御朱印を書かない浄土真宗のポリシー
ほとんどの浄土真宗寺院では、御朱印の授与はないと言います。
一応、我が家が信仰する宗教であるにもかかわらず、初めて知った時は愕然としました。
そういえば過去に浄土真宗の寺院を参拝しなかった事にも気付かされたのです。
先日訪問した「四天王寺」は和宗、「一心寺」は浄土宗だったことにも思い至りました。
過去にいただいた御朱印も思い起こせば真言宗や禅宗のものが多いと、今更気付いたのです。
そして、先日浄土真宗の本山である東西本願寺へも立ち寄ったのですが、当然のように御朱印の授与はされていませんでした。
ではなぜ、浄土真宗寺院では御朱印をいただけないのか?
開祖である親鸞聖人の教えに基づいたポリシーを私なりに整理してみたいと思います。
そもそも御朱印とは?
一般的に私たちが認識している御朱印とはどういうものかは過去記事にも書かせていただきました。
御朱印の種類として、
①順拝帳ー神社仏閣を参拝して巡る記念帳
②御首題帳ー「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」など宗派のお題目が書かれたもの。
③納経帳ー経典の写経を修めた証文
主に3パターンがあるようで、今の御朱印はある意味、これら全てを総称しています。
過去にいただいた御朱印をよく見てみると右上に「奉拝」と書かれています。
しかし、たった一つだけ「奉納経」と書かれたものがありました。
右側の長谷寺のものは、実は江戸時代の「復刻御朱印」ということで、当時のままの形を再現した特別御朱印です。
いただいた時は、どこに違いがあるのかわかっていなかったのですが、あらためて見てみると右上の「拝」と「納経」に違いがあり、これこそが私たちの誤認識を表現したものではないでしょうか?
本来は「納経」の証文だったものが、今や参拝した記念としていただくことが当たり前になり、寺院側もその意味をくみ取った上での表記になっているようです。
浄土真宗の特徴
浄土真宗は細かく分かれている
一口に浄土真宗と言っても細分化しています。
以下は「真宗十派」と言われる主な宗派とその本山のある場所です。
皆さんも良くご存じの京都駅の近くにデン!と2つ並んだ「西本願寺(本願寺派)」と「東本願寺(大谷派)」。
これこそが浄土真宗の大総本山であり、実際これ以外は知らないと言っても過言ではありません。
この2派だけで全国に2万寺近くにのぼります。
それら以外のところで御朱印はあるものの、その筆頭の2つの大寺には御朱印の授与がないのです。
言い換えれば「本願寺派」と「大谷派」の寺院が御朱印はなく、他派でいただけるところもあるようなのです。
江戸時代にはあった
調べてみると真宗の「本願寺派」と「大谷派」の寺院でも、かつて江戸時代には御朱印は存在し、それらには他にはない特徴が見られました。
・「納経」に関する文字がない
上記の画像の御朱印は2つとも真言宗の寺院です。
真宗では納経など関係なかったのでしょうか?
いやそういう事ではなく、「経」よりも心の中にある「思い」に重心を置いていた傾向があり、目に見える証明は不要だという考えがあるようなのです。
・ご本尊の名がない
現在、主流となる御朱印のパターンの一つには上記のように「大日如来」や「十一面観音」など寺院のお堂に祀られたご本尊の名が書かれるか、あるいは「南無阿弥陀仏」などのお題目が書かれることが多いのですが、それらが一切ありませんでした。
・由緒、寺宝に関する文字
寺宝と言っても、ご本尊の仏像が寺宝となっている場合もあり、その他、宝剣や経典など多岐に及びます。
由緒と言うのも、確かにあまり見ない。
ただ先日いただいた「一心寺」の御朱印は由緒になるのかもしれません。
念仏を心で思うだけで救われる
大戦後に「末法思想」が発動?
調べてみると、形は違っても江戸時代には存在し、むしろ積極的に授与していた真宗寺院ではありましたが、第二次世界大戦後に無くなっているようです。
その理由を調べてみたのですが、ハッキリした記述は見つける事はできず、私の勝手な想像によると、これらも釈迦による「末法思想」によるものではないかと思います。
大戦による悲惨な体験は自力に頼るしかなかっためか大混乱を招き、末法思想を呼び起こし、大きく宗教観が変わったという事でしょうか。
本来の教えに基づく考え方
「東本願寺」のホームページに、御朱印に関して書かれていましたので、以下に抜粋しました。
御朱印とは本来、修行の一つのとされる「納経」の証明書として授与されるものでした。
御朱印を否定しているという事は、「納経」を修行済の証明として捉えていない事になります。
親鸞は、浄土宗開祖の法然に弟子入りし、そこからさらに悟りを開いて浄土真宗を開きました。
浄土宗では必ず念仏を唱えなければならなかったのが、
浄土真宗では心の中で思うだけで良いというものです。
どちらも厳しい修行などしなくても、どのような者であっても等しく救われるという教えなのですが、お念仏を唱えるか、唱えないかの違いなのですね。
阿弥陀如来に常に見守られているため、目に見えた行いではなく、日々を過ごす中で感謝の気持ちを忘れない事が大切なのです。
御朱印を頂くためにお参りするのではなく、
真の気持ちで仏様に向き合うべきだと説いているのです。
真宗の寺院では「お守り」もありません。
私がこれに気付いたのも最近の事なのですが、実は元々私は「お守り」を持つことが嫌いです。
なぜなら、ただの気休めに過ぎないし、もしそのお守りを失くしてしまうと、凶事があった時にはそのせいにしてしまいそうで、持つことを避けてきました。
そういう意味では、目に見えた信心のない私にはちょうど良い宗教だと言えるようです。
だいたい「信心がない」と言ってバチが当たらないのは浄土真宗だけかもしれませんし、人それぞれの感謝のカタチで良いのでしょう。
日頃から仏に寄り添って過ごす事こそが肝心であり、御朱印をもらうためにお参りするというのは、本末転倒だと主張しているが、浄土真宗の確固たるポリシーなのです。
【参考サイト】
・古今御朱印覚え書
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