存在とその認識について

はじめに

この論考は、先日投稿した『存在と世界』において、とあるDiscordのサーバーにおいていただいた指摘や質問を元にして、私自身でも再読と再考を加えながら記述したものである。この論考は、『存在と世界』における存在とその認識、加えて「世界」についての論考を抽出しつつ、指摘された部分を踏まえながら加筆修正を加えたものである。この論考においても、指摘された部分の全てを反映しきれているかは怪しいし、新たに加筆を加えた部分にあって、また新たな指摘箇所が現れるかもしれない。それでも、書いたものを呼んでもらい、そしてそれに指摘や議論をしてもらう、ということは私にとって格別の喜びなのである。というのも、私は書いたものが全く省みられず、ただそのままにして打ち捨てられたままになった、という経験がある。それに、孔子に曰く、「思いて学ばざれば即ち危うし」というのだから、自らの考えが誤っているか、そうでは無いのか、ということは、他人に読んでもらって初めて分かることなのである。


第一:存在とはいかなる事態なのか

1.存在可能とはいかなる事態か

 存在可能である、という事態は、存在者が存在するということと同義である。ただし、われわれの認識が及ぶ範囲の限りにおいては、である。われわれは、われわれの認識が及ばない範囲での存在については言及できない。われわれが認識の範囲外に在るものを言及しようとするならば、それは直ちに認識の範囲内の在る者、として言及されることとなるからだ。では、具体的に「存在可能である」というのはいかなる事態であるのか。存在可能とは、「現実界に存在するかしないか、に限らず、その存在者がある、という事実がありうる」という事態である。たとえば「ユニコーン」という存在者は空想のものであって、実在では無いのだが、その存在自体は可能性として存在する。すなわち、その存在者が可能性として確認されるのであれば、その存在者は存在する。これが存在可能という事態であり、存在するという事態なのである。
ところで、「存在する」という事態は、世界内において初めて可能となる事態であり、「存在可能」という事態は世界内において成立する。さて、世界内において存在可能という事態が成立するのであれば、世界は、存在可能な全ての存在者を包括する。 言い換えれば、存在可能な存在者の全てが世界なのである。加えて、存在可能な存在者は、無限に存在するのであり、世界は無限の広がりを持つ。
さて、われわれの認識は有限である。われわれの認識は、無限に広がりを持つ世界の全てを捉えることが出来ない。ここでわれわれの認識は、それぞれの世界像、世界に対して有限化され、そして意味を与えられたものを取り結ぶのである。世界像とは、単純に言えば、われわれが日常的、通俗的な理解において用いる「世界」と同義である。例えば「世界は〇〇だ」と発言する時、これは「この場合において取り結ばれた世界像にとっては、世界は〇〇である。」という意味を持つ。世界は存在しない、のではなくて、われわれは世界の全てを捉えることが出来ないのである。

2.われわれの認識が存在の根拠であるのか-感覚的確信-

われわれの認識にとって見れば、われわれの認識による存在者の確認が、存在の根拠である。認識のうち、最も単純かつ、最初に立ち現れてくる作用が、感覚的確信なのであるが、この感覚的確信において初めて主客の分離が果たされ、ある存在者に対する未分化の刺激と欲望が創出される。
感覚的確信は、何らかの存在者から発せられた単純な刺激を受け取り、欲望を発生させる。加えて存在者から発せられた刺激の起源たる対象たる存在者と、その刺激を受け取った存在者たる「我」を分離する。そうすることで初めて、主格が分離されるのであるのである。
さて、「我」では無い存在者から発せられた刺激と、「我」たる存在から発せられた刺激、すなわち欲望は、この時点では分離されていない。この場合創出された「我」の概念とは原始的なものであり、我自身は我を自覚していない。
この場合、我にとっての我とは、刺激を主体的に感じるもの、としての我でしかない。刺激ごとにその都度取り結ばれる、一時的な、刺激(感覚)の集合としての我である。この場合、確認される存在者とは、刺激、欲望を創出する起源として、その刺激のごとに取り結ばれる対象者として、確認されているのである。端的に言えば、この存在者の確認は意識的な形では持続しない。
 しかし、このような原始的な認識たる感覚的確信にあっても、存在者に対する何らかの形での持続は、意識的な形でないにしろ、存在する。
それは、感覚的確信が発見した刺激と欲望に対する反射、として表象する。例えばここに肉片がある。この肉片が肉片であると我に認識されるためには、肉片が発する光や匂い、温度、などといった刺激が肉片から発せられ、その刺激が我に受け取られる必要がある。この時、はじめて我にとって我が、単純な「食欲」という形で成立する。この際、食欲、欲望たる我にとって刺激とは、欲望と同一である(具体的には、空腹=食欲である。)。したがって、我とは欲望であり、刺激であるのだ。
さて、感覚的確信にあっても、それぞれの我におけるそれには差異が存在する。なぜここで差異が生じるか、については詳しくは立ち入らないのだが、この差異は感覚的刺激においては、刺激に対する反射の異なり、として直接的に現れる。刺激をいかなる形で受容するか、という部分において差異がある。肉片の赤色をどれだけ強く感じ取るか、匂いに対してどれだけ敏感か、などの直接的な部分における差異が、感覚的確信における差異であり、そのまま原始的な我概念の差異となる。さて、ここで示された感覚的確信において感じられたものは未分化である。単純に刺激を受け取るものとしての我、刺激を発し、欲望の対象となる外化された対象が、存在者のうちにあって分離されているのみであって、ここでは「我」という概念も、「対象」という概念も分節化されたものでは無い。分節化されていないが、混濁した分離がある。この場合、認識が取り結ぶ世界像は、その認識にとって自覚的なものではなくて、感覚的確信によって取り結ばれた刺激・欲望と、それに対する反射の集合、として取り結ばれている。

