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【世界を獲った最初の日本人】白井義男の生涯

みなさんは日本人で初めてボクシング世界チャンピオンとなった白井義男という人物をご存知でしょうか?

白井は、日本人がまだ敗戦に打ちひしがれていた1952年(昭和27年)に、日本人初のボクシング世界チャンピオンとなり、スポーツ界に希望をもたらした人物です。

白井義男

当時の日本は、アメリカによって国土を焼け野原にされた第二次世界大戦からわずか7年しか経っていません。

そのような状況下で、日本人初の世界王座獲得という偉業を成し遂げた白井の姿は、プロレスの力道山とともに日本中に勇気と希望を与えました。

今回はその白井義男の生涯を解説します。

【カンガルーと戦った幼少期】

白井は、1923年(大正12年)に現在の東京都荒川区に生まれました。

子どもの頃は弱虫で、同じクラスの子に物をとられたりしていました。

先生に相談したところ、「男なら闘え」とけんかを勧められ、放課後にいじめっ子と「決闘」することとなりました。

無我夢中で闘った白井は、その「決闘」に勝利しました。

その時に「闘いに対する自信」が生まれ、野球や剣道などのスポーツを始めるようになりました。

小学6年生の時、学校付近の広場にサーカスがやってきます。

その余興で、白井はカンガルーとボクシングで戦うこととなりました。

白井が初めてボクシンググローブをつけた瞬間です。

この対決では、カンガルーの攻撃が白井の急所に入り、試合が決着しました。

急所を攻撃するなんてカンガルーせこいですね。

カンガルーとの対戦でボクシングと出会った白井は、ボクシングという競技にのめり込んでいくこととなります。

【カーン博士との出会い】

ボクシングに魅了された白井は、荒川商業補習学校(後の荒川商業高校)を2年で中退し、本格的にボクシングを始めます。

そして、第二次世界大戦の真っ只中だった1943年(昭和18年)にプロデビューを果たしました。

しかし、戦争の激化で海軍への入隊が決まり、ボクシングを離れることとなりました。

1945年(昭和20年)、戦闘機の整備兵として終戦を迎えた白井は、ボクシングに復帰しました。

ジムで練習していた白井は、後に師弟関係を築くこととなるアルビン・ロバー・カーン博士と出会います。

カーン博士は、アメリカのイリノイ大学で教鞭を執った生物学者で、戦後の日本人の食料支援を行うためにGHQ天然資源局に配属されていました。

カーン博士は、調査活動の帰りにたまたま立ち寄ったジムで白井と出会いました。

白井のボクシングの才能に惚れた博士は、白井と専属契約を結び、ボクシング・コーチとなりました。

カーン博士と白井義男(出典:WBC | Hall of Fame)

実はカーン博士自身にボクシングの経験はありませんでした。

ただ、博士はスポーツにおけるコンディションの重要性などを独自に研究しており、当時では先進的な「科学的トレーニング」の知見がありました。

この時の白井は、海軍時代に痛めた腰の影響で不調に喘いでおり、試合に負けるなど低迷していました。

そのため、カーン博士の申し出に白井は当初否定的でした。

しかし、博士の情熱に押され、専属契約を結ぶに至りました。

このカーン博士との出会いが、後の白井の人生を大きく変えることとなります。

【「打たせないで打つ」スタイル】

1948年(昭和23年)7月、白井はカーン博士と組んでから初の試合を行い、見事勝利します。

当時の日本は敗戦の影響もあり食糧事情がよくありませんでしたが、博士が用意した食事で白井の栄養状態は改善し、腰痛も克服しました。

また、当時の日本ボクシング界では「打たれたら打ち返す」という「拳闘」の戦い方が主流でしたが、博士は、ガードを徹底し正確なパンチで相手を攻撃する「打たせないで打つ」スタイルを白井に遂行させました。

1949年1月、白井は日本フライ級チャンピオン・花田陽一郎と対戦します。

花田陽一郎(出典:『アサヒグラフ』朝日新聞社)

花田はデビュー2年目の1934年(昭和9年)に日本フライ級王座を獲得し、類まれなスピードとテクニックを併せ持つ技巧派のボクサーです。

白井がカーン博士と組む前の1947年に両者は一度対戦しており、この時は花田が白井を圧倒して勝利していました。

リマッチとなったこの試合では白井が花田を5RでKOし、日本フライ級王座を獲得しました。

カーン博士と組み、万全のコンディションと「打たせないで打つ」スタイルを確立した白井にとって、花田は敵ではありませんでした。

勢いそのままに、白井は同年12月に堀口宏の持つ日本バンタム級王座に挑戦します。

堀口兄弟(右手前が堀口宏)

