ブレイクダンスと私(前編)
AV機器の刷新、デジタル製品到来
私が17歳の頃、それは1982年。それはいろんな変化点であった。
ステレオラジカセの小型化、ウォークマン普及、ポケコン、
レンタルレコード店初出、コンパクトディスク初出、
レーザーディスク初出。ハード機器の刷新期。
更には我が家で初めてVHSビデオレコーダー、
すぐ近くの親戚で初めてショルダー型VHSビデオカメラという
録画する画期的機材が現れた。これがのちに大活躍。
danceをはじめるきっかけ
ある日のことだった。
兄が茶の間のラグマットの上でまるでロボットが歩きながら
後退してゆく動き。何それ?と聞いたら「ムーンウォーク」。
やり方を教わって、できた気がして面白く感じた。
それだけかと思ったら、今度は腕を波が伝わるような動き。
更には体にまで波が伝わってく。これも見ていて面白く、
やり方を教わって、鏡の前で練習。
「これらはブレイクダンスって言うんだ」
今の人ならはて?と思うだろう。当時は今でいうブレイキンと
アニメーションダンス(エレクトリックブギと言った)を
合わせてブレイクダンスと呼んでいたのだ。
その元となったのが映画「フラッシュダンス」。
あの1分間だけのストリートパフォーマンスの名シーン。
そしてマイケルジャクソン「スリラー」
プロモーションビデオという短編映画化した楽曲表現を初めて
TVで観たもの。途中からゾンビが墓場から出てきて
あの圧巻のフォーメーションダンス。の途中とPVラストで踊る
4人組アニメーションダンス。
ライオネルリッチー「オールナイトロング」他、
ベストヒットUSAやテレビでちょっと映っていたダンスシーンを
ビデオ録画してブレイクダンスを研究しながら振り真似していった。
日本でも当時でいうブレイクダンスは徐々に取り上げられ、
ムーンウォークや背中で回るバックスピンが流行ってますね^^
と話題に、その頃には開脚して回る「ウィンドミル」に挑戦。
日本で誰が初めに成功するだろう?それだけの大技であった。
「笑っていいとも!」のダンスコンテストで一般参加者が
白衣を着て初めてウィンドミル(すごく強引だったが)
他のチームでもエレクトリックブギ、これを観て機動力に。
座敷に段ボールを敷いて日々練習、親戚からビデオカメラを借りて
ダンスPVを創作したり、ダンスにのめり込む毎日を過ごした。
その頃には兄とディスコにも通い、おなじブレイクダンス好きと
交流したり終了時間後にちょっとだけ踊り合ったりした。
第一世代の活況
本場アメリカはどんどん進化してゆく。
ロサンゼルス五輪閉会式では人が高く掲げたボード上で子供が
ウィンドミル。ステージ上ではノーハンドのヘッドスピン。
ついに映画「ブレイクダンス」公開、なんと高速のノーハンド
ウィンドミルまで。ターボのフワフワしたスライドや衝撃ヒット、
初めてみるタートルという技、何よりパンクな服装がいかにも。
日本では独自のストリート文化が根付いていた。
渋谷の代々木公園。当時は日曜となると歩行者天国となり、
ミュージシャンやローラースケーター、ロックンローラーほか
竹の子族など踊る集団などでにぎわっていた。
劇とダンスやアクロバットで魅せる「一世風靡セピア」
いつしか「ストリートパフォーマンス」という言葉も定着。
田舎育ちの私にはそこがあこがれの地ともなっていた。
そうこうしているうちに、ついにテレビでブレイクダンスを
メインとしたタレントが登場。と言ってももう定着したタレントだが。
「欽ちゃんの週刊金曜日」 風見慎吾さんは番組の中で歌も披露するが、
新曲紹介の日に新しい4人を劇にも加えて、あの「涙のTake a chance」
ちゃんとしたフォーメーションダンスと間奏のブレイクダンスに
ついにきたかと思った。
その曲を私が53歳の時にコピーしたので貼ります。
やっぱりこの曲ですね。バックダンサー「WAVE」は風見さん自ら
代々木ホコ天などでスカウトしたらしいし。
風見さんは歌番組でも急上昇し、ついに「ザ・ベストテン」の
今週のスポットライトで披露、メンバー「ヨハネ」さんが初めて
きれいな形のウィンドミル(ヨハネさん独特のNYから入ります)
風見さんも回を追う毎半周から1周へと、成功率低いながらも
風見さん独特のウィンドミルを披露するようになった。
その頃には私も先んじてできるようになっていましたが。
次の新曲「ビートオンパニック」でもメンバーチェンジしパワーアップ、
技もレベルアップしていった。
その頃のブレイクダンス状況
そのうち本屋にも「Let'sブレイクダンス!」のようなレクチャー本も
発売。仙台のスポーツプラザ・サイカワではこけら落としに東京から
Funky Jam Breaker'sを招待しスゴ技パフォーマンス、当然観に行った。
レクチャービデオもあると言うので購入、ステップ型の初級版を観て
いろいろできるようになり、学校文化祭で超満員の路上でパフォーマンス。
後輩たちに誘われ、市の夏祭りでジーンズショップ特設で踊ったり
貴重な思い出を作っていただいた。
Funky Jamのビデオから全国的には新しい大技としてAトラックスが
出だした頃。1990やトーマスもかろうじて見る感じだったか。
もっぱら15歳~25歳が年齢層、kidsやB-girlもゼロではないが少数。
やがて流行期も過ぎ、メディアの一線からは見られなくなり、
私も就職して寮に入り練習もしなくなった。
このまま自然消滅かと思いきや、
まさか今、1990やトーマスが当たり前のようにでき、
kidsやB-girlも当たり前のいる世の中になるとは思いもよらず。
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