3.存在者一般の存在をいかにしてわれわれは認識するか-知的直観-

単なる存在者一般は、普遍的な存在者である。先の感覚的確信において捉えられていた存在者はあくまで個別の、そのたびごとに結ばれる存在者の確認であり、普遍的に存在者が存在する、ということについての確認は未だなされていない。
知的直観においてわれわれは、普遍的な存在者の存在を確認する。具体的には、我の存在を我が自覚することがその起源となる。我の存在を我が自覚する、ということは、我、という存在者についての確認を持続するということである。つまり、刺激に対してその度に欲望として取り結ばれていた我、というそれぞれの一時的な現象としてのそれぞれを繋げ、ひとつの一貫した「我」という形として確認するのである。我がここで定立される。我が定立されるのであれば、我とは対象の刺激に対して取り結ばれていた欲望であったから、ここで、対象もまた定立される。ここで初めて、確実な形での主客が分離されることとなる。感覚的確信においても主客は分離されていたのではあるが、それはあくまで欲望とその対象、としてのそれであり、自覚的な形でのそれではなかった。ここで、自覚的な形で主客が分離されることとなる。
我と対象が自覚的な形で定立されたのであるから、我はここにおいて初めて自覚的な形で世界像を取り結ぶ。この際、刺激は経験として、欲望に対して分化される。経験とは、我にとって自覚されうる刺激である。経験が自覚的なものとして持続可能となることによって、世界像も持続可能なものとなる。ただし、この場合における世界像とは直観的に感じられるものであって、具体的に言えば感覚的確信において取り結ばれた、自覚的でない瞬間ごとの刺激と反射の集合を、自覚的かつ持続的にしたものに過ぎない。つまり、この場合において世界像は完成していない。
さて、存在者一般の存在の確認とは、具体的に言えば「あるものがある」ことの確認である。というのは、存在者一般における存在の確認とは、その存在者が持続可能であるということを確認するということと、存在者に普遍的に「存在」という属性が付属していることを発見するということである。
知的直観においては、存在者の存在の確認は、我が持続することによって持続される。加えて、ここで我は、存在が普遍的であることを発見する。我とその対象が普遍的に存在するものである、ということを発見するのである。ここで、存在者一般の存在が確認されるのである。
しかしながらここではあくまで、存在者一般が普遍的なものである、ということが論証されたのみであって、その存在者一般のうち、いかなるものが現実界において実在するものであるのか、という判断はなされていない。この状態においてはあくまで存在者一般、すなわち存在しうるものが存在する、ということのみが確認されている。
端的に言えば、この段階では未だ幻覚、空想、妄想と言ったものと、現実に実在しているものとの区別がなされていないのである。

