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季語「新酒」のこと

1 酒にまつわる季語を見てみる
 今回の俳句ポストの兼題は「新酒」です。
 私が外出時に携行している俳句歳時記(角川ソフィア文庫)では、「新米で醸造した酒」と実に簡素に記述されています。
 
 その後、「かつては収穫後の米をすぐ醸造ため、新酒は秋の季語とされた」とあります。

 読み進めてページをめくると、新酒の次に記載されている季語が目に入りました。「濁酒」でした。「濁酒」の次は「猿酒」、その次は「古酒」と、四連続で酒の付く季語が出てきます。
 「そういや、夏なら『冷酒』とか『ビール』も季語だったし、冬なら『玉子酒』とかがあった。もしかすると酒に関する季語って、思いのほか多いのか?」
 そんな考えに及び、手軽さもあいまって、俳句歳時記の新年・春・夏・冬もざっと見てみたところです。主季語として紹介されているのは、

新年:屠蘇、年酒
春 :(浅学ながら主季語として紹介されているものは見当たらなかった)
夏 :麦酒、梅酒、焼酎、冷酒
秋 :新酒、濁り酒、猿酒、古酒
冬 :熱燗、鰭酒、玉子酒、寝酒

 と色々出てきます(もう少し大きな歳時記だと「葡萄酒醸す」等の季語が引けますが、ここではまずは置いておきます)。
 傍題まで広げると、なお沢山の酒が出てきます。主季語として「○○酒」が無かった春でも、「雛祭」の傍題として「白酒」、「花見」の傍題として「花見酒」が出てきますし、他の季節でも、例えば夏なら「蝮」の傍題の「蝮酒」、秋なら「月見」の傍題の「月見酒」、などなど、酒にまつわる季語は多いと感じられました。

 季節ごとに催される行事での「花見酒」「月見酒」、あるいはある季節に仕込まれる独特な酒(例えば「蝮酒」)。酒について、俳人であり詩人が何かしら感ずるところがあるのでしょう。ただ、ここまで酒に関連する季語を探してみると、俳人や詩人には呑み助が多いのかと思ったりします(実際、尾崎放哉あたりは呑み助を通り越して酒乱の気も合ったようで)。

2 初物は神に捧げる
 「新酒」について、角川大歳時記を見ると、はじめに「今年とれた新米で造った酒」とあります。

 私を含め、ある程度の年代以上の方なら稲作が全国的に広まったのは弥生時代と習ったはずですが、唐突に稲作が現れることには違和感を覚えます。

 どうやら、縄文時代よりも前の時代に、野生のイネの種をまいていた人がいたようです。
 水田での稲作が始まったのは縄文時代。全国的に広まったのが弥生時代、という感じでしょう。
 一口に稲作と言っても、水田や水路づくり、ただ種を蒔くだけでなく苗を作って植えるという技術や知識が伝播されたはずで、米作りを受容した時代が弥生時代、ともいえるかもしれません。

 稲作は、弥生人は朝鮮半島や山東半島を渡って日本へ来たといい、合わせて、農耕の神様への信仰、そして米を原料とした酒をもたらしたとか。
 「弥生時代のかなり早い時期から、(中略)祭祀に使われたらしい土器が」(伊藤善資編著 洋泉社「江戸の居酒屋」P15より)見つかっているそうで、米作りが本格化する前の季節に豊作祈願の祭りがあった様子。
 この祭りでは、米を用いた酒も神に捧げられていたといいます。
 そして、豊作祈願があるならば、豊作の報告もあるはずです。秋にはその年の初穂を神に供え(初物には神の力が宿ると信じられていた)、そこに御神酒も添えるお祭りがあったようです。
 このお祭りを通して翌年の豊作も願ったのかと思います。

 豊作祈願と豊作の報告の時の祭、ここで神に捧げられた御神酒が新酒の原点か?とも思いましたが、いやいや、酒には醸造の時間も必要だぞ……と思うと、原点とは言い切れません。

 「初穂」という単語。これには、米に限らず、漁で初めて獲れた魚とか、初めに取れた山菜や果物等、稲に限らず初物は初穂として神様に捧げられていたようです。つまり、新しい(シーズンを通して初めての)ものは神へ捧げるもの、なぜそうするのかは、収穫への感謝であり、次のシーズンへの願いを込めたものだったのでしょう。もしかすると日本酒についても、今年初めて取れた米で作った酒、もしくは新米で造った酒を「初穂」として捧げていたのかもしれません。

