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【メガトン・パンチを持つ男】青木勝利の生涯

みなさんは、抜群のセンスと強打でKOの山を築き、ファイティング原田、海老原博幸とともに「フライ級三羽烏」と呼ばれた天才ボクサー、青木勝利をご存知でしょうか?

青木勝利

青木は抜群のセンスにより、19歳の若さで東洋バンタム級王座を獲得しますが、酒好きと練習嫌いの影響でついに世界王座を獲得することができませんでした。

また、引退後は窃盗や器物損壊、無銭飲食などの犯罪を繰り返し、現役時代の輝きを抹消するかのように転落していきました。

今回は、1960年代のボクシング界に彗星の如く現れ、最期は消息不明となった天才ボクサー、青木勝利の生涯を解説します。

【少年院からリングへ】

青木は、1942年(昭和17年)、現在の東京都杉並区に生まれました。

父は職を転々として収入が安定せず、貧しい幼少期を過ごします。

青木は勉強が苦手でしたが、スポーツは万能で並外れた身体能力を持っていました。

少年時代の青木は家出を繰り返すなどの非行少年で、中学生の頃には酒やタバコを始めました。

ケンカに明け暮れた青木は傷害事件を起こし、1957年(昭和32年)、ついに少年院へ入れられました。

翌年、青木は少年院を退院しますがそれでも非行は収まらず、再び傷害事件を起こして少年院へ入れられました。

少年院でボクシング中継を観た青木はこれに興味を持ち、退院した1960年(昭和35年)、三鷹ジムに入門します。

抜群の才能を持っていた青木は入門からわずか2か月でプロデビューを果たします。

フライ級でデビューした青木は連戦連勝を重ね、17戦負け無しを誇りました(1引分挟む)。

いつからか、青木の強打は“メガトン・パンチ”と呼ばれるようになります。

メガトン・パンチ

そして、プロ18戦目となる1961年4月、「フライ級三羽烏」の一角、海老原博幸と対戦します。

海老原は青木より1年早くデビューし、“カミソリ・パンチ”と称される強力な左ストレートを武器に、KOの山を築いていました。

② カミソリ・パンチ

将来を嘱望されたエース同士の対決は、2RKOにより海老原に軍配が上がりました。

海老原に敗北した青木は再起戦を勝利で飾りますが、この頃から練習量が減り、酒に溺れるようになっていきます。

【東洋バンタム級チャンピオン】

フライ級で連勝を重ねていた青木ですが、減量が苦しく、バンタム級に転向することとなりました。

バンタム級に転向した青木は、デビュー時のように連戦連勝を重ね、快進撃を続けます。

青木はお茶の間で人気を博し、当時の横綱・玉の海や劇作家の寺山修司が「青木ファン」を公言するほどでした。

寺山修司(© 大光社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sh%C5%ABji_Terayama,_circa_1957_(extracted).JPG)

1962年(昭和37年)6月には、日本人初の世界王者・白井義男をKOした過去を持つ前東洋王者、レオ・エスピノサと対戦します。

この強敵を相手に青木は臆せずラッシュを仕掛けてKOし、タフで知られるエスピノサに日本のリングで初となるKO負けを味わわせました。

そして、同年10月、米倉健司の持つ東洋バンタム級王座に挑戦します。

米倉健司

米倉は、高校在学中にボクシングを始め、インターハイに出場、明治大学在学中に全日本アマチュアボクシング選手権のフライ級を制覇し、メルボルンオリンピックに日本代表として出場します。

その後、プロに転向し、デビュー5戦目で日本フライ級王座を獲得、フィリピンのレオ・エスピノサを破って東洋バンタム級王座を獲得し、タイトルを5度防衛している生粋のボクシングエリートでした。