4.いかにしてわれわれは実在とそれ以外を区別するのか-理性-

先の知的直観においては、実在者とそうでは無いものとの区別はなされていない。知的直観において捉えられているものは、無限に存在しうる存在者一般であり、実在する存在者では無い。
理性において、我は単なる存在者一般から実在者を区別する。そのために、対象が、単なる対象から、観察される対象、客観的存在となるのである。観察とは純粋に理性的な行為であり、理性的行為の最も基礎的な作用である。観察することによって初めて実在者と、そうでないものが区別されることとなる。
 観察によって発見された事実、「その存在者が実在するものである、という事態が真である」ということによって、その存在者が実在者であること、単なる存在者一般から区別されていることが証明されるのである。すなわち、実在者である、ということは、その存在者が疑いようのないものである、ということなのである。
あるものが実在者であるか、ということを発見するためには、一度疑いうる仮定を取り去って、何も疑いようのない部分から始めなければならない。まず初めに、我の実在が証明される必要がある。観察する我の実在が証明されなければ、これから我が行う観察の全ては疑わしいものとなるからである。さて、過去の偉大なる哲学者、全ての哲学の根本とも言える哲学者たるデカルト(の支持者及び解釈者)によれば、"cogit, ergo sum"であるという。これは、「我の実在を我は疑いようがない。」、もしくは「我の思考は、我の実在を前提としているがため、我の実在を否定すれば、我の思考も成り立たない。」という意味に捉えうる。単純に言えば、我は我が水槽の脳であることを自覚できないのであるし、一度発見された我の概念は、どのような領域にあっても否定しがたいのである。
さて、こうなると、「我」だけが真の実在である、という結論が導き出される。ただし、我という存在者は他の存在者を媒介している存在であるのだから、他の実在、つまり実在であるか疑わしい実在の実在を前提としないと、我は実在しえない、という結論もまた導き出される。
 ある存在者が他の存在者を媒介して存在者たりうる、という原理は、実在に限らず存在者にとって普遍的な原理である。
というのも、ある存在者がその存在者であるためには、他の存在者が必要となる。それは「他の存在者では無い」ということによってもそうであるし、「他の存在者によってその存在者が成立する」ということにおいてもそうである。というのも、ある存在者がその存在者である、と定式化されるためには、他の存在者との区別を有する。例えをあげてみれば、赤色だけの世界に暮らしている者にとって見れば、「赤」という観念は存在しないはずである。が、ここに「青色」の何かが侵入したとする。ここで初めて赤色の世界の住人は、この新しく入ってきた謎の色とこれまで見てきた色を区別するために、「赤」と「青」という観念を初めて定式化するのである。それに、また別の例を上げてみれば、私というひとつの存在者、この場合は「私という一人の人間」が成立し、持続するためには、いくつもの存在者を経由する必要がある。例えば、私が産まれてくるためにはいくつもの人間の存在が必要となるし、私が生きていくためには食料、衣服、住居などを必要とする。それらを手に入れるためには、原材料、生産者、輸送者、作業員、販売者、彼らが用いる道具……など、様々な存在者の存在を必要としている。であるから、ある存在者がまさにその存在者であるためには、二つのことなった仕方で、他の存在者を媒介して存在する必要がある。前者におけるそれは、「他にたいして他であることによって、」後者のそれは、「自らに対して他であることによって」、媒介し、存在している。
このようにして論証すると、先に私が述べたこと、「我という実在は、私でないものという非実在を媒介しないと実在しえない」という定理が証明されることになる。
加えて、デカルトにおいては精神と身体が別個のものとして、具体的に言えば身体とは精神の単なる対象である、とされているのだが、これは真とは言えない。
というのも、身体の感覚はそのまま、精神の感覚として感じられるし、逆に精神の感覚もまた、身体の感覚として感じられるのである。さらに、精神は身体を対象とする、のではあるが、それは精神が単純に外化されている身体を対象とするのではなくて、精神が精神自身によって外化されたものとして、身体を対象としているのである。例えば、精神が身体を対象とする時、この場合、「病気」に於いてそうするとしよう。すると、精神が身体を対象とするのは、精神が感覚する痛みや吐き気、苦しみやだるさ、と言ったことをもとにして、身体を対象としているのである。というのも、身体と精神が一致していなければ、これは成立しない。そもそも、精神である、というのは知的直観において初めて成立するような事態ではあるのだが、精神であるためには、我であることが必要となり、客観的な対象としての存在者が刺激を発することによって初めて我が成立する。ということは、精神が初めにあるのではなくて、まず最初に感覚的確信によって取り結ばれた欲望としての我の概念が成立し、その後に知的直観、理性によって精神が形成されるのである。精神から身体、なのではなくて、身体から精神、なのである。さらに、精神が精神であるためにも、身体が身体であるためにも互いの存在を直接的に媒介する。というのも、精神なき身体とは単なる物質であり、身体なき精神とは何も感じることも、思考することもない。精神は身体の器官によって思考し、感じることが出来るのだ。精神における苦しみとは、例えば、「胸が締め付けられる」という身体の苦しみと連動するのである。日本語の表現においても、「胸が締め付けられるような思いがした」だとか、「赤面した」というふうに、身体の働きによって、精神の働きを表現するのである。と、すれば精神と身体は同一の実体であって、身体と精神を区別する、というデカルト的二元論は成立しない。
さて、「我だけが真なる実在である」という原理が存在者の存在における媒介性に対して矛盾するものであるにもかかわらず、なぜ現実世界に生きる我々は、実在とそう出ないものを日常において区別しながら生活することが出来るのか。
結論から言えば、我の意識にとって、実在である、ということは「我の前に現前している」、ということなのである。理性とは、有限化、我の前に現前しているもののみを実在とすることによって、実在とそうでないものを区別しているのである。理性にとって、空想が現実では無いのは、それが我の前に現前せず、単なる可能性の存在として留まっているからであり、また、我の前に現前していないもの、すなわち我の視界、感覚に関わってこないものは、理性においてみれば、実在としては扱われないのである。こう考えてみれば、幻覚や妄想が時に理性によって事実であると誤認されるのは、その我の前にそう現前しているように、感じられているから、とすることが出来る。幻覚を見、感じている人間にとってみれば、正しくその幻覚は現にそうなっている事実として現前しているのであって、理性にあってもそれが実在である、と判定されることになるのであるし、妄想に関しても、その妄想する人間にとってみればその妄想は妄想ではなくて、完全なる事実として現前されている。であるから、妄想や幻覚を、時に理性は現実のものとしてしまうのである。

