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ある宗教2世がSMクラブでM嬢をしていた当時を振り返って

今から20年以上前、大学を卒業し社会人となってから、私は東京にあるM嬢専科のSMクラブで1年半程M嬢をしていました。

当時の私が書いていたブログは、「昼寝するブタ」という元エホバの証人2世界隈で有名だったサイトに

「子供の頃から布団叩きやベルトを使ったJWのムチで叩かれる恐怖にさらされ続けた結果、心に大きなトラウマを抱えてしまい、自分のトラウマ解決のために風俗(SMクラブ)でM嬢(マゾヒスト専門)になりました。」

という文言でリンクしていただいてました。

それも一理あるのでしょうが、私はエホバの証人式のムチの影響というより、兄から受けた性被害が原点だと思っています。

当時書いていた「ぷらいべと·たいむ」というブログは自ら消したわけではなく、放置していたらいつの間にか消えていました。

私の兄は小6の頃、引っ越しを機に不登校になり宗教の集まりにも行かなくなり、それと同時に酷い家庭内暴力が始まりました。

私はまだ小学校低学年で兄の気持ちを察することは難しいなりに、不登校児のカウンセラーになりたいと思うようになりましたが、そんな兄と2階の部屋で2人になった時に脱がされ···本番行為まではいかなかったものの私はワケが分からないままにされていました。

兄にこのことを親にいったら殺すといわれ、今思えば兄もそこまではできなかったと思いますが…兄に頭を蹴られ脳震盪おこし病院に運ばれたこともあった私は、次は殺されると本気で思っていました。

当時はあの行為そのものより、殺すとの脅しを恐れていたように思います。

女の勘のようなものもあったのでしょう。
母はその日のうちに私の様子がおかしいことに気づき、この時ばかりは、問うても震え泣くだけで何もいわない私が話し出すまでじっと待ってくれました。

堪えきれず母にその出来事を話し、絶対に秘密にしてと頼み、母はその約束を守ってくれました。

兄へのムチとして昔よく使われていた竹の棒で兄から陰部を痛めつけられたので、母は翌日に私を婦人科に連れていってくれました。

塗り薬を処方され「こんなにいじるんじゃないよ」と先生に怒られ、屈辱でも何も言い返せなかった気持ちは未だに覚えています。

母は、兄と私が二人だけになる機会を作ると危ないと考え、私と父、母と兄で別れて暮らすことになりました。

表向きは、父と兄の関係が悪いからという理由、もう一つは、校区をかえたら学校に行けるようになるかもしれないからという理由で。

実際に父と兄の喧嘩は凄まじく、外に面したガラス窓は何度も割れるし、兄に力負けした父は顔面血だらにしてわめきながら外に出ていくし、それをみた近所の方に警察を呼ばれるし、めちゃくちゃでした。

母は、夕方に私を集会に連れていったり塾の仕事をこなした後、夜に兄のいる借家に向かい、翌日の朝、兄が朝食を食べてから我が家に戻るという通い生活をしていました。

そんな母に対し、

「○○姉妹には愛がない」

「お兄ちゃんは本当はいい子なのよ」

わざわざ家にやってきて親切な顔しながら踏み込んでくる会衆の信者たち。

…じゃあ何かい、親のためにいい子を演じている私のホントは悪い子なんかい…

母は学校の先生に勧められてカウンセラーにも相談しましたが、母にとっては、単に兄以外の家族が批判されるように感じ追い詰められただけのようでした。

朝、身体中痣だらけにして我が家に戻ってくる母。

「出口の見えない長いトンネル」といって母は泣いていました。

私を守るため…私と兄の間に起きたことを周囲に伏せてとった行動を責められ…

オマエナンカニナニガワカルオマエナンカニナニガワカルオマエナンカニナニガワカル

カウンセラーも周囲の信者も…外野から何を言われても聞いても、私は常にこの呪文を心で唱え自分を守りました。

母はこの頃、何度もエホバに祈り、そうしてより個人的な信仰が強まったといいます。

私も何もかもつらくて泣きながら身体を掻きむしりながら何度も神に祈りました。
まだ小さかった私は、口には絶対に出しませんでしたが、夜に母が家にいないことがただ寂しかったんだと思います。家にいる父との会話はありません。

