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着地点を見失わないために私が考える事

私はnoteで文章を書くときに、大まか着地点を決めてから書くように心がけています。
いや、正しくはそのつもりです。

書いているちに、あれもこれもと欲張りになる気持ちを抑えて、「着地点」に遠い部分はバッサリ切り捨て、また別の機会に新たなタイトルとして書くようにしています。

その理由は、いくら自分の思いが強くても伝わらなければ何の意味がないと思っているからです。

もちろん、「伝えたい」という意思はなく、ただ単に自分の思いを書き綴っているという人もいるでしょう。
しかし、noteというSNSで発進している以上、「伝えたい」という思いはあって当然だという前提で以下は書かせていただいています。


マイナーな歴史記事を
書くにあたって

特に私は歴史に関しての記事が多く、どちらかと言えばマイナーな題材という自覚は十分にあります。
だからこそ、自分の思いのままに話を飛び火させて文章を構成にしてしまうと、歴史に興味のない人にとっては意味の通らない内容になってしまう。

過去にこんな人がいて、こんな人生を生きて、こんな結果になった、という一連のノンフィクションの物語を知った上で、自分の意見や感想も添え、少しでも多くの人に歴史の面白さを伝えたいと思っています。

自己満足記事では話にならない

歴史記事に限らず、一般的に専門分野に偏った内容を伝えたい時、とにかく熱量が多すぎて、つい読み手を置き去りにしてしまいがちになるようです。

具体的に言えば、せめて読み手に文中の言葉や意味を検索させないようにしたい。

一つの専門用語、あるいは読みにくい人名や地名にルビがない場合、読み手の目線はそこで止まってしまいます。
過去にも書いたことはありますが、文章は流れるように読めなくてはいけない。
その流れを止めてしまうようではいけないのです。
流れが頻繁に止められてしまう文章は、読者置き去りの「自己満足記事」だと言えるのではないでしょうか。

対面で話しているのではなく文面で伝えるのであれば、より理解しやすいような心遣いは必須であり、自分が書きたい事以上に優先しなければならないと思います。

歴史で知る人生の深み

「歴史」がどうしてマイナーだと思うのか?
それは私が今まで、話題の一つとして歴史の話をしかけると、ドン引きする人が多かったからです。

食いつきが悪いとでもいうべきか、ちゃんと聞いていれば質問の一つでも出るところが全くそれもなく、ちゃんと聞いていないのがよくわかったら、早々に話を終わらせたりします(笑)

軽くジャブ打ちして、相手の興味のあるなしを探りながら、リアル世界では密かに歴史仲間を探し続けてきました。

興味のない人には自分から歴史の話をすることはなく、聞かれたらするという程度に留め、興味のあるなしで、話題にするかどうかを決めてきたのです。

こんなに面白いのに!
事実は小説より奇なり!
私がいくら心中で思っていても、相手に興味がなければ響くことはありません。
聞く耳を持たなくては頭に入るわけもありません。

noteでは結構な確率で、「人生エッセイ」が多いように思います。
ご本人にその自覚はなくても、子育てや家族への思い、対人関係、幸せの意味など、読んでいて感動させられる記事も多く、つくづく皆さんの素晴らしさに感激する事がよくあります。

そういう素晴らしいnoterさんたちだからこそ、歴史の面白さを知って、先人たちの人生に思いを寄せれば、さらに深みの増す記事になると、勝手に信じています(笑)。

なぜなら、
歴史は人生エッセイと同じだから。

時代は変わっても、根底にある「人の思い」だけは変わらない。
変わらないからこそ共感できるドラマがある。

現代のテレビドラマに共感できるのなら、歴史上の出来事や人物に共感できないはずはなく、自分の心の中のフィルターを外してみると、創作ではないリアルな感動を見つけられるはずです。

歴史を単に学校で習う教科の一つとして捉えるのではなく、人生語りだという目で眺めてみると、どんなに有名な人物であっても、身近な一人の人間として浮かび上がり寄り添えるものです。
ちょっとしたきっかけさえあれば、目線が変わり、興味を持てるのではないかと願い、「伝わる歴史記事」を書かせていただいているつもりです。


クリエイターに学べ!