5.媒介される場として、世界は存在する

さて、存在者が存在するためには、他の存在者が媒介される必要がある、というのは先の項目であげたことなのではあるが、全ての存在者が媒介されるところ、そういった場、こそが世界である。
世界内において存在可能という事態が成立するのであるが、ある存在者は、その世界内に無限に存在する存在者に対して、「他に対して他であること」と「自らに対して他であること」というふたつの形式の媒介を通して、存在している。となれば、その存在者が成立する場としての世界は、その存在を前提されている。世界が存在しない、のであれば、そういった存在者は存在しえないのであって、そうなると、これまでに記述された感覚的確信や知的直観、理性といった働きも当然成立しないこととなる。
 世界とは全ての存在者を包括する存在である。であるから世界の全てを、世界内に存在するわれわれが認識することは不可能である。世界の全てを認識する、ということは認識によって世界を包括する、ということなのであって、全ての包括者たる世界をまた、包括することとなるからである。
われわれが普段対象とし、認識している世界、とは端的に言えば「世界像」のことなのである。世界像、とは端的に言えば無限の広がりを持つ世界を有限化し、それに対して意味を与えたものである。世界像をこう定義するのであれば、世界像となる前の、無限な形での世界はやはり存在しなくてはならない。しかしながら何度も言うように、世界の全てを我々が認識することは不可能である。
さて、総体としての世界、すなわち全ての存在者を包括する存在者としての世界は、理性にとっては実在しない。と、いうのも理性にとって現前されている世界とは我の認識によって取り結ばれた、有限の世界像なのであって、無限の広がりをもつ包括者たる世界は理性の前には現前していない。加えて、人間の認識は有限なものであるから、無限たる世界を認識することは出来ない。であるから、世界はあくまで実在しない。

第二:世界像同士でいかにして共有が可能か

1.世界像同士でいかにして共有が可能か-感覚的確信の場合-

それぞれの世界像は、世界に対して、それぞれの存在者が取り結んだものであって、それぞれに差異を持つ認識の作用によって取り結ばれたものなのであるから、ある単一の世界像、単純に「世界とは〇〇である」と誰もが納得するような世界像は存在しない。それぞれの存在者にとって、それぞれの世界像がバラバラに存在している。しかし、現実においては人間だけでなく動物も、ある程度共有された世界像を持って行動しているように思われる。であるから、ここからはいかにして世界像同士が共有されるのについて考察する。
感覚的確信においては、世界像の共有は対象となる存在者によって行われる。感覚的確信において対象とは単なる対象であり、刺激の起源であり、欲望の対象である、という意味において対象なのである。そして感覚的確信においては、世界像はそれぞれの単なる対象としての存在者それぞれに対して、刺激とその反射の集合として結ばれるのであるから、世界像の共有もまた、それぞれの単なる対象としての存在者を通じて行われる。具体例をあげれば、やはり肉片がある。この肉片が発する刺激が、我に受け取られることによって、その肉片の発する刺激に対する反射として、世界像が形成されるのであるが、他の我にあっても、同じような形で世界像が共有される。つまり、感覚的確信においての世界像の共有とは、それぞれの我が、同一の存在者が発する刺激に対する反射が、ある程度相似である、ということから行なわれる。であるから、世界像の共有とはその存在者の存在ごとに行われるのであって、完成されたもの、持続的なものとして行われるのでは無い。

