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話すことが苦手だから、書く。

「どうして大学院に行こうと思ったの?」

先日、ごく親しい友人から、そう聞いてもらう機会がありました。

こんな理由もあるし、あんな理由もあるし、何から答えればいいかなと一瞬ちょっと迷った挙句、私は「ずっと行ってみたかったからさぁ」「ちょっと気分を変えたかったから…」とものすごく表層的なことしか言えませんでした。

ああ、先日のnoteには5000文字も書けた大学院へ進学する理由が、どうして自分で話すとなると、こんなにも口篭ってしまうんだろう!

1対1で話すとなれば、もしかしたらもう少し詳しく話せるのかもしれません。でも複数でいる場所での会話となると、「ここにいる全員は私の話を聞いて楽しいかな」と考えてしまい、どうしてもうまく話すことができなくなってしまうのです。(もちろん私の友人はみんな優しいので「楽しいよ!」と言ってくれると思うのですが。笑)

これを書くと、もしかしたら私の友人や知人、お仕事で関わりのある方々は意外に思うかもしれません。普段の私はプレゼンで人前で話すことなどは日常茶飯事で、明るく流暢にものを話すイメージを持たれがちです。しかしどうしても、私が話すべき目的がない場所で、自分のことを人に話すのは苦手なのです。

会話はキャッチボールだから、相手の反応を見ながら、自分が話す内容や量を瞬時に判断しコントロールする必要がありますよね。会話は即興劇のように、ものすごく高度なスキルが必要です。だから私は自分のことを話すくらいなら、友達の話に明るく相槌を打ちながら聞くほうが気が楽で、楽しかったりもします。

しかし、そこで私は改めて気づきました。

「ああ、だから私は書くんだ」と。

何か伝えたいことがあるときに、書くという手段をとれば、じっくり言葉を考えて選んでから伝えることができます。「この言葉を使ったらどういう印象になる?」「どう言えばわかりやすい?」自分の中で考えたものを、順序立てて伝えることができます。

私はnoteのエッセイを書くとき、自分の内面に起こったことを、できる限り自分の気持ちに忠実に言葉にすることを心がけています。それはともすれば、何年も親しい友人にも、毎日会話する夫にでさえも、話す機会がなかったことです。

私の内面を晒しているからこそ、私のnoteを読んでくださる方は、一度も会ったことがなくても、私のことをよく知ってくれているかのような気になることがあります。文章表現教育者・作家の山田ズーニーさんが「書くと読者からの"理解の花が咲く"」とおっしゃっていたことがありますが、まさに「理解してもらう」ことの嬉しさを、書くと味わえることがあります。

また私が「読む」立場になった時も、そうです。

もともと知り合いだった方や、友人の何人かも、noteで文章をつづっています。その方々のエッセイを読むと、「ああ、私の知らない間にこんなことがあったんだ」「こんなことを感じていたんだ」と、長年知っている人なのにもかかわらず、新鮮な驚きや感動があります。

私が親しい友人を前にして、なかなか本音や内面を話せないように、きっと私以外の人だって、同じように感じているのかもしれない。そう思えました。

また会話とは違って、読むことは、「受け取りかたを選べる」のもいいなぁと思っています。いつでもどこでも、好きな時間に好きな場所で読むことができます。なんだかAmazonの配達みたいですが(笑)
じっくり読んでも、ささっと読んでもいいし、気分がのらない時は「読まない」という選択だってとれる。それもまた読むことのメリットで、書き手としても気が楽なところです。

今日は私が書く理由・読む理由を再認識したお話を書いてみました。
私は書く人が好きで、書く人を応援したい気持ちです。
読ませていただくのも楽しみにしています。

コピーライター 小森谷 友美
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