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季節に駆られて暮らしたい

この春は、筍をちゃんとアク抜きして炊き込みごはんに、ふきのとうを天ぷらにできた。過ぎゆく日々のなかでそんな献立は1日か2日のこと。けれど、そのたった一度の食卓はまるで絶景を眺めたような充実感がある。

時々、「毎年お味噌とか作ってそう」と言われるが、作ってない。
梅仕事も、ジャムも、筍の下茹でやふき味噌や実山椒の塩漬けも、気まぐれに作ることはあるけれど、毎年必ずやることはない。
季節の食材をその時期にちゃんとつかまえて、まるでそうするのが当たり前のように保存食をこしらえることができる人に、憧れる。
傍目に私がそんなふうに見えているのは、そうした季節の手仕事ができた日をここぞとばかりにSNSに上げたりしていたからかもしれない。
でも実際は、作る確率と作らない確率は2:8といったところ。それも、初物が出回るのを待ちわびたり、ひいきの生産者さんから食材を取り寄せたりすることはなく、スーパーでその年最初の「その子」に出くわすと、思わず目をそらしてしまう始末だ。

早春、大好きなふきのとうが青果売り場に並ぶと、どきりとする。
つぼんだ薄みどりい姿の愛らしいこと。
でも「今日はだめだ」と思う。
出始めは値段も高いし、大きさも小さい。ふきのとうは、封を切った瞬間からもう鮮度が落ちていく。買ったらすぐに天ぷらにするかふき味噌にでもしなければ。今日はそんな余裕はない。
次の日も、一週間後も、まだ私はそんなことを考える。まだ高い。まだ早い。季節の食材は初々しく、すこやかで、売り場でまっすぐに私を見てくる。もしもここでカゴに入れて、何日も手をつけられることなく彼(あるいは彼女)の若々しさを台無しにしてしまったら。
こわい。こわすぎる。
いっそ買わないほうがいい。

こんなふうにして、毎年のように季節の仕事は私を通り越していくのだ。
気がついた時にはもう、その子は売り場から姿を消している。

夏の土用丑のころ、祖母は家の前に大きなザルを出してきて、ぽて、ぽてと梅干しを並べた。土用干しにされた梅の肌は柔らかくてうぶで、そうっと指で押すとしっとりとへこんだ。春は玉ねぎが、秋は干し柿が軒先にずらりと紐でつるされた。祖母が季節の手仕事が好きだったということではない。畑のある家では、次々と採れる作物をそうして保存しなければ追いつかなかったのだろう。季節の手仕事なんて洒落た名前もない、当たり前の暮らしの知恵。

そう考えると、スーパーで並ぶ旬の食材になかなか手が伸びないのは当然だ。畑を持たない生活者にとって、ふきのとうや梅はわざわざ買うものなのだから。もう、季節の味を透明な瓶に詰めて「丁寧な暮らし」に憧れる時期は過ぎた。流れゆく日々の中でごく自然に、息をするように当たり前に旬の味をこしらえていただくことができたら。きっと、私が本当に憧れているのは暮らしに季節を取り入れる人ではななく、季節の方に自分の暮らしを合わせて生きる人なんだろう。

今のところ私は、打率2割、青果売り場で逡巡するような怠け者。けれど季節の香りをつかまえて、食卓に出すところまで迷いなくできた日は、「ああ今、春を暮らしている」としみじみ思う。

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