2.世界像同士でいかにして共有が可能か-知的直観-

知的直観においての、世界像の共有は、知的直観のみでは不可能である。感覚的確信において世界像の共有がなされていたのは、あくまで個別の存在者をそれぞれの我が刺激を受け取り、欲望として相似した形で生成された我であることによって可能となっていたからである。
対して、知的直観においては普遍的存在者の存在が確認されるのであるのだが、知的直観においても、世界像は刺激が経験として欲望から分離し、加えて瞬間ごとに無自覚的であった世界像を、持続的かつ自覚的なものとしたに過ぎない。であるから、感覚的確信において対象となっていた個別的存在は、知的直観においては対象からは外れている。感覚的確信において世界像の共有を可能とした対象としての存在者は、ここでは成立していない。であるから、この時点では知的直観における世界像の共有は不可能である。
さて、知的直観においては世界像の共有は不可能なのものではあるが、より高次の領域に属する作用によって、知的直観における世界像の共有が可能となるのである。その作用とは言語である。
 しかしながら言語はあくまで知的直観ではなく、理性の領域に属するものなのであるから、知的直観における世界像は、言語による作用によって、より高次のものへと引き上げられた、準理性的な世界像として共有されることとなる。つまり、知的直観における世界像自体は共有することが不可能であり、ただ高次の理性に属する作用たる言語によってのみ、準理性的な世界像として共有されるのである。

3.世界像同士でいかにして共有が可能であるか-理性の場合-

理性的な世界像において、共有を可能とするものは言語である。言語は、それぞれの我に内在する理性的な世界像を外化することによって、世界像の共有を、理解という形で可能とする。ところで、理性(logos)とは「言う(legein)」の名詞形である「言われたこと」を語源とする。すなわち、理性と言う言葉はその語源からして「言葉、言語」と言ったものと同根である。であるから、理性的であるということは、言葉にすることが出来る、という意味と近接する。さて、言語とは我だけが保有するものではなく、ほかの我も言語を保有する。言語によって初めて、理解という形での世界像の共有が可能となるのだ。
 言語は外化することによって、世界像を理解可能なものとするのだが、理性においてもなお、それぞれの我におけるそれには差異が存在する。理性において差異を可能とする、比較されるそれぞれの理性AとBにおけるものを「内容」とする。言語は、外化によって世界像における内容を抽象して、世界像を単なる理解可能な存在とする。そうして外化された単なる理解可能な存在としての言語を「テクスト」と呼ぶ。テクストにおいては世界像における内容は廃棄されて、単なる理解可能な存在となっているのだ。そして他の我がテクストを受け取る時、他の我の理性によって、世界像に内容が新しく作り出される。この時、元々の世界像の内容と、新たに作り出された世界像の内容は、相似しつつも、二つの意味で異なっている。というのは、一つは、我と他の我との理性のあり方に差異があることによって世界像の内容が異なり、もうひとつは、一度外化された世界像は内容を持たないので、再び内容を作り出す必要があるということによって異なっている。日本語から英語に訳された言語をもう一度日本語に翻訳した時、元の日本語と同じような文章でありつつも、全く元の文章とは同じではないように、一度外化という形で理解可能な存在に翻訳された世界像は、もう一度内容を持った、内在的な世界像に再翻訳される時に、微妙に異なった内容を新たに生じるのである。
さて、先の項目における準理性的な世界像もまた言語によって共有される。これは理解という形で世界像の共有が行われるし、言語によって世界像が外化されることによって単なる理解可能な存在であるテクストになる。ということも変わりがない。知的直観における世界像の共有が、準理性的であるのは、この場合の世界像の共有における言語が、必ずしも実在者のみを対象にはしていないからなのだ。理性は実在者のみを対象として、現前しているもののみを言語の対象としているのだが、準理性的なものとしての言語とは、現前していない、実在的では無いもの、例えばユニコーンだとか南極のドイツ国防軍秘密基地だとかをも対象としうるのである。加えて、知的直観においては言語作用は働いていないにも関わらず、知的直観において言語による準理性的な世界像の共有が可能となるのは、まさに言語が理性的かつ準理性的である、ということによって可能なのである。

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