堀口は、当時の日本ボクシング界の象徴的存在だったピストン堀口の実の弟で、日本バンタム級王座を3度防衛している強豪です。

その堀口を白井は判定で下し、日本フライ級チャンピオンでありながら日本バンタム級チャンピオンにもなりました。

【日本人初の世界チャンピオン】

1951年(昭和26年)5月、カーン博士は世界フライ級チャンピオンのダド・マリノを日本に呼び寄せ、ノンタイトル戦で白井 vs マリノが実現しました。

この試合は接戦となりましたが、判定1-2でマリノが勝利しました。

同年12月、今度は白井がマリノの地元ハワイへ行き、再度ノンタイトルで試合が実現しました。

このリマッチでは白井がマリノから合計6度のダウンを奪って圧倒し、7RTKO勝ちを収めました。

この勝利により、白井が現役王者マリノを超える実力であることが証明されました。

そして1952年(昭和27年)5月19日、世界フライ級タイトルマッチとして王者 ダド・マリノ vs 挑戦者 白井義男が実現しました。

この試合は日本で初めて実現した世界タイトルマッチでもあります。

カーン博士は試合前、白井にこう語りました。

「日本は戦争でアメリカに負け、今の日本で世界に対抗できるのはスポーツしかないだろう。キミは自分のために戦うと思ってはいけない。日本人の気力と自信をキミの勝利で呼び戻すのだ」
(『ボクシング100年』日本スポーツ出版社,2001年)。

両者1勝1敗で迎えた3度目の対戦は、強打を打ち込むマリノとアウトボクシングをする白井という構図となり、15Rの判定までもつれ込みます。

ちなみに、現在のボクシングの世界戦は12R制ですが、当時は15R制でした。

判定では、白井に軍配が上がり、日本人初のボクシング世界チャンピオンが誕生となりました。

この試合は後楽園球場特設リングで行われ、約4万人の観衆が詰めかけました。

4万人という入場数は、日本人の世界戦興行における観客動員数の最高記録となっています。

ちなみに、白井が日本人で初めて世界チャンピオンとなったこの日を記念し、5月19日は日本プロボクシング協会によって「ボクシングの日」に認定されています。

チャンピオンとなった白井義男(出典:『サン写真新聞(1952年5月21日号)』毎日新聞社)

現在のボクシングではミニマム級からヘビー級まで17階級ありますが、白井が世界チャンピオンになった1952年当時は全部で8階級(もしくは10階級)でした。

また、現在はWBA、WBC、IBF、WBOとチャンピオンを認定する団体が4つありますが、当時は1つでした。

そのため、現在よりも世界チャンピオンが狭き門で、チャンピオンの敷居と権威が高い時代に、白井は王座を獲得したのです。

【王座陥落と引退】

世界チャンピオンとなった白井は初防衛戦でダド・マリノと闘いました。

通算4度目の対戦となったこの試合で、白井はマリノを判定で下し、初防衛に成功しました。

タイトル防衛後の1952年12月、白井は婚約していた妻・登志子と結婚しました。

1954年(昭和29年)7月、白井はメキシコでパスカル・ペレスと対戦しました。

パスカル・ペレス

ペレスはオリンピックで金メダルを獲得したのちに鳴り物入りでプロデビューし、デビューから18連続KO勝利を収めた超強豪ボクサーです。

この試合は引き分けとなり、同年11月、今度は日本で対戦することとなりました。

23勝1分無敗という戦績を誇るペレスに対して、白井は苦戦し、15R判定負けにより、4度防衛していた王座から陥落しました。

白井 vs ペレス

翌1955年5月、今度は白井が挑戦者として王者ペレスに挑みました。

しかし、この試合で白井は5RKO負けを喫しました。

試合後、白井は現役引退を表明しました。

日本人初の世界チャンピオンとなり、日本中に勇気と希望を与えた白井のボクシング人生はこうして幕を閉じました。

【白井義男とカーン博士の絆】

カーン博士は、「打たれたら打ち返す」という「拳闘」の戦い方が主流だった当時の日本ボクシング界において、「打たせないで打つ」スタイルを確立し、栄養学的見地と「科学的トレーニング」によって白井を世界チャンピオンに導きました。

また、対戦相手の長所と短所を分析し、選手の精神面までケアするなど、その後のボクシング界やスポーツ界の基本となるメソッドを確立して白井をバックアップしました。

日本人初の世界チャンピオンという白井の偉業は、カーン博士という名参謀がいたからこそ成し遂げられたものでした。

白井の引退後も博士は日本に住み続け、両者の交流は続きました。

カーン博士は独り身だったため、白井夫妻が家族の一員として博士を迎え、一緒に暮らしました。

晩年のカーン博士は認知症になりましたが、白井夫妻が懸命に看病を行いました。

そして、1971年(昭和46年)、カーン博士は日本で息を引き取りました。

博士の死からおよそ30年が経った2003年(平成15年)、白井義男は80年の生涯に幕を閉じました。

白井義男(出典:『アサヒグラフ』朝日新聞社)

白井が日本ボクシング界に残した功績は大きく、白井生誕100周年となった2023年11月には日本ボクシングコミッション(JBC)による記念イベントが開かれました。

白井義男とカーン博士が築いた「打たせないで打つ」スタイルは、現代の日本の名選手たちにも受け継がれています。

以上、日本人初のボクシング世界チャンピオン、白井義男の生涯について解説しました。

白井義男の生涯については、YouTube動画も作成しましたので、ぜひご覧ください。

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【参考文献】
5月19日はボクシングの日! 白井義男の日本初世界王者誕生から71年 戦後の日本に希望の光
https://boxingnews.jp/news/74574/

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