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【従順ならざる唯一の日本人】白洲次郎の生涯

みなさんは、敗戦後の連合国軍占領下に吉田茂の側近として活躍し、日本の復興に尽力した白洲次郎という人物をご存知でしょうか?

白洲は、第二次世界大戦で日本はアメリカに負けると予測し、敗戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と真っ向から渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と称されました。

戦後混迷期の日本で経済安定本部次長や貿易庁長官などの要職を歴任し、1950年代には東北電力の会長を務めるなど実業家としても活躍しました。

今回は、戦後混迷期の日本を独立・復興に導いた陰の立役者・白洲次郎の生涯を解説します。

【育ちのいい野蛮人】

白洲は1902年(明治35年)、現在の兵庫県芦屋市に生まれました。

白洲家は三田藩(兵庫県三田市)で代々重役を務めた家柄で、父・文平は貿易商という非常に裕福な家庭でした。

何不自由のない暮らしで育った白洲は、1914年(大正3年)、名門・旧制神戸第一中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)に入学しました。

しかし、なかなか学校に馴染めず、授業態度が悪く成績もよくありませんでした。

父親から莫大なお小遣いを与えられていた白洲は常に遊び歩いており、成績表の素行欄には「驕慢」「怠惰」などの文字が並びました。

白洲が喧嘩沙汰を多く起こすため、自宅には謝罪のために持って行く菓子折りが常備されていたという逸話もあります。

この中学時代の同級生には、後に佐藤栄作内閣で文化庁長官を務める作家の今日出海がいます。

今日出海

今日出海は、白洲の奔放な様子を称して「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼びました。

一方で、祖父の退蔵が神戸女学院の創立に関わっていた関係で白洲家には外国人教師が寄宿しており、そこで白洲はネイティブの英語を学びました。

神戸第一中学卒業後、白洲はイギリスに渡り、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学します。

クレア・カレッジは、イギリス国王エドワード1世の孫娘エドワード・クレアによって創設されたケンブリッジ大学屈指の名門校です。

このときクレア・カレッジへの入学が確認された69名のなかで、アジア人は白洲ただ一人でした。

莫大な仕送りを受けていた白洲は、ベントレーやブガッティなどの愛車を所有し、週末はレースに熱中するなど、イギリスでも奔放さは変わりませんでした。

ブガッティに乗る白洲次郎(ケンブリッジ時代)

一方で、「プリンシプル(自分の行動原則をもつこと)」や「ノブレス・オブリージュ(高貴な社会規範)」などのイギリス流の紳士文化も学びました。

【家業の倒産と結婚】

潤沢な仕送りで薔薇色の留学生活を謳歌していた白洲に悲報が舞い込みます。

1928年(昭和3年)、金融恐慌のあおりを受け、父の経営する白洲商店が倒産しました。

白洲も留学どころではなくなり、愛車のベントレーやブガッティを手放して急遽日本へ帰国しました。

白洲家には入れ替わり立ち替わり債権者が訪れますが、父・文平は遊びに出かけ、母・よし子が対応していました。

その姿に業を煮やした白洲は父と衝突し、東京へ行く決意を固めます。

1929年(昭和4年)、上京した白洲は英字新聞『ジャパン・アドバタイザー』の記者となりました。

白洲は、ここで得た収入を母・よし子への仕送りに宛てました。

この時、白洲は茶会で華族である樺山愛輔の次女・正子と知り合い、結婚しました。

正子も白洲と同様に海外への留学経験があり、お互いが一目惚れをしたと言います。

この時代には珍しい恋愛結婚でした。

ちなみに、正子の祖父は西南戦争で活躍し、警視総監、海軍大臣、内務大臣などを歴任した伯爵の樺山資紀です。

正子の祖父・樺山資紀

正子は華族出身であり、白洲を凌ぐ華麗な経歴を持つ才女でした。

当時の日本ではまだ欧米を知る者が多くなかったため、白洲は引く手あまたとなり、セール・フレイザー商会や日本食糧工業(後の日本水産/現:ニッスイ)で若くして取締役を務めました。

