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第十一話 何でもない日おめでとう!

 ところが、庭の門から出る直前で僕の足は止まってしまった。

「どうしたの」
 
門の外でヒマリさんが振り返る。僕の顔色を見て心情を察したらしく、仕方ないなあ、というような顔になった。

「こわい?」
 
 こわい、という言葉を耳にした途端、一気に肩が重たくなった。僕は今、アリスの仮面をつけている。だけどそれは館の中で、ヒマリさんの前でしか通用しないルールだ。外の冷たい現実の中では、僕はただ女装をしているだけの男子中学生にすぎないんじゃないか……

「大丈夫。あなたはアリスよ」

 ヒマリさんが手を差し伸べてくれる。

「誰もあなたの仮面に気付きはしない。わたしが保証してあげるよ」
 
 眼前に差し伸べられた白い手が、暗闇を照らす光の道標に見えた。こわごわと一歩、足を踏み出す。また一歩。カタツムリのような焦れったい歩みだけど、ヒマリさんは辛抱強く待ってくