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心をころすか、頭をころすかの2極で。

0・100思考であることには、最近言われて気がつきました。


私は昔、頭を使うことが得意でした。心なんて何の意味もない、むしろ目標達成のためには邪魔でしかないと、心から思っていたので

疲れたとか、面倒くさいとか、傷ついたとか、

そういう不確定要素とか、ゴール達成の途中で道からずれてしまうような部分は、切り落として生きてきたつもりでした。


しかし、心が壊れてしまったことがありました。

いくら良い成績を取っても、100点を取っても、1番をとっても、満たされない心と、大きな大きな欠乏感と、どうしようもない怒りや憎しみにまみれて、

自分が人でなしになったような心地になりました。


笑うことも、他人との関わりも、誰かとの関わりも、全て無駄なもの。

ただ打算的に生きている私にとっては、表面上を取り繕うだけのものか、利用することにしか、価値が見出せなかったのです。


私の心は壊れました。

その一方で、抑圧しすぎた感情が奥深くで、マグマのように怒り狂っているのを感じていました。


時を経て。

私は早稲田大学に入りました。心を殺したおかげです。

心を殺したおかげで、色んなものを手に入れられました。成果を得られました。

基本的にどんなものでも、攻略するマニュアルに沿ってやるだけで、結果が得られると思っていました。


でもいつまで経っても心は満たされなくて、その瞬間の喜びと高揚感があるだけで

成果を得られた喜びは一瞬で泡のように消え去り、次の瞬間からは、また別のゴールに向かって突き進まないと、早く動かないと何かに追いつかれるという焦りから動いていました。

いつまでも、安心感と満足感を得られないままでした。


ほんとうの幸せを求めて。

あまりに何をしても心が苦しくて、結果を得ても心が満たされず

結果を得るためにどんどん人の心を失っていくような気がした私は、色々な本を読み

心を大切にすることがたいせつ。ということを学びました。

幸せは心が感じるものですから、当たり前のことではあるのですが、幸せを求めながらも「結果>心」で生きていたのだから、幸せを得られないのは当然でした。


私はリハビリを始めました。

心で感じるリハビリです。

それまでは基本的な表情筋を使って笑顔を作ったり、嬉しそうな表情や声音を作っても、心の深部はなんにも反応していない状況でした。

こころの表面だけを使って、ものごとに反応し、都合の悪いことは感じないようにシャットアウトしていました。

だから、疲れた、眠い、もうやりたくない、そんな言葉たちも捨てずに受けとめるようにしたのです。


ただ、ゼロヒャク思考の悪いところはここで。

全く、こころを優先して生きるようになってしまったのです。


少しでも違和感を感じたら、少しでも嫌だと感じたら、やめる。もうやらない。

それが功を奏することもあれば、大概の場合は結果を出せるまでに至らず、途中で終わってしまうことがほとんどでした。

これまでと比較して結果の出せなくなった自分に、自信を失いました。


それでも、頭だけを優先して生きることの虚しさや、果てしなさを知っているがゆえに、心を無視することができません。

やりたいことも、何にしても、うまくいかないことは出てきます。いったん距離を置いて、また戻ってきても良いのですが、

結果第一主義だったころに比べて、明確なゴールを描きにくく、最短距離で進むために全てを切り捨てるような鋭さも持ち合わせていません。


まだ、答えは出ていません。

ただ、こころと頭のバランスをちょうど良くとって、どちらもうまく使いながら、幸せを謳歌していけたら一番いいなと思っています。

結果を出すことばかりが善ではないですが、何かしらの形にすることも、時に喜びや充足感につながったりしますから。


というわけで、答えはまだ出ておらず、極端にどちらかに振り切ってしまう私ですが、いつかうまいことバランスを取れるようになったらいいなと思う今日のところでした。


まったく久しぶりの投稿となってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

良い週末をお過ごしください。

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