かたや青木は少年院からプロにのし上がり、米倉の持つタイトルまで辿り着きました。

まさに「雑草 vs エリート」の一戦です。

両者一歩も譲らぬ展開となったこの一戦は、判定までもつれ込み、挑戦者・青木勝利に軍配が上がりました。

ジムに入門してわずか2年半、青木は19歳11か月という若さで東洋バンタム級王者となりました。

ちなみに、米倉はこの敗戦を機に現役を引退し、ヨネクラボクシングジムを開設、柴田国明、ガッツ石松、大橋秀行といった名チャンピオンを輩出します。

【“黄金のバンタム”への挑戦】

東洋バンタム級タイトルを獲得した青木はその後も白星を重ね、世界前哨戦の相手としてフィリピンのレミー・カンポスと対戦します。

豪快な左フックでカンポスをマットに沈めた青木は、海老原戦後20連勝を記録し、WBAの世界ランキングで4位となりました。

そして、1963年(昭和38年)4月、「黄金のバンタム」の異名を持つ名チャンピオン、エデル・ジョフレに挑戦します。

エデル・ジョフレ vs 青木勝利

青木戦を控えたジョフレの戦績は47戦44勝3分と負け知らずで、14連続KO勝利中という強豪中の強豪でした。

この大事な一戦を前に青木は右手を痛めてしまい、減量に苦しむなどアクシデントに見舞われます。

試合当日、拳の負傷を考慮し、青木は短期決戦を決意しました。

バンタム級最強のボクサーを相手に、青木は1Rと2Rを優勢に進めます。

しかし、最強王者の壁は高く、3Rに入るとジョフレはボディブローで青木からダウンを奪います。

なんとか立ち上がった青木ですが、再度同じパンチを被弾してダウンし、KO負けを喫しました。

あと一歩のところで世界王座獲得を逃しました。

ジョフレ戦の青木のファイトマネーは200万円とされ、これは現在の金額で2000万円以上となります。

世界王座に届かなかった青木の生活は荒れ、連日酒を飲み歩き、器物破損や傷害などで逮捕されました。

敗北から5か月後の1963年9月、フィリピンのカーリー・アグイリーを相手に東洋バンタム級王座防衛戦を行います。

二日酔いの状態で試合に出場した青木はKO負けを喫し、東洋王座から陥落しました。

その後、白星を重ねた青木は1964年(昭和39年)3月、東洋王者・アグイリーとのリマッチを行います。

のちに「青木のベストバウト」と評されるほど絶好調で臨んだこの試合では、青木がアグイリーを10RKOで沈めます。

再び東洋王座を獲得した青木は、その後このタイトルを2度防衛することとなります。

【“最も偉大な日本人ボクサー”】

1964年(昭和39年)10月、青木はかつての「フライ級三羽烏」の一角、ファイティング原田と対戦します。

原田は「狂った風車」の異名を持ち、後に「最も偉大な日本人ボクサー」と称される名ボクサーです。

ファイティング原田

この試合はノンタイトル戦で行われましたが、世界ランキング1位のファイティング原田と東洋王者の青木勝利が激突するという至極のマッチアップであり、事実上の次期世界タイトル挑戦者決定戦でもありました。