想いと生き様が書きたい!

kaoriさんはプロのライターとして活躍されていますが、只今、病気療養中で、思ったようにお仕事ができないジレンマも書き綴られています。
さすがの文章力で、いつもその思いに触れるたびに、こちらの方が元気をいただいているのです。

そんなkaoriさんがライターとして、その原点ともいえる事に自問自答されています。

「書きたいもの」とは何か?

仕事だからとか、報酬とか、まったく度外視して、自分の気持ちに正直になって考えられています。
「そもそも論」に立ち返って、これからのライター人生をどう生き抜くかを真剣に考えて結論を出されています。

この記事に、私もまた気付かされることが多く、初心に返って身の引き締まる思いがしました。
もちろん、私はプロとは言えないので同じ土俵では言えませんが、
書くことに迷いが生じた時は、本来の自分の気持ちに正直になって文章に託す姿勢を持ちたいものです。


自分の才能を育む

Emikoさんも「随筆家」としてプロです。
いつもわかりやすい文章で深い内容を書かれているのです。

文章を書くことなど誰にでもできると思い込んでいたのに、ある人の褒め言葉でがらりと自分への見方が変わったと言われています。
文章を書くこと、あるいは書けることは「才能」なのだと気付かれたのです。

どう足掻いても、文章を書くのが苦手な人はいます。
それは言い換えれば「努力する熱意もない」という事で、向き不向きという以前の話で努力する気すらない、あるいは書こうとする気力も湧かないことなのですよね。

そう思うと、このnoteに集う皆さんがどれだけ才能に溢れているかに気付かされ、またどんな人にも才能はあり、それをどう育むかは自分次第なのです。

みんなもっともっと、自信を持っていい!


そこに愛はあるんか?

書きのたねさんの感性は唯一無二のものであるのは間違いなく、私はとても才能があると思っています。

本記事では、自分の記事を意図がわからない形で紹介されて、戸惑っている気持ちを正直に書かれています。
確かに、これはあるあるなんですよね💦
自分の記事を貼られて、お知らせが届いたから行ってみると、どういうつもりで紹介してくれたのか、まったくわからない時がある。

普通、というか私の感覚では、
記事を紹介させていただくときは、たった一言でも感想を添えるなどして意図を明確にするのが礼儀だと思いますし、それ以前にその記事全体の主旨に沿わなければ意味がないと思っています。

ただのスキ目的?
フォロー目当て?
注目して欲しいかまってちゃん?
それとも、
貼られた記事は中傷記事だったらしく、同意を求めたのか?

それはあまりにも卑怯な手段だ

よくわからない人には反応しないのが得策ですし、そんな愛のない記事紹介は、紹介された方は戸惑うだけです。
よそ様の記事を貼るなら、愛を持ってほしいものです。

このサブタイトルが某CMのキャッチフレーズになってしまいましたが、もう一度問います。
そこに愛はあるんか?
ないんやろ?


落としどころにフォーカスする

着地点が決まらないと、どんな体操選手だってメダルが取れないどころかコケてしまいます。

有難いことにnoteには2種類の見出し設定の機能があり、それを自在に使い分けることでより簡単に着地点を見定める事ができます。
記事全体のフォーカスがボケるのであれば、まずは見出しを付けた段落ごとに着地点を決めてみてはどうでしょうか。

段落ごとの短い文章であればブレることもなく書き進むことができ、最終的に一番言いたかったことを持ってくれば、全体がまとまるように思います。

そこに必要なのは、
・自分の気持ちに正直になること。
・自分を信じること。
・他のクリエイターさんに敬意を持つこと。

それさえあれば逆にまとまりのない、殴り書きの文章であっても、最後にちゃんと自分の中の「真の気持ち」に落としていれば、読み手の心に響くものになるはずです。

伝わる記事とはまとまりのある記事の事で、いくら紆余曲折の過程があっても、最後にオチるべきところにちゃんと落としていれば良いと思うのです。



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