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「東西本願寺」をまいまいでブラブラ

タイトルの「まいまい」とはブラタモリなどのガイド案内でお馴染みの「まいまい京都」さんの事です。

※本記事は画像も含めて当日の参加者様スタッフ様の了承を得て書かせていただいています。

以前から気にはなっていたのですが、ちょっと前にレキジョークルで利用しようとお目当ての企画を申し込んでみたのですが抽選に外れてしまい、残念な思いをしました。

このツアー企画はおひとり様、もしくは2人参加程度が望ましく、グループでの参加は難しいという事が、
今回体験してみて、つくづくわかりました。

レキジョークルのように7人もいると、行先を決めるよりみんなの予定が合う日にちを決める方が難しく、肝心な目的に沿う詳細スケジュールは後回しになります。

ですが、「まいまい京都」では予め決められた企画に自分の都合さえ合えば、即決で参加することができるのです。

それに20名程度の少人数のミニツアーなので、ひとつのグループで7人分も独占する事は、ルール違反とも言えます。

それを考慮すると「まいまい…」に参加するには、行きたいツアーに個々で参加すべきなのです。

ツアー内容も、ただ観光するというより、さらに一歩踏み込んだマニアックなものが多く、素人とはいえ歴史好きにはそそられる企画だらけで、どれにしようか迷ってしまうほどでした。


そこで早速、私はおひとり様で参加してみたのです。

京都の駅前に威風堂々と建つ、2つの本願寺そのものではなく、それらがもたらした寺内町の特徴や違いなどを、ブラブラ練り歩いて探究してゆくというツアーを体験しました。


京都駅集合

大混雑の京都駅で集合して手続きを済ませると、早速ツアー開始です。
ガイドさん1名だけでの案内かと思っていたのですが、他にスタッフが2名付き、常に安全確認をしてくださいます。

特にこの日は京都駅から近いエリアを散策するので、人も車も多く、解説に聞き入っていたら周りも見えなくなりがちなので、いち早く危険を察知して教えてくれました。

さて、本日のガイドは地理男子の重永瞬さん。
おそらくウチの次男と同い年ぐらい?

他のスタッフの情報によると、なんと!京大の大学院生との事。

次男とは年だけ同じで、頭の構造はまったく違う🤣

こっそり、心中ではシゲちゃんと呼ばせていただき、まるで母の感覚で耳を傾けました。
この記事中でもシゲちゃんと呼ばせていただきます。

当然、歴史も地理もよ~く知っているので、格闘技にハマっている次男とは逆の意味でとても頼もしい。

参加メンバーの方々の年齢層は、おそらく20代~70代、男女比率もこの日は半々ぐらいでしょうか。
まさしく老若男女を問わない、様々な方々が参加されていました。

東西の本願寺をそれぞれ「お西さん」「お東さん」といい、京都駅の真ん前にそびえる「京都タワー」は別名を「お東さんの蝋燭」と言うそうです。
言われてみれば、蝋燭にも見えますね。



東西本願寺の違い

終始、夢中だったので、憶えている中で印象に残った両寺の違いをまとめてみます。

東西本願寺の位置(南に京都駅)
当日配布の資料より


御影堂の位置と建築について

東西両方の「御影ごえい堂」は開祖である親鸞聖人しんらんしょうにんの像を祀る本堂です。

[西本願寺]
私としたことが写真を撮っていませんでした。
撮ったはずだといくら探しても見当たらず、しかたなくGooglemapのストリートビューよりお借りしています。

寛永13年(1636)建立で日本における最古で最大の建造物です。

[東本願寺]

こちらの御影堂は何度か火災に遭い、明治28年(1895)建立のもの。


双方の御影堂は、建立の年代の技術的な面で、明治に建てられたお東さんの御影堂の方が、柱が少なくすっきりしたデザインです。

そして東西どちらも御影堂と阿弥陀堂は並んで立っているのですが、御影堂の位置がお西さんはが南側、お東さんは北側にあり、反対の配置になっています。

新選組屯所の西本願寺

そういえば、新選組が「八木邸」の次に屯所としていたのが「西本願寺」でした。
「壬生義士伝」などの映画で使われたように、まさか本堂である「御影堂」で居を構えたわけではないでしょうから、休憩中のシゲちゃんに質問してみました。