性格も行動も正反対で不仲なことで知られていた2人の対決は「世紀の一戦」と銘打たれ、試合前から舌戦を繰り広げました。

ファイティング原田 vs 青木勝利

試合開始のゴングが鳴ると原田はラッシュを仕掛け、青木を圧倒します。

青木は終始何もできず後退を続け、迎えた3R、原田のパンチがクリーンヒットしKO負けを喫しました。

「世紀の一戦」は蓋を開けてみると原田のワンサイドゲームでした。

この試合に勝利した原田はエデル・ジョフレの持つ世界バンタム級タイトルに挑戦し、判定でジョフレを破り、世界王座奪取を果たしました。

ジョフレに勝利したファイティング原田

ちなみに、ジョフレの生涯戦績は78戦72勝2敗4分という驚異的な記録を誇っており、この2敗はどちらもファイティング原田に喫したものとなります。

つまり、原田は「黄金のバンタム」を破った世界で唯一のボクサーでした。

功績が評価された原田は、その後日本のボクサーとして初めて世界ボクシング殿堂入りを果たし、「最も偉大な日本人ボクサー」と称されるようになります。

【現役引退】

ファイティング原田に敗れた後の青木は、東洋王座を2度防衛するも3度目の防衛戦で敗北し、王座陥落します。

青木の生活はどんどん荒んでいき、愛人のもとに身を寄せて帰らない夜も多くなりました。

警察沙汰を起こし、試合をキャンセルしたこともありました。

かつては抜群のセンスにより二日酔いでも練習不足でも勝利を収めた青木ですが、次第に勝ち星から遠ざかっていきます。

1967年(昭和42年)7月、後に世界2階級制覇王者となる若手のホープ・柴田国明と対戦しました。

柴田はジムに入門する際の申込書で、「尊敬するボクサー」の欄に「青木勝利」と書くほどの青木ファンであり、青木に憧れてボクサーとなった人物です。

この時の柴田の戦績は13勝無敗で、日本ボクシング界を背負う逸材として将来を嘱望されていました。

試合開始のゴングが鳴り、柴田の左ジャブが青木にヒットすると、柴田は思わず「すみません」と謝ったといいます。

ただ、覚悟を決めた柴田は渾身のパンチを青木に見舞い、1RでKOしました。

試合後のシャワー室で柴田に声をかけた青木は、「俺の獲れなかった世界チャンピオンになってくれ!」「俺もこれで引退できるよ」と柴田を労いました。

後に2階級で世界王者となり日本を代表するボクサーとなった柴田は、「俺にとってボクシングは、青木さんがすべてだった。青木さんがいたから、俺はボクサーになって、世界へも行けた。尊敬してたし、ずっと憧れだったね」と述べています。(『「ジョー」のモデルと呼ばれた男 天才ボクサー・青木勝利の生涯』より)

柴田戦で引退する決意を固めていた青木ですが、最後にかつて敗れた韓国人選手と試合を行いました。

この試合で大差の判定負けを喫した青木は、1968年(昭和43年)1月、正式に現役を引退しました。

青木勝利、戦績72戦52勝14敗4分(48勝14敗4分とも)。

「日本ボクシング史上屈指の才能」と謳われ、少年院からプロボクシングの道へ駆けあがった青木は、ついに世界タイトルを獲ることなくリングを去りました。

【消息不明】

青木が現役時代に稼いだファイトマネーの総額は約3000万円、現在の金額で2億円以上とされますが、放蕩三昧だったため手元には一銭も残りませんでした。

引退後は、日雇い業務や飲食店の手伝いをして暮らしていました。

しかし、頻繁に刑事事件を起こすようになり、1981年(昭和56年)時点で、暴行・窃盗・器物損壊・詐欺(無銭飲食や無賃乗車)・覚醒剤所持で前科7犯、逮捕歴は20回に及びました。

1973年(昭和48年)には自殺未遂を起こしています。

1984年(昭和59年)頃にはアルコール依存症の治療のために入院しました。

1985年には青木の母・千代がスポーツ雑誌の取材に応じ、「最後に会ったのは去年の12月です。もう別人です。あきらめてます」と語りました。

その後の消息は不明であり、出版社や関係者が行方を探すも、ついに見つけることはできませんでした。

恐らく2006~2008年頃に死亡したと推測されていますが、正確な時期や死因は未だ判明していません。

1960年代のボクシング界に彗星の如く現れてブームを牽引し、「“三羽烏”のなかで青木が一番才能があった」という声も聞かれた天才ボクサーの最期は破滅的でした。

その有り余る才能に精神が伴わず、酒や女性に溺れ、失踪や放蕩を繰り返し、青木は「三羽烏」のなかで唯一世界王者となることができませんでした。

「国民的スター」とまで称されたボクサーがこのような末路を辿るとは、青木のボクシングに熱狂した当時の人々は想像もしていなかったのではないでしょうか。

青木勝利

以上、抜群のセンスにより19歳の若さで東洋バンタム級王者となるも、酒好きや練習嫌いなどの影響で世界王座を獲り損ね、引退後は消息不明となった天才ボクサー、青木勝利の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇

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【参考文献】 『「ジョー」のモデルと呼ばれた男 天才ボクサー・青木勝利の生涯』葛城明彦,彩図社,2022年

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