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キリスト教について(1)

キリスト教とは、大雑把に、ざっくり言うと、  
復活(死を克服)した人だからとか、  
旧約聖書の預言を成就した人だからとか、  
三位一体の人だからとか、などの理由を付けて、  
イエス・キリストを信仰しなさいと言う宗教です。  
簡単に言うとイエスを信じなさいと言う宗教になります。 

ところで、イエスは何を語ったのでしょうか?  

それを知る為には、彼が生きた時代などを簡単に知りましょう。 
まず、日本人はナザレのイエスとか、
イエス・キリストとか彼を呼びますが、
当時はアラム語、または、ヘブライ語を話していたと思われ、
アラム語ではイェシューと言うような発音で、
ヘブライ語ではイェーシュアとかヨシュアと言うよな発音で
呼ばれていたと思われます。
ヨシュアは聞いたことがある人もあるかもしれませんが、
イェシューとかイェーシュアなどは日本では聞かない呼び方ですね。
まぁ、日本人にはあまりなじみのない名前ですが、
イエスの生まれた土地、時代では一般的な名前でした。

ところで、彼が生まれた場所はどこでしょう?
今のイスラエル北部のガリラヤ地方のナザレ
生まれたと言われています。
布教活動も今で言うと車で2~3時間で移動できる範囲で
行っていました。

地図に載っているナザレの北東の湖、
ティベリア湖はイエスが水上を歩いたと言われる湖です。

ここで、ナザレのイエスの生まれた日は何時でしょう?
日本では、イエスが生まれた年を西暦元年していると思われがちですが
正確には生まれた年や月日は不明です。
布教活動の描写や、当時のイエスの年齢についての福音書の
描写などから紀元前7~4年ごろではないかと想像できますが
根拠に足りる記録はありません。

そしてナザレのイエスが布教活動していたのは、
紀元後27年頃から十字架で刑死する紀元後30年頃までの
たった3年程度です。
新選組ですら、文久3年から慶応3年まで、
京都で4年間も斬り合いをしていたのに、
それよりもナザレのイエスの布教活動は短いのです。

ナザレのイエスが何を語ったのかを知る為の資料として、
聖書が考えられます。
一般的な聖書には以下の文章が経典と呼ばれ、
それ以外は外典と言われます。

旧約聖書
 創世記 
 出エジプト記
 イザヤ書
 伝道の書

新約聖書
 マタイ福音書
 マルコ福音書
 ルカ福音書
 ヨハネ福音書
 使徒言行録
 書簡
  ローマ書 
  ピレモン書
 ヨハネの黙示録

これらの文章が一般的に聖書と呼ばれるモノになります。
しかし、宗派により、聖書の中身も異なり、
それぞれの宗派で独自の聖書を発行しており、
対立の元にもなっています。

聖書は何時書かれたのでしょうか。
旧約はとりあえず置いといて、新約聖書で見てみましょう。
マタイ福音書は紀元後85年までにはまとまっていたようです。
マルコ福音書は紀元後65~70年の頃にまとまっていたようです。
ルカ福音書は紀元後70年前後頃にはまとまっていたようです。
ヨハネ福音書は意見が分かれていますが、
おおむね紀元後100年頃と思われます。
使徒言行録はルカ福音書の後にまとめられたと言われ、
ルカ福音書と使徒言行録をまとめてルカ書と言うこともあります。
書簡は大きく分けるとパウロ書簡と公同書簡に分けられ、
パウロ書簡は紀元後50~56年に書かれたものと思われ、
公同書簡は紀元後100~200年にはまとめられたと思われます。
ヨハネ黙示録は紀元後100年頃と思われます。
こうやって見ると、マルコ福音書が一番古く、
それでもナザレのイエス没後30年も経っています。
新選組の永倉新八が「新撰組 永倉新八」を小樽新聞に掲載したのは、
鳥羽伏見の戦いから、47年後ですが、
新選組に参加していた人物による記録になります。
まぁ、これが歴史的事実になるかと言うと、多分違います。
新選組のすべてを知っていたわけでもなく、思い入れもあるでしょうし、
思い違いもあるでしょう。
では、一番古いと思われるパウロ書簡は、パウロと言う人が書いたと言われ
この人はナザレのイエスの死後、キリスト信仰を始めた人ですので、
直接、ナザレのイエスの言葉は聞いていません。
次に古いのはマルコ福音書ですが、
これもナザレのイエスの使徒のひとりペトロの通訳を務めた
弟子のマルコと思われますが、
これもナザレのイエスの言葉を直接聞いてはいません。
しかし、ナザレのイエスの使徒のひとりペトロから直接、
ナザレのイエスの人となりを聞いている貴重な資料と思われます。
新選組で言うと、旧幕臣の聞き書きをまとめて「新選組始末記」を書いた
子母澤寛がマルコに当たると思われます。
ここで重要なのは、子母澤寛が書いた「新選組始末記」は
全てが史実ではありません。
同様にマルコ福音書もすべてが史実とは言えません。
キリスト教徒には不評を買いますがあえて言います。
聖書はナザレのイエスの直接の言葉の記録ではなく、
聞いた人の思いが含まれる文章です。

長くなりましたが、ナザレのイエスが語ったと思われる文章は
どこにあるのでしょうか。

仏教の最古の経典はパーリー語の経典で、
その中に「かのように私は聞いた」で始まる文章があり、
これがおそらく、釈迦の言葉を聞いた人の口伝であろうと思われます。
同様に、聖書の中にも「イエスが言った」で始まる文章があり、
やはりその部分はナザレのイエスの言葉を聞いた人からの
文章であろうと思われます。

そこで、「イエスが言った」文章を調べて見ると、
大まかに三っにまとめられます。
① ユダヤ教の形式的律法主義の批判
② ユダヤ教的終末論に基づいた神の国の実現の時が迫っていること
③ 神への愛と隣人愛、敵も愛しなさい
①~②が主な原因でイエスは貼り付けの刑になるのですが、
①の律法主義では一部のユダヤ教徒しか救済されません。
②の神の国の実現の時が迫っていると言いますが、
多分、今も、神の国は実現していないと思いますが、
イスラエルが神の国ならば1948年に神の国は実現しました。
③の隣人愛で弱者の救済を含み、それが世界的に広まった元になります。

こうやってナザレのイエスの言葉を探っていくと、
心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい
隣人を自分のように愛しなさい、自分の敵も愛しなさい
そして、信じる者はだれでも救われると言うことだと思われます。

ナザレのイエスが言いたかったことは、
ナザレのイエスを信じるのではなく、
神や隣人や敵も愛することが出来ることを信じなさいだと思います。

釈迦が言う、「悟り」はそこにあるので見なさいと言うのと同じで、
ナザレのイエスが言うのは、
「愛する」と言う事(行為)を信じなさい(信仰)だと思います。

色々、こまかいことは端折ってしまいましたが、
以上がキリスト教におけるナザレのイエスの言葉の私的見解になります。

今後は、なぜ、「愛する」と言うことを信じるのではなく、
キリスト教徒が、ナザレのイエスを信じるようになったかを
歴史的考察からひも解いていく予定です。


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