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SPY×FAMILYからの連想で、すべての家族は「疑似家族」、ぐらいまではよかったが、どうして宇宙や神の話にまで連想が飛躍するんだ?

SPY×FAMILYを楽しく6話まで観て思いついたのだが。

ある意味では、すべての家族が「疑似家族」かもしれない。

そう思い定め、「演技」にほんとうの思いを「乗せて」関われたらいいのかもしれない(・・・と、また「#推しの子」論してるが)。

(血のつながった、あるいは乳児の時から育てた)家族「だから」という言説は、実はもはや「人間」の場合にはいったん「括弧にいれる」べきなのではないか?

いわゆる「生物学」主義、いや、それどころか「発達」論というのもというのも、すでに「大人」なった人間が、乳児期、幼年期に対して「投射」した、「成人言語」による「ストーリー」ではないか?

赤ん坊の世界のことは、赤ん坊の時の赤ん坊自身にしかわからないのかもしれない(笑)

赤ん坊というのは、確かに「生物」である。

しかし、それをどう育てたらいいのか、一から「困惑」するのが「人間」であり、親の「愛情」というのものを、ア・プリオリに(?)仮定することはひとつの「神話」ではないか?というとらえ方もあっていのではないか?

もちろん、人間は、身体性を持った「生き物」である。

意識しなくても、食べ物は口に入れれば消化しいく(これをジェンドリンは「有機体の暗黙の機能」と呼ぶ)。

そして、自律神経系によるコントロールを受けている。

例えば、ストレスが加われば、下痢するかもしれない。

しかし人間は、そうした身体の反応の変化に「当惑」していろいろ動き出す。

それが事態を一層悪化させる悪循環にはまることもある。

だが、人間は、例えば胃が痛くなったり、肩が凝らなくても、身体からの微細なあいまいな「感じ」自体に、意識的に直接注意を向けることができる(direct reference)。

そうやって意識的に「サーチ」できるようになるだけでも(つまりそれに対する新たな「言語化」すら必要ない。「これ(it)」でいい)、それをしない場合より、人は変化を開始する。これが体験過程の推進である。

(以上、ジェンドリンの「人格変化の一理論」に実際に書いてあることを要約している)

これは、個体としての人間を含む「環境」、ひいては「宇宙」そのものがひとつの「有機体」である、という可能性にも関わるかもしれない。

ここのところに少し「中途を」補足しておくと、ある生物の習性は他の生物の習性や身体構造を前提として成立しているという不思議なところがある。

これを広げていけば「生態系」であり、その生態系は地球の植生や気象変動などとも連関しており、地球自体がひとつの「有機体」であるが、それも太陽からの光や熱、地球という惑星の公転運動の影響を受けているわけで、太陽系自体が「有機体」であるということになる。

その外に銀河系があり、それを包摂する「宇宙」がある。

しかしそれは調和のとれた「コスモス」(アリストテレス的かな?)として安定しているだけではなくて、恐らくらせん状に変化して、絶えず「生成」されていくものなのではないか?

それを、人間は、その摂理を「身体性」を持って「感じていく」ことは可能なのではないか。

だが、ここでは一応そういう「汎神論」的な考え方はとらないでおいてみよう。

ここでいきなり飛躍することを言うが、「生きている」身体性を持った自分を「体感」できるからこそ、人は、神が「生きている」という信仰を持つことが可能になる。

キリスト教の教理に引きつければ、「受肉」したのはイエスであり、そのイエスの十字架上の苦しみ(passion)を自分の苦しみと「共鳴」させるようなことを身体次元でしていくこと(com-passion)が信仰であり、救済である、ということになる。

・・・ここまでは、皆さん、ついてこないでよろしい(^^)

私の「勘」では、このへんのことを補強する上では、有神論的実存主義者と言われる、キェルケゴールの著作あたりにヒントはないか?

「死に至る病」は読んだことはあるが、実はまだ読んだことがない「反復」あたりに何かヒントはないか?

「反復」・・フロイトのいう「反復強迫」という、当てずっぽう。

もっとも、フロイトの「反復強迫」概念への影響は、むしろニーチェの「永劫回帰」だっけ?

ニーチェは「神は死んだ」の無神論的実存主義なわけだが。

・・・なんか思索が無茶苦茶に飛躍したが、とりあえず、自分で自分のXでのポストにアクセスできなくなる前にコピペして、noteに暫定的にまとめておきますか。

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