【近衛文麿と吉田茂】

白洲は、神戸時代の友人・牛場友彦の紹介で近衛文麿と出会いました。

近衛文麿

近衛家は藤原鎌足を始祖とし、平安時代から摂政・関白を輩出してきた五摂家の一つで、近衛は貴族社会の頂点に立つ人物でした。

1937年(昭和12年)に近衛内閣が誕生すると、牛場は首相秘書官となり、白洲も側近として活動するようになります。

また、正子のいた樺山家は、後に首相となる吉田茂の家系と交流があり、吉田が近衛と親しかった関係も相まって白洲は吉田との交流もありました。

白洲がイギリス出張の際には、駐英大使時代の吉田を訪れ、2人で大使館地下にあるビリヤードで楽しんでいたといいます。

そんななか、日本も徐々に戦時色が強くなっていきます。

1940年(昭和15年)に発足した第2次近衛内閣は日独伊三国同盟を締結しました。

近衛は白洲や吉田と同様に米英との開戦には反対の立場だったとされますが、親ドイツ派や軍部を抑えられず、ドイツ・イタリアとの軍事同盟締結に至りました。

ベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月) 出典:連邦公文書館 https://www.bild.bundesarchiv.de/dba/de/search/?query=Bild+183-L09218

また、南部仏印進駐を実行するなどしてアメリカの対日石油禁輸措置や在米日本資産凍結を招き、袋小路に入った近衛内閣は総辞職しました。

後継として東條英機内閣が発足しますが、対米関係は改善せず、1941年(昭和16年)11月、アメリカからハル・ノートを突き付けられます。

コーデル・ハル

ハル・ノートは、中国や仏印からの無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の廃棄など日本にとって非常に厳しいものでした。

ちなみに、戦後の東京裁判で判事を務めるラダ・ビノード・パールは、「ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう」と述べています。

ラダ・ビノード・パール https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/archief/2.21.273/invnr/1/file/NL-HaNA_2.21.273_1_0004

ハル・ノートを拒否した日本は、12月8日、ハワイのオアフ島にある米軍基地を攻撃し(真珠湾攻撃)、日米開戦の火蓋が切られました。

攻撃で爆沈した戦艦アリゾナ

【日本の敗戦】

開戦すれば日本が負けると分析した白洲は、近い将来に食糧不足が起きること、東京一円が空襲されることを予測し、職を辞して現在の東京都町田市能ヶ谷に移住、そこで農業を始めました。

当時の日本社会は「イケイケドンドン」の空気が醸成されており、ここまで冷徹に分析して行動できた人間が果たしてどれくらいいたのか、考えさせられます。

真珠湾攻撃以降、勢いに乗っていた日本ですが、1942年(昭和17年)6月、日本海軍はミッドウェー海戦において「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」という4隻の空母を失い、大敗を喫します。

攻撃を受ける日本海軍の空母飛龍

ここから米軍の反転攻勢が始まり、ガダルカナル島撤退、アッツ島玉砕、サイパン島陥落、マリアナ沖海戦敗北、レイテ沖海戦敗北、米軍の硫黄島上陸、東京大空襲、米軍の沖縄本島上陸、と日本は追い詰められ、1945年(昭和20年)8月6日、広島に人類史上初となる核爆弾が投下され、8月8日にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、8月9日、広島に続いて長崎にも原爆が投下されます。

長崎に落とされた原子爆弾

こうして8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、翌8月15日、昭和天皇の玉音放送により戦争終結が国民に知らされました。

玉音放送を聴く日本国民

日本は戦争に敗れました。

日本は建国以来、他国に占領された経験が一度もありません。

アジアで初となる近代化を達成し、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と勝ち続け、欧州以外の国として唯一の国際連盟常任理事国となるなど、破竹の勢いでした。

ただ、第二次世界大戦で国土を焼け野原にされた日本は、他国に占領されることとなったのです。

1945年(昭和20年)8月30日、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立ちました。

ダグラス・マッカーサー(右から2人目)

敗戦後に発足した東久邇宮稔彦王内閣とその後継の幣原喜重郎内閣において、吉田茂が外務大臣に就任しました。

吉田茂

そして吉田は、政府とGHQの間の折衝を行うために新設された終戦連絡中央事務局(略称:終連)の参与に白洲を任命しました。

【従順ならざる唯一の日本人】

戦勝国と敗戦国という関係になり、国土を占領された日本がGHQに抗うことは容易ではありませんでした。

役人の多くは、GHQの言いなりとなりました。

しかし、白洲は違いました。

GHQ民政局の陰の実力者がチャールズ・ケーディスであると早々に見抜き、GHQからの指令を事前に入手したり、指示に齟齬が生じないよう指令は文書で要求するなどして、GHQ内では手強い日本人として認知されました。

