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「解離」という症状が教えてくれたこと


トラウマ治療を開始早々、解離症状のためにすごく受けたかった治療を受けることができないと分かり、衝撃を受けていた私…。
(私が受けたかったのは、EMDRという手法です。解離症状があるクライアントには実施できないのだそうです)

※そのときの記事は、こちらです。

私は、このとき初めて解離という症状を抱えていたことを知りました。


大多数の人は抱えていないだろう「解離」を抱えて、私は自分の人生に負けたのかと悔しかったです。

「人生に負けた」と考えたのは、私がキリスト教2世として育ち、かつ母からの激しい暴力にさらされて育ったことが関係しています。

神は私を創っておきながら、平気で暴力をふるう母の元に生まれさせた…そう信じて生きていました。そのため、「神が私に定めた、めちゃくちゃ不利な条件に負けない」というのが、当時の私の人生観でした…。
(この考えも治療を受けつつ変わっていったので、そんな話もできればなと思います。)

でもその後の私は、「解離が存在する」という事実で勇気が湧いてくるようになりました。今日はそんな話です。



1.「今思うと、あれは解離だった」ということ…

とはいえ私も治療が進むにつれ、解離症状が自分の過去や謎の不調と関係しているかもしれないと気づいていきました。

1-1.小1、給食居残りタイムが平気だった理由

小学生のときの私は食が細く、給食を完食できませんでした。そのため昼休みは「居残り給食」の時間。

でも当時の私は、それが全然つらくなかったんです。小学校1年生のときは、毎朝お腹が痛くなって、泣いていました。母親からは仮病扱いされましたが、それはまた別のはなしです…。

お腹が痛くなった原因のひとつが、居残り給食であっても不思議じゃないのに、当の私は全然苦痛ではなかったという…。
今思うと、解離を起こして「私」(フロントパーツ。主に外界と接している「自我状態」のこと)はその場にいなかったのかもしれないと気づきました。

私がまだ気づいていないことでも、解離があったから平気だった場面は多かったのだろうなと思います。


1-2.車が運転できない日が、あまりに多かった理由

そして、これは成人後の話です。
私は車の免許を取るのに、実技面でかなり苦労をしました。

そして運転自体も苦手です。今は苦手ながらに、あくまで安全運転で、怖がりすぎずにできています。でも、それは治療が進んだあとのこと。

治療前の私は、理由は分からないもの、
「あ、私、今日運転したら絶対事故起こすだろうな…」
と感じる日が多かったです。
正直そう感じる日のほうが多くて、地方に住んでいながら、極力車の運転を避けて生活していました。

当然周りには、理解されない行動でした。
それも当然だと思います。私が一番、自分でも理解できなかったのだから…。

たぶん頭がぼーっとしたり、物の見え方がふだんと違ったんでしょうね。
自分が解離症状なるものを知らないながらも、ふだんとモードの違う自分を感じ、不安を覚えたのだと思います。もしかしたら、その判断のおかげで防げた事故があったのかもしれません…。


これ以外にも「ああ、確かに私、しょっちゅう解離症状が出てたんだな」という気づきが、いくつかありました。
私は、ゆっくりゆっくり「解離症状のある自分」を受け入れられるようになりました。

だって「解離症状」があるのは、私のせいではないからです。むしろ「私に解離症状がある」という事実そのものが教えてくれるものは、たくさんありました。


2.「解離」が教えてくれたこと

2-1.小学校入学前には、解離を起こすくらいの暴力が振るわれていたこと。

先に書いたことに繋がりますが、私は小学校のとき、昼休みの居残り給食がまったく苦痛ではありませんでした。なんか、ふわふわしたまま時間が過ぎました。

正直、居残り給食そのものが原因で「解離」を最初に起こしたとは思えないんですよね。私がはじめて解離を起こしたのは、おそらく小学校入学よりも前のことだと考えるのが自然です。

つまり私は、小学校入学よりも前の時点で、解離を起こすほどの暴力を(おそらく母から)振るわれていたのでしょう…。


実際トラウマ治療が進むなかで、2歳くらいの身体が覚えている記憶を《SE》(ソマティック・エクスペリエンシング)扱ったことはありました。
SEのメリットは、記憶にないできごとを扱うことができることです。言語化できるまえの幼い記憶も身体は覚えているのですよね。それを感覚でたどりながら処理していきました。このときのことは、別記事で書く予定です。

覚えていなくても、自分の幼少期の過酷さを知ることができるのです。
(勿論、解離がない=症状や、被害が軽いと言いたいわけではありません)


2-2.私の肉体(神経系、脳を含む)が、何がなんでも生き延びてきたこと。


私は子どものころから、希死念慮とともに生きてきました。希死念慮とともに生きることは、あまりに当たり前で、いつから"それ"がいたのかはわかりません。
「みんな、本当は死にたいんだろうな…」
という前提で生きていたくらいです。

でも私自身がどんなに死にたかろうが、私の肉体は神経系のちからを総動員して、「解離」してまでも生きようとしてたんだ。
治療がかなり進んだとき、そう気づいてたことがありました。

希死念慮がそれで消えたわけではないけど、
「ああ、もう参ったよ…」
自分の肉体に対して、降参する気持ちになりました。そこから私の「鉄壁の希死念慮」も少しずつ、和らいでほころんでいきました。
しつこい希死念慮が生まれた意外なきっかけは別にありましたが、その話もまたいつかするつもりです。


2-3.「解離」は、私の味方なのだ…

母からの暴力・暴言は、激しいものでした。頭に医療用ホチキスを使うようなケガをしたことはあります。

でも、今の私の身体に傷跡はありません。
また実際の私は、割と浮世離れして見えるらしく、「恵まれて育ったんでしょう?」と思われることも多いです。

私の出身大学は恵まれた境遇の学生が多く、友人からも、
「ちくわちゃんはさ、うちの大学にいた時点で恵まれてるんだよ」
と言われたこともあります。
いかにも、うちの母が言いそうなセリフ、聞いたら喜びそうなセリフです…。

客観的に恵まれていることと、そこに苛烈な虐待な虐待があることとは、矛盾することではないんですけどね。
一見恵まれているように見えても、虐待やその後遺症に苦しむ子ども(かつての子ども)はいるのだということが少しでも理解されてほしいです。
そして…。

何よりも母が、私に対してやったことを認める日は来ないと思います。都合の悪いことがあると、私の悪口をあちこちにばら撒く人なのですから。


でもね、私には解離症状があります。
今はだいぶ落ち着きましたが、疲れたときや、ストレスがかかった時には身体がそれっぽくなります。

よっぽどのことがないと、解離って起こらないはずだよ…。
(解離がなくても、過酷な経験をされた方はいらっしゃると思います)

「解離」が司法などでの証拠能力があるかはさておき(ない気もするな…見えないもの…)、私は解離があるから私は、自分の虐待経験の記憶に自信を持てるんです。

なかなか信じてもらえない(最初からあきらめています…)し、自分でも信じられないくらいにメチャクチャな経験…。でも誰が信じなくても、解離は確かにあるのだ。
そのことは、私が自分の奥底に小さな自信を持たせてくれました。


解離は色々不便です。
解離があったことで、なかなかEMDRには辿りつけず、トラウマ治療にお金も時間もかかってしまいました。

でも、そんな私に勇気をくれるのも、また解離なのです。今の私にとって、解離や解離のためにバラバラになってた自我状態たちは、かけがえのない味方です。

そう思えるようになったのも、解離をある程度コントロールできるようになったからなんですけどね。今日は解離と私の、一筋縄とはいかないけどかけがえのない関係のおはなしでした。

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