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台所の床が光っていた

あれは、ちょうど去年の今ごろだった、と思い出して、むしょうに書きたくなった。台所の床が光っていた日々のことを。

あのとき、空は最高に青くて、木々の葉っぱはキラキラだったし、ふと手にするボールペンでさえ輪郭がくっきりしていて、とにかく、目に映るものすべてが光っていた。最近、いろんなものがやけに綺麗に見えるよなあと思いながら、足下を見下ろしたら、人工建材貼りの床までが光の粒を反射してたから、笑えてきた。油汚れの気になる台所の床が、ダイヤモンドをちりばめたみたいに美しかったら、やっぱりちょっと変だ。

会社に行くために電車に乗れば、まるで箱根にでも湯治に行く時のような心楽しさがあった。パンデミック中なのだから感染に気をつけなければという意識はちゃんとあったけれど、それと、ふつふつと湧き上がってくる幸福感は別物だった。その幸福感が照らしてくれる世界は、それまで暮らしていた薄暗い世界とは全然、違っていた。ハッピー! ラッキー!と舞い上がっていたわけではない。何か特別に嬉しいことがあったわけでもなかった。ごくごく当たり前の生活を送っていただけなのに、何もかもが新鮮で楽しかった。接する人みんなに好意をもつことができた。

その状態は、少し翳ったりもしながら、一ヶ月は続いたろうか。今は、見るものすべてが眩しい感じはすっかりなくなっているし、一週間前など、プチ穴ぼこにもはまって慌てたけれど、それでも、あれを体験する前とした後では、考えていることの中身や物事への感じ方が全然、違う。このNOTEを始めたことすら、あのときの体験の影響といえる。

この体験のことは、知識としては若い頃から知っていた。「アウトサイダー」のコリン・ウィルソン氏には、そのものずばり「至高体験」というタイトルの著書がある。神話学者のジョゼフ・キャンペルはNHKの「神話の力」で知ったけれど、彼も至高体験を語った人だ。作家の辻邦生氏も、パリでの留学中に回心体験をして「一つの薔薇はすべての薔薇」というリルケの言葉をひきながら、いろんな形で自分の体験を語っていた。わたしの二十代の読書は、ほぼ、この「至福体験」の手に入れるにはどうすべきかを探求するためのものだった。その後、仏教と出会い直し、神秘体験をことさらに求めるのはよくないと反省して、至高体験のことは忘れたといっては言い過ぎだけれど、考えなくなっていた。それが、去年、望んでいた時から三十年もたってから経験することになったのだった。

若い頃に想像していた「至高体験」はすごく神秘的で、特別なものだった。
だけど、あれを体験している間、わたしはずっと、これが普通だよな、と思っていた。これが普通のあり方で、そうでないほうが、どこかしら、おかしい。今の心境では、いやいやいや、あんなこと、そうそうあるわけないでしょう、一生の間に一度、体験できたのをありがたく思わなくちゃねと、つっこんでしまうけれど、でも、体験していた最中のわたしは、これが普通と思っていた。そのうち消えてしまうかもしれないから、心して味わっておこうという意識はあったけど、それと同時に、何も特別なことじゃない、この状態こそが普通で当たり前なんだ、とも思っていた。

さて、あんなキラキラした世界、生きているうちに、もういちど、味わうことができるだろうか。
そして、普通って、いったい、何なんだろう。

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