる。これなら見られても恥は少なかろう。ギリギリ失礼でもないだろう。
そうして、私は右手ひとさし指を鼻に入れて、かゆみをおさえることにした。存分に鼻の中をさわり、そっと引き抜いた。
その時の私は、一瞬で気持ちが引いた。抜いた右手のひとさし指が、真っ黒になったからだ。えー? なにこれ。
ティッシュで指先を拭い、さらに反対の鼻の中に丸めたティッシュを差し込む。何度かひねって抜く。やっぱり黒い。
「……鋳物工場のほこりかな」
工場の名誉のために書いておくが、工場見学の際にはきちんと3Mの粉塵マスクをくれたのだ。それを付けていてすら鼻が黒い。製造現場の外でも微粉が舞っているのかもしれない。
しかし、たった数時間いるだけで、こんなに鼻の奥が真っ黒になるのなら、就職後何年も微粉を吸いつづけることになる。
塵肺になるかもしれないし、この微粉が目や皮膚に沈着すれば、別の病気になるかもしれない。
その一瞬で、今でたばかりの工場への憧れが消えた。面接の出来がよかろうと、電気の仕事ができそうだろうと、試験では取るのが難しい資格が貰えそうであろうと、将来の病気の可能性を感じさせるティッシュの黒ずみにはかなわなかった。
内定を頂いたとしても、ここでは働けない。4社目、何とか合格しよう。そう決めた。

4社目でも内定を頂いた。

鋳物工場での面接の翌日、私は大阪にいた。4社目の工場は鋳物工場にちかいが、面接は大阪の本社で行うからだ。
面接が終わればそのまま、京都の下宿にもどるつもりだった。
ここでも、後の上司と面接をしてもらい、その場で二次面接となって社長や専務、採用後の所属となる部門の部門長と面接をした。
社長は夏の暑さに負けぬくらいの暑い人で、励ましの言葉を頂き、涙腺の弱い私は我慢できずにハンカチで涙を拭った。
「どうしたんや?」と専務に問われ、「いい御言葉を頂きましたので」と答えた。この答えは専務が社長となった後も、折にふれて「ちゆまるくんは上手いこと言うからな、涙を流して採用されたんや」といじられる原因にもなった。
一次面接即座に二次面接、そしてその場で「もしよかったら内定だすけど、どうだ?」と問われたので、私は「お世話になります」と答えた。
それが、今も勤めている会社に入社を決めた瞬間だった。

もろもろの手続の話や書類を頂き、新卒として採用するから近い内に実施する内定者の会社見学会にくるように、と言われて会社を出たのは16時過ぎだった。
本当にビルから出た瞬間に、電話があった。鋳物工場の電話番号だった。
「ちゆまるくん、この間は面接に来ていただいてありがとう。内定を出しますがどうですか」とのことだった。
ありがたいことだった。だけど、もう鼻のあなから引き抜いたティッシュを見たときに決めていたのだ、鋳物工場には行かない。
「内定を頂けるとのこと、ありがとうございます。しかし、本日、他社に内定を頂き、応じることにしたので。申し訳ございません」
決めていたけど、そうやって断わるのは心苦しかった。
面接をしてくれたかたは頑張ってくださいとの励ましを下さった。

就職して一ヶ月後の運命

無事卒論も通り、過渡現象論も60点でクリアできた私は大学を卒業できた。そして、4月1日の入社式を迎え、1週間の新入社員研修を終え、業務研修を受けていた4月の終わりのある日。
その日の業務研修は、研究部門での実習であった。1年先輩の指導の元、実験を進めていたとき、実験室の照明がチカチカした。エアコンやドラフトもすこしの間とまった
私と同期、先輩は「停電かな、なんだろうねー」などと軽いおしゃべりをしていた。

その時の私は正門前で鼻をほじった会社のことなど、完全に忘れていた。

しばらくすると、救急車の音がした。田舎もんは救急車の音に敏感である。私も実家では家より奥の地域にいったか、とかうちの下にとまったとか、すごく気にしていたものである。
その救急車の音が近付き、遠ざかっていく。あー、うちの会社ではないんだー、どこかなーくらいの思いで聞いていた。

昼休みになり、しだいに状況がわかってきた。
「近くの会社で事故があったらしい」「3人が死んだらしい」「いや、1人だ」
物騒なはなしであった。

詳細は地元紙で判った。
あの鋳物工場で死亡労災が発生していた。事故の内容は、特別高圧受変電設備での感電死。新入社員への教育のため、キュービクルの中を見せていての事故だった。
死者2名、重傷1名。
亡くなった一人は、入社1ヶ月目の、教育を受けていた新人だった。
特別高圧受変電設備で教育を受けるのは、電気主任技術者だけだろう。つまり、私が内定を断わったあとに就職を決めた新人が、研修中に亡くなったのだ。
もし、あのとき、私が鋳物工場への就職を決めていたなら……鼻をほじっていなかったら、鋳物工場の電気主任技術者になろうとしただろう。そして、4月の終わりに25歳で死んでいたかもしれない。

なぜ実験室の照明がチカチカしたり、エアコンなどが少しとまったのか。理由は鋳物工場での感電死にあった。
おそろしい話だが、特別高圧受変電設備で感電すると、人の体に数万ボルトの電圧がかかり、地面にむかって電流が流れる。
大抵の場合、電気の流れている電線に人が触れる直前に、電線と人体の間で微小な放電が発生し、それが一瞬の内に大きく育つ。
アーク放電の発生だ。千度を超える高温で人体を焼いてしまう。そんな放電が発生すると、地域一帯の電流が全部そのアーク放電に食われてしまうのだ。
結果、電圧が極端に低下し、周囲で停電が発生する。
だから、鋳物工場での事故のときも、直接関係のない会社で停電が発生したのだ。

今、思うこと。

就職して2年目から、電気主任技術者として選任を受けた。その日から14年が経過し、ときどきあの日のことを思いだす。
鼻の穴のくろずみ、実験室の停電。
電気主任技術者として経験を積んできて、いろいろとトラブルもあった。講外の電線にムクドリが接触した結果、完全に停電したこともある。
真空遮断器の電動モータがエンドレスで止まらなくなり、ずっとキュービクルのなかでドガーン!キュリキュリキュリンムムムドガーン!と暴れまわったこともある。
最初のループ切り替え操作で、切ってはいけないスイッチを切りそうになったこともある。
(専門用語では、VCB開放前のDS開放、DS生切りと言う。これをやると下手すればアーク放電が発生し、機械を焼いたりする。実際にはインターロックで防止される)
参考: カフェジカさんの動画実例動画 どちらもグロいのはないけど、実例は衝撃的かもしれない。

あの鋳物工場で働いて、認定をもらおうと思った第2種電気主任技術者の免状は、今の勤務先での経歴でも認定を貰えた
就職したころには思ってもみなかったが行政書士試験も受けたし、合格できた
給料も悪くなく、30代で結婚でき、二人の子どももできた。35年ローンのマイホームに引越してから生まれた長男は私のことを電脳の神だと思っていて、「僕も電脳の神になる」というから、この8月にパソコンを与えた。

そんな幸せは、もしかしたらこなかったのかもしれない。

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