しかしどんなに祈ろうが何の答えも得られず、私は徐々に神や信仰…それに繋がる母との心の溝ができてしまいました。 

何故私は母のようにエホバを信じきれないんだろう。

私が数ある2世問題で1番苦しんだのはこの一点です。

私を守ってくれた母を、私も守りたいと思い小4くらいで伝道者にはなりましたが、元々冷めた目と子どもなりの青臭い正義感で周囲を眺めていた私は、会衆内の信者の言動の矛盾に苦しみ、神の存在も信じきれませんでした。

バプテスマの討議が始まっても、質問の答えは本に書いてあるので分かるものの、どうしてもそう思えないので答えられず涙がこぼれるばかり、母にはそんなに泣くのは心にやましいことがあるからと言われ、よけいに涙が零れ声が出せなくなり、討議は全く進みません。

司会者は同じ会衆の10歳上の2世信者にバトンタッチ、母はその方を私のロールモデルとして考えていたのでしょう。
その方はとても良い方で仲良くはなりましたが、それでもどうしても神や教義を信じることができず…。

大学進学は反対されていたものの、

「1世として学び直したいから」

と理由をつけて進学を許してもらい実家を出ました。

「1世として学び直す」は、家を出る口実に使った部分もありますが、実際に1世だったら信じていたのかいないのかは、私にとっては小さい頃からの命題でした。

母は私の進学先の地域の会衆に素性を言わずに研究依頼し、私は約3ヶ月間、エホバの証人の方法に乗っ取り1世のつもりで「研究」をしました。

研究司会者は2世の女性でした。そこで教義に対しての疑問をぶつけると、「なぜあなたは素直になれないの?」と言われ…

私はその司会者に、自分も2世だということを明かした上で、「1世だったらこんな宗教やってない」と吐き捨て、一切の活動を辞めました。

母は当然「当初の話と違う」と手紙で怒りを綴ってきますが、授業料免除制度と奨学金もあるので暮らしてはいけます。 

そうしてバイトやサークル活動を楽しむ日々。
この頃、インターネットで元エホバの証人の掲示板やメーリングリストで仲間に出会います。

バイト先でもサークルでも異性と関わることは必然的に多くなり、世の中は暴力を振るう男性ばかりではないということは分かりましたが、いざ付き合いだしてそのような関係になると身体は勝手にこわばります。

結局、異性と付き合う関係になっても長続きできません。

飲み友の中に男友達といえる関係の友人もそこそこいましたが、私は誰かとまともに付き合うことはできない。
まわりはカップルだらけ…在籍していた大学は地元出身者が少ないということもあり、某社調べの同棲率ランキング上位に入るほど、私の周囲は半同棲カップルばかりでした。

