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【“拳聖”と呼ばれた男】ピストン堀口の生涯

みなさんは、昭和初期に絶大な人気を誇り、「拳聖」と呼ばれたボクサー・ピストン堀口(本名:堀口 恒男)をご存知でしょうか?

ピストン堀口はデビューから連戦連勝を重ね、日本フェザー級と東洋フェザー級、そして日本ミドル級を制し、世界と渡り合ったボクサーです。

ピストン堀口

無類のスタミナを誇り、対戦相手をロープに追い詰めて放つ左右の連打は、「ピストン戦法」と呼ばれました。

世界と渡り合う実力を持っていた堀口でしたが、戦争の影響もあり、世界王座に挑戦する機会に恵まれず、世界チャンピオンのベルトを巻くことはできませんでした。

また、現役引退から半年後には不慮の事故でこの世を去ります。

今回は、そんな悲劇の最凶ボクサー、ピストン堀口の生涯について解説します。

【ボクシングとの出会い】

ピストン堀口こと堀口恒男は、1914年(大正3年)に現在の栃木県真岡市に生まれました。

旧制真岡中学では柔道部の主将を務め、県下で有名な強豪選手となりました。

ある時、「日本ボクシングの父」と称される渡辺勇次郎が真岡市でボクシングの模範試合を行いました。

これに出くわした堀口は飛び入りで参加し、プロボクサーと闘うこととなりました。これが堀口とボクシングの出会いです。

この試合で、堀口はプロボクサー相手に戦い抜いたと言われています。

1932年(昭和7年)に17歳で上京した堀口は、渡辺勇次郎の主宰する日本拳闘倶楽部に入門します。

アマチュアで2勝した後、早稲田大学在学中の1933年にプロデビューを果たしました。

日本ボクシング草創期に活躍した岡本不二の指導を受けて堀口は才能を開花させ、デビューから47連勝(5引き分けを挟む)という驚異的な記録を残しました。

堀口を指導した岡本は、1926年の第1回全日本アマチュアボクシング選手権大会のフライ級を制覇し、1928年のアムステルダム五輪に出場した強豪ボクサーです。

堀口は、デビュー間もない18歳のころに元世界フライ級王者のエミール・プラドネルと対戦し、引き分けに持ち込みました。

エミール・プラドネル

これにより、堀口の名はいっきに広まることとなりました。


【ピストン戦法】

対戦相手をロープに追い詰めて繰り出す左右の連打は、「ピストン戦法」と呼ばれました。

堀口の無類のスタミナは、10分間休まずミット打ちを続けても息切れ一つしなかったと言われています。

堀口の連打が始まると、会場内で「わっしょい、わっしょい」と大合唱が起こる程の人気でした。

「ピストン堀口」という名前はリングネームではなくニックネーム(愛称)です。

堀口自身は本名の「堀口恒男」で試合をしていましたが、堀口の好戦的なファイトスタイルが「ピストン戦術」や「ピストン戦法」と呼ばれるようになり、いつしか堀口自身が「ピストン堀口」と呼ばれるようになりました。

堀口は、デビューから1年9か月で日本フェザー級王座を獲得し、その1年半後には東洋フェザー級王座を獲得。

デビューからわずか4年弱で40連勝を達成するなど、破竹の勢いでした。

一躍人気者となった堀口は、新聞や雑誌で大きく取り上げられ、映画館で試合が上映されるなど、この時代を代表する人気ボクサーとなっていきました。


【世紀の一戦】

1941年(昭和16年)5月、堀口はかつて同門だった笹崎僙との試合を行います。

この試合は、元同門という因縁や試合前の舌戦などで大いに盛り上がり、「世紀の一戦」と謳われました。

チケットはプラチナ化し、6円(現在の価値で約4万円)のリングサイド席がダフ屋で100円(現在の価値で約60万円)の値をつけたと言われています。

この試合の結果は、タオル投入によるTKOで堀口の勝利となりました。

この試合に勝利した堀口は、「拳聖」と称され、絶頂を迎えていました。

しかし、1944年には第二次世界大戦の戦局悪化によりボクシング界も活動を停止し、堀口は世界タイトルマッチにこぎつけることが出来ませんでした。

「世紀の一戦」から5年後の1946年(昭和21年)7月、「世紀の一戦の再現」と銘打ち、2度目となるピストン堀口 対 笹崎僙が実現しました。

壮絶な殴り合いとなったこの試合では、4Rに笹崎が堀口からダウンを奪うなど健闘し、10R引き分けとなりました。

ダウンを取られた堀口

一度引退していた笹崎はこの結果に自信を深め、本格的にボクシングに復帰し、1947年には全日本ボクシング選手権ライト級で優勝しました。

「名勝負数え唄」となった堀口 対 笹崎は通算5度組まれ、成績は堀口の1勝2敗2分となりました。


【引退と突然の死】

「世紀の一戦の再現」と銘打たれた笹崎戦以降も堀口は精力的に試合をこなしますが、動きに精彩を欠き、衰えを感じさせるようになってきます。

そんななか、1948年(昭和23年)3月に堀口は日本ミドル級王座に挑戦します。

全盛期の堀口はフェザー級の選手であり、それよりはるかに重いミドル級での試合は誰もが無謀と考えていました。

しかし、この試合で堀口は執念のラッシュを見せつけ、7RKO勝ちにより日本ミドル級チャンピオンとなりました。

史上稀にみる奇跡を起こした堀口ですが、これ以降は黒星が目立つようになり、新聞でも引退を勧める記事が出るようになりました。

そして、1950年(昭和25年)4月、堀口は現役引退を表明し、グローブを置きました。

引退した堀口は、探偵事務所への勤務や「ピストン堀口拳闘会」の開設など第2の人生を歩んでいましたが、1950年10月、悲劇が起きます。

堀口が列車に撥ねられ、死亡しました。

堀口恒男、享年36。引退からわずか半年後の出来事でした。

往年のスーパースターの悲報に、日本中が悲しみに暮れました。

自殺説や他殺説など様々な憶測が飛び交いましたが、列車を逃した堀口が線路上を歩いていたことによる事故死が有力となっています。

ピストン堀口は多くの試合を行い、戦績は176戦138勝(82KO)24敗14分と驚異的な数字を残しました。

日本フェザー級と東洋フェザー級、そして日本ミドル級を制し、最多試合、最多勝利、最多KO、最多連勝などの日本記録を次々作っていった不世出のボクサーの墓には、「拳闘こそ我が命」と刻まれています。

以上、国民的人気を誇り、「拳聖」と呼ばれた最凶ボクサー・ピストン堀口の生涯を解説しました。

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【参考文献】

ピストン堀口道場ホームページ「ピストン堀口とは?」
http://www.p-horiguchi.co.jp/who_piston/index.html

“4万円”チケットがダフ屋で“60万円”に…戦前の異常人気ボクサー、“拳聖”ピストン堀口とは何者だったのか?
https://number.bunshun.jp/articles/-/847863

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