チャールズ・ケーディス

のちに内閣総理大臣となる宮澤喜一は、「占領期間中、白洲さんはとにかく占領軍に楯ついていた」と述べています。

また、こんなエピソードもあります。

GHQ民政局長のコートニー・ホイットニーが白洲の英語力を褒めたところ、白洲は「あなたの英語も、もっと練習したら上達しますよ」と切り返したといいます。

アメリカ人に勝るとも劣らない高身長で負けん気が強く、加えてイギリス仕込みの語学力を持つ白洲にGHQ高官も手を焼きました。

白洲は「プリンシプル(自分の行動原則をもつこと)」を大事にし、筋の通らない話には相手が誰であろうと一歩も引きませんでした。

妻・正子からは「乱世に生き甲斐を感じるような野人」と評されました。

白洲の妻・正子

白洲の口癖は、「戦争には負けたけれども奴隷になったわけではない」でした。

こうして白洲は、GHQから「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれるようになりました。

白洲は1946年(昭和21年)3月に終連次長に就任し、同年8月には経済安定本部次長に就任するなど、活躍の場を広げていきました。

【辣腕】

1948年(昭和23年)、第2次吉田茂内閣のもとで白洲は貿易庁長官のポストに就きました。

この時期、海外への輸出には政府の許可が必要であり、この許可をめぐって貿易庁内には贈収賄が絶えず、綱紀粛正のために白洲が送り込まれました。

汚職根絶に辣腕を振るった白洲は、輸出産業を育成し外貨獲得によって経済成長にはずみをつけるため、商工省を改組して通商産業省(現:経済産業省)を創設しました。

通産省を誕生させた白洲は、電気事業の再編にも取り組みました。

戦時中は日本発送電株式会社という国策会社が全国の発電と送電を一元的に行っていましたが、1948年にGHQから過度経済力集中排除法の指定を受け、早急な対策が必要となっていました。

「電力の鬼」と称された松永安左エ門らと再編に取り組み、現在に繋がる9電力体制(北海道電力・東北電力・東京電力・中部電力・北陸電力・関西電力・中国電力・四国電力・九州電力)を確立し、1951年(昭和26年)には東北電力の会長に就任しました。

松永安左エ門

東北電力会長となった白洲は、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き、奥只見ダムなどの建設を推進し、電力の安定供給に道筋をつけました。

奥只見ダム

連合国との講和問題では、池田勇人や宮澤喜一と共に渡米し、ジョン・フォスター・ダレスと会談するなど平和条約締結の準備に奔走しました。

ジョン・フォスター・ダレス

こうして講和条約の手筈が整い、1951年9月、吉田茂を首席とした全権団に顧問として随行し、アメリカに渡りました。

アメリカに渡る白洲と吉田

白洲は外務省の役人を通して吉田の演説内容を事前に確認しました。

すると、外務省の役人がGHQのチェックを経た上で原稿を作成したことが判明し、内容もGHQに対する美辞麗句が並べられ、しかも英語で書かれていました。

これに白洲は激怒し、「講和会議では戦勝国と同等の資格で出席できるんだ。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるんだ!」と一喝したとされます。

これによって原稿が改められ、吉田茂は日本語で演説を行い、1951年9月8日、日本はサンフランシスコ平和条約に調印して独立を果たすこととなります。

サンフランシスコ平和条約に署名する吉田

第一線から退いた後は荒川水力電気会長を務め、大沢商会、大洋漁業(現:マルハニチロ)、日本テレビなどの重役を務めました。

【プリンシプル】

日本を独立に導いた吉田茂に対する国民の評価は、歴代首相のなかでも高いです。

しかし、その功績の陰には、間違いなく白洲の存在がありました。

評論家の大宅壮一は「吉田が富士なら白洲は宝永山」と表現し、白洲は吉田にとって「唯一の腹心だった」と述べています。

大宅壮一

晩年は、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長としてゴルフに興じ、愛車のポルシェを乗り回すなどして余生を過ごしました。

また、妻・正子がエッセイストとして名を成し、白洲は“白洲正子の夫”という形で扱われることが多くなりましが、白洲自身は正子の活躍をたいへん喜び、「うちのカミサンはえらい」とよく口にしていたと言います。

そして1985年(昭和60年)11月、白洲は家族に看取られながらこの世を去りました。享年83。

白洲の死はマスコミでも報じられ、当時の中曾根康弘首相が弔辞を述べました。

しかし、葬式は行われませんでした。

白洲が生前、「葬式無用、戒名不用」と遺言を残していたためです。

白洲は妻・正子に「俺が死んでも葬式はいらないぞ。知りもしないやつらが義理で来るのはまっぴらだ。もし背いたら化けて出る」と伝えたといいます。

最期まで自分のプリンシプルを貫いた日本男児でした。

以上、敗戦という未曽有の危機に活躍し、GHQと渡り合って日本を復興に導いた立役者、白洲次郎の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇


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【参考文献】 『白洲次郎 占領を背負った男』北康利,講談社,2005年

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