心と身体は繋がっており、身体を開くことができない私は、

人を心から愛することは一生できないのではないか…

そんな思いが私の心を巣食っていました。

でも学生時代はリゾートバイトをしたり、単身でインドを放浪してみたり、

アクティブに活動しているとそんな思いは一時的に薄れます。

そうして大学を卒業し就職。

実家ではずっと生きるか死ぬか殺されるかのギリギリのやり取りをしてきのに、

寮生活やルームシェアをしていた学生時代はともかく、就職すると、ただ仕事をして独り暗い部屋に帰って寝るだけの平凡な毎日…

命のやり取りの刺激はありません。

実家にいる頃は、そんな安定をずっと求めてきたはずなのに、ただ死なないだけの未来が続いていく漠然とした不安の中で、自ら刺激を欲したんだと思います。

弱い癖に狂うこともナニカに溺れることもできない私の強さと正気を壊してほしい。

首を締められ死を感じるギリギリのところで生と性を感じる。

…そうして私ははじめて自分の生きるためのバランスがとれるのではないか、と。

SM系は当時からネットの出会い系もありましたがトラブルリスクが怖いのでお店で働くことにしました。

お店で働こうが変わらずリスクはあるとは分かっていましたが、私が選んだ会員制のクラブは、お客様は最初に身分証明を提示しなければいけないし、NGプレイは最初に提示しておけばやらないでよいし、危険なお客様は店が出禁にしてくれるし、何かトラブルがあっても店が介入してくれるから多少のリスクは減らせるのではないかと考えました。

実際にクラブで働いていた時、たまたま運がよかっただけでしょうが、常連さんは良識的な方が多く、NGプレイはしませんでしたし、プライベートに干渉してくることもありませんでした。まぁオーナーはちょっとというかかなりアレでしたが…。

当時の私に、もっと自分を大切にした方がいい、そんな仕事は今すぐ辞めた方がいい、と諭してくださる方もいらっしゃいました。

私のことを思っていってくれている、その気持ちはよく分かるつもりです。

でも親にムチで叩かれたせいだろうが兄にやられたせいだろうが、M属性はもう私の性分だし、これは私のバランスを保つためにやっている仕事…

それにお金をいただいているからにはお客様を満足させたいと思い、お客様の望む演技だって何だってしたし、舌技もバナナで何度も練習したし、私なりのある種のプロ意識のようなものもあり、それを「そんな仕事」と否定的な評価をされると

…そのお気持ちは理解できるものの受けいれることはできませんでした。

ただ私は年齢的にも精神的にもこの業界にずっととどまっておくことはできないとは思っていたので、表向きは一部上場企業で働いていましたし、大学時代から考えていた、作業療法士の学校に通おうとして勉強もはじめていました。

そんな中で元エホバの証人2世の今の夫と出会い、夫は全くのノーマルで、当時の夫が実際のところどう思っていたかは知りませんが、そのままを受け入れてくれ、

…夫はSNS上では「死にたい」という鬱々としたカキコミばかりしていたわりにオシもクセも強く、出会ってすぐに「すぐ結婚しよう」と推され、結婚しても学校に通いたいという条件を二つ返事で飲んでくれ、あれよという間に結婚にいたるようになってしまい、私はクラブで働くのは辞めました。

自分のバランスを保つのに、この仕事は必要なくなったからでしょう。

心理学を少しかじった方なら、当時の私の行動は、性被害の再演、追体験として捉えることかもしれません。
···きっとそうなんでしょう。

ただ、当時の私は、「性被害者」という枠に入りたいわけではなく、何かの支援を受けたいわけでもなく、「あなたは悪くない」と言われたところで「そんなん当たり前に分かっとるわ」というかんじでしたし、

ただ生きていくためにあがいてみたかっただけとも思います。

悩んでも迷ってもあがいても痛い目にあっても自分で考え自分で選び泥だらけでも這いつくばって、外野が勝手に押そうとする被害者の烙印をはねのけて、この世界でワケなんて分からなくても生きることを選び続けたかった。

そうしてあがくことを肯定も否定もせず、ただ存在を許してほしかった。

働いていた頃、オーナーが全員を慰安旅行に連れていってくれることもあり、同じ店のM嬢たちと接する機会も比較的多かったのですが、周囲も単に金銭事情で働いているというわけではなく、何らかの体験や問題を抱えている子が多いとは感じていました。

でも誰も何も聞かないし言わない。
ただ次のお客様を待ちながら待機室で皆でだらだらとゲームをする…

自分の存在を許された待機室のあの空気感は、私にとってはある種のセーフティネットといえるものでした。

そんな全てを
…分かってるんだかないんだか基本がテキトーで我道を行く今の夫がゆるく受け入れてくれたおかげで、今がある…とも思います。

 

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