北東の隅っこにある「太鼓楼」に居たそうで、その前の庭で砲術や剣の稽古をしていたそうです。(上記地図参照)


後ほどに本願寺東側の堀川通から眺めると、その太鼓楼が敷地のギリギリきわに建てられているのがよくわかります。

よほど嫌がられていたのがよくわかります💦

そしてそのすぐ北側にある本願寺の宿坊のところに、かつて織田信長が足利義昭のために建てた館があったそうです。

一か所で、いろんな時代にワープできますね

義昭の建てた館?
それって「旧二条城」ではないのか?と言う疑問が湧き、だとすれば位置的にも離れているので、何の事かと思ったのですが、その時には質問できずにいました。

そして、様々に検索してみたのですが実際にどんな建物だったのかわかりませんでした。


西と東に分かれたのはいつ?

説明を受けて、過去記事の内容が間違っていたことに気付き訂正済しました。

かつて戦国時代後期に本願寺は現在の「大阪城」にあり、信長と熾烈な戦いを繰り広げた時の宗主は顕如けんにょでした。

彼が没したあと長男・教如きょうにょか三男・准如じゅんにょかで後継者争いが勃発し、当時の権力者である秀吉が仲裁に入って、本願寺は西と東に分かれたと書かせていただいたのが、間違いだったのです。

秀吉は准如じゅんにょを宗主として天正19年(1591)本願寺を京都へ移しただけで、その11年後に徳川家康が教如きょうにょを宗主として慶長7年(1602)東本願寺を建立させたそうです。

西の秀吉、東の家康。わかりやすいですね。

そしてシゲちゃんいわく、東西に分かれたタイミングはずっと「石山合戦」だと言われていましたが、実はその後の秀吉による「太閤検地」ではないかと言う説が浮上しているのだとか。

検地の時に土地の所有権の問題が勃発して、敷地を分けるしかなかったみたいなのです。
すでに、秀吉生存中に東西の土地は現在のように分かれていて、区画された後に家康が東本願寺を建てさせた?

すみません。このあたりの経緯はちょっと違うかもしれません。
書きながら、私なりに細かいところのピントが合わなくなってきました。

また何かで史実確認ができたら記事にしたいと思います。


寺内町の雰囲気の違い


・お西さん側

お西さん近くに「ウォンタナパーキング」という名の駐車場がありました。
ここの住所が「魚ノ棚」なので、
「うおのたな」→「ウォンタナ」と外国語もどきに変えているようです。

シゲちゃんいわく、「コンセプト」さんの管理する駐車場の名に着目すると面白いそうです。

こんな事は一人だと気にも留めないなぁ


両方の寺内町を見て、まず思う事は、
お西さんは活気があり、お東さんは寂れている事です。

西本願寺寺内町

[松風]

お西さんの堀川通を挟んだ前に、老舗の和菓子店「松風調進所」があり、その名の通り「松風」という有名な銘菓があります。

「松風」の特徴は「小麦粉生地を自然発酵させた焼きもの」であることです。
素材もシンプル。小麦粉、砂糖、麦芽飴、白味噌。
この生地を自然発酵させて、ケシの実をふりかけて焼き上げます。

三木都

~わすれては 波の音かとおもふなり 
枕にちかき 庭の松風~

信長と互角に戦った11世宗主・顕如けんにょによる和歌です。

かつての地、石山本願寺は現在の大阪城なので、当時は大阪湾の際に建ち、さざ波の音がよく聞こえたそうです。
京都に移り住んでも風に揺れる松葉の音が、さざ波の音のようだと歌っているのです。