 そして「新酒」とは、出来上がった物だけを見れば、単にその年に取れた米で作った酒ということになりますが、「初穂」のように、初めてできたものを神に捧げるという風習から考えると、「今年も酒ができました」と神様に報告する飲み物だったかもしれません。

 豊作を祈ったり感謝する祭祀においては、神様への捧げものを神職者や祭りの参加者が飲食したといいます。神と同じものを飲み食いする行為は「神人共食」と言いますが、この行為を通じて、神と人はより親密な関係となり、神が祭祀の参加者への加護を強めてくれると思われていたといいます。そしてまた、神だけでなく、「同じ祭祀で同じものを飲み食いした仲だ」と人同士のつながりも深めたのかもしれません。

 季語「新酒」には、神への感謝や祈り、そして結びつきを願う、日本人の精神性が込められているかもしれないな、と思った次第です。

3 噛み酒の話(2の補足)
 雑談から入りますが、私は祖母から「米(ごはん)は100回噛んでから飲み込め」と言われたことがあります。
 祖母は、大正一桁生まれで、太平洋戦争時下の食糧難を、大工の妻であり、4人の子どもの母として過ごしました。
 そんな祖母からの教えですが、これは、少ない食料を沢山食べたという気分にするために、よく噛むことで満腹中枢を刺激して満足するという理由があったかもしれません(孫にはこう教えつつも、飯が遅い奴は出世も遅いと、いかにも職人の妻らしい発言もあったりで、この辺りの矛盾も含めてのばあちゃんでした)。
 戦時、配給米なるものがあったそうですが、祖母からそれがどんなものだったか聞いたことはありません。父によれば、玄米食だったかもしれないとのことです。玄米は消化に良くなく、良く噛まないといけないものらしいですね。
 今では、祖母も父母も亡くなったので、誰かに戦時下の配給米がどんなものだったか、それ以前に戦時下の仙台市郊外の食料事情がどんなものだったのか、誰かにパッと聞くことも出来ません。祖母の言う「100回噛め」の真意は何だったのかとも思います。
 
 今の時代で、飯を良く噛み、100回も噛むことはまず不可能だと思います。大体において、ごはんは柔らかいし、意識して100回噛もうとすると自分だとクチャ食べになりますし、口を閉じていても米と唾液がなんかの機会で漏れそうになります。ばあちゃんごめん、俺には無理だった。

 一方、100回という回数は求めませんが、ごはんをひたすら口の中で噛む経験は、やってみてほしいなぁと思います。
 ごはんをひたすら噛んでいると、甘みが感じられるようになります。気持ちの上だけでなく、本当に甘くなっています。これは祖母の教えを尊重したいという気持ちの問題ではなく、科学的根拠があります。

 米をひたすら噛むと、口の中で何が起こるのでしょう。
 口の中には唾液があります。食物を目にすると刺激され、食物を噛むことで唾液は大量に分泌されます。そして、唾液には酵素(アミラーゼ)が含まれています。この酵素が米に含まれるデンプンを糖分に変え、甘みをもたらしてくれています。米を良く噛むと甘くなるのは気のせいではないのでした。

 そして、デンプンから糖分に変わったモノは自然の中にある(空気などにいる)酵母と結びつきやすくなります。よって、モノを口から出して集めてると発酵します。そしてできるのが「噛み酒」です。

     はっきり言って、「キモい」というのが第一の感想。誰かがさんざん咀嚼して吐き出したものを口にするというだけで抵抗感ありまくりです。

  でも、思い出したのです。 親鳥が餌を得て、素嚢にため、吐き出したものを雛にあたえるとか、人もまた、親が良く噛んだ米とかを離乳食として与えられるケースがあります(リンクは張りませんが、「離乳食  親が噛んで」とググると結構引っ掛かってくれます)。

 噛み酒がどんな経緯で生まれたかまでは、今回探れませんでした。一方で先に記した神人共食との関連はあるようで、神と人間の媒介人である巫覡(いわゆるシャーマン)という存在が、噛み酒を作ったようです。初物を神に捧げるという精神はこの辺りにも窺えたところです。


4  新酒から秋の季感が薄れたわけ
 話を歳時記に戻したいと思います。
 新酒について、角川大歳時記を引くと、「昔は(中略)新米の収穫後すぐ醸造したので、新酒は秋のものだった」と、わざわざ秋を強調した記述があります。さらに続きを見ると「現在は寒造りが盛んになって、新酒が出廻るのは二月頃なので、秋の感じは薄れつつある」とあります。
 確かに、私も新酒=寒造りのもので、出回るのは立春あたりというイメージがあります。何年何月何日頃と示すことが出来ないのですが、厳しい寒さを感じる頃に、地元のニュース・あるいは全国ニュースでも、新酒が流通されたなんていうニュースを見聞きすることが確かにありました。

  どうして「新酒」の季節感が秋とは限らなくなってしまったのか。

  まずは日本酒の醸造法について。「日本の食と酒」(吉田元・人文書院)という本によれば、「酒造法は江戸時代元禄期までに確立され、基本的にはほぼそのままの形で受け継がれている」とあります。噛み酒が原点だとしたら、江戸時代まで酒造法の変遷を辿ると良かろうと思いました。

 ※1(・・・と書いておきつつ、 そこに至るまでの経緯を記すと膨大な文章量となるので思い切ってカットしました。日本酒の醸造の仕方の歴史を紐解いていくだけでも面白いのは確かです。例えば、平安時代に既に清酒があったとか、大寺院でこそ酒の醸造の仕方が研究されていたなど、興味を持てる方なら資料を探してみると良いと思います)

 酒の造り方が江戸時代から現代までほぼ受け継がれているというのならば、現在の日本酒の造り方も参考になるはずです。そこで、「日本酒 造り方」でググって出て来たリンク先を2つばかり挙げます。

1 日本酒の造り方は複雑? 醸造の工程をわかりやすく紹介【日本酒の基礎知識】|たのしいお酒.jp (tanoshiiosake.jp)

2 日本酒ができるまで~「日本酒の製造工程」|オエノングループ (oenon.jp)

 基本的に、日本酒は酛(酒母)、麹、蒸し米、水を合わせて、発酵させて醪(もろみ)を作り、それを絞って出て来た液体のことを指すといっていいでしょうか。
 この中の、麹。これは、米を蒸したものに、コウジ菌がくっ付いてできるものです。
 日本酒も広義では発酵食品の一つと捉えれば、日本酒造りに適した菌だけ残して、他の雑菌は防ぎたいところです。
 でも、菌類は高温多湿な夏場に増えます。
 酒母や麹といった酒造りに必要なものも、「菌」です。高温多湿な夏に増えやすい。では、そんなところで酒を仕込めば?とも思いますが、役に立つ菌だけでなく、時により人の体を蝕みもする雑菌も生まれやすいのが夏です。
 日本酒造りに役立つ菌が活性化し、酒の出来上がりが早くなるのが夏ではあります。でも、この季節では雑味の多い・雑菌が米に付着してできた成分・下手すれば酒を呑むことを介して何か病にかかるリスクのあるもの、そんなものも考えないといけません‥‥‥俳句をやっていると、夏の季語に「黴」なんてものがあることからも、分かる通りで。

 ここで寒造りです。
 酒造りに欠かせない酵母は、寒い中でも発酵という仕事を果たしてくれる、いわば寒さへの耐性があるようです。一方、酒の味を悪くする雑菌たちは寒くて活動を辞めてしまう。
 この特徴を捉え、酒の造り方が確立され、大量生産まで行ったのが元禄時代かと理解することとしました。

 江戸時代(元禄時代)までに確立した酒の醸造法、寒造り。
 これについて、(寒造り - Wikipedia)を頼ると、「寛文7年(1667年)、当時もっとも酒造技術が進んでいた伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良し、この寒造りが確立されたより」とあります。さらに、「すると延宝1年(1673年)、徳川幕府は酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止するに至り、その結果四季醸造は衰退への一途をたどり、寒造りが醸造法の主流となっていった」と続きます。

 ウキペディアには『酒造統制の一環』とありますが、酒以前に、徳川幕府(要は政府)としてみれば、民衆の主食たる米を流通させる義務が生じていたと思います。
 で、一通り各地で米が収穫され終え、その量について報告を受ける。
 幕府としては、市井に一定量の米を流通させないといけない。
 その量を計算した上で、「これくらいなら酒造りに使っても良いよ」と示す。
 ちょうど、この示しと寒造りの時季が重なっていたのでしょうか。

 ともあれ、技術により美味い酒ができる頃合いと、米の出来高を把握して流通量を調整したいという政治の思惑が一致してしまい、寒造りの酒が主流になってしまったのかと思えたところです。

 いっぺん、ここで文を切らせていただきます。
   まとめ的(なつもり)な文は、俳句ポスト365の新酒の句が発表されたら、取り上げてもらえるかもしれません。


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