この歌から「松風」という銘菓が誕生しました。

顕如の侘しさが伝わりますね


[中井庄五郎受難の碑]

こんなところに天満屋があったのですね!
絶対に過去にも通っているのですが、この碑はテレビでしか見た事はありませんでした。

ここが坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された「近江屋事件」の後に起きた海援隊・陸援隊 VS 新選組 の「天満屋事件の現場です。

この事件を書くには字数が多くなるので、ざっくり言うと、龍馬が生存中に海援隊の伊呂波いろは丸と紀州藩の舟が衝突し、多額の賠償金を紀州藩から勝ち取った事を根に持ち、「近江屋事件」の黒幕は紀州藩の三浦久太郎だと考えたのが海・陸援隊です。

彼らは三浦の暗殺を計画し、それを察知した三浦が新選組に警護を依頼したのです。

しかし、この碑にある中井庄五郎はどちらにも属さない十津川藩士でありながら、龍馬と交流があった事を理由に自ら加担して、命を落としました。

いったい龍馬暗殺の黒幕は誰なんでしょうね


・お東さん側

お西さんの門前は堀川通となっていますが、お東さんでは憩いの広場として整備されています。

東本願寺寺内町

[重信じゅうしん会館]

ツタに覆われたレトロな近代建築ですが、玄関ドアにもツタが伸び、立ち入り禁止となっていました。しかし、たまに何かのイベントで解放することもあるそうです。

昭和5年(1930)の竣工との事なので、すでに築90年以上経ち、かつては大谷大学の寮だったとか。

それなりに整備をしたらなかなかオシャレかもしれませんが、見た目にも朽ちていて、耐久性の面で心配です。

[渉成園しょうせいえん]

お東さんが3代将軍・徳川家光から寄進された飛地境内地とびちけいだいちを「十三景」と言われるそれぞれに趣向を凝らした絶景が評判の庭園です。

別名を「枳殻邸きこくてい」と言うのですが、その由来は、枳殻きこくとはミカン科の落葉低木「カラタチ」の事で、この土地の周囲にたくさん植えてあったからだそうです。

この日は前を通っただけですが、ここもまた訪れてみたいと思いました。


参加してみて感じた事

本当はもっとたくさんのポイントで解説をして下さったのですが、全てを明確に記憶できていません。
そう言えば、一生懸命にメモを取っていた方が何名かおられたのですが、それもアリだなと思いました。

しかし、私の場合は足にも自信がないためついてゆくのに精一杯でした。

京都はレンタサイクルで行くより、歩くことに本当の意味がありますね。

さすが千年の都だけあって、街中に様々な時代が同居し、時代の流れを把握していると、一層楽しめそうです。
解説中にも様々な時代の史実が登場するのは京都ならではであり、まさしく歴史の中の「点と点」が「線」で結ばれていく事に大きな醍醐味を感じました。


感想と反省

1,一人でも十分楽しめる
2,個人で行くと見逃すようなところに触れてくれる
3,役立つまとめ資料を配ってくれる

この資料は非常によくできている

4,方向音痴の私でも現在地と方角がわかりやすい
5,インカムを使っての解説なので聞き取りやすい
6,各ポイントにより、様々な時代の出来事を解説
7,コースの流れを止めてはいけないので、すぐに質問しにくい。

私は特に寺内町をぐるぐる巡っていると、現在地がわからなくなりますが、資料の地図上に番号が記載してあり、「今は〇図の△番です。」と言ってくれるのは大変助かりました。

何度も通っているにもかかわらず、今更知る事も多く、今まで何にも見えていなかったのを痛感しながらも今後の注目ポイントが見えたように思います。

3時間の間だけと軽く考えていましたが、非常によく歩いたため、後半は体力的に疲れが出て集中力に欠けてしまったのが残念で、つくづく日頃の運動不足を思い知りました。

参加するたびに担当ガイドさんの似顔絵シールが貰え、
5枚で記念グッズが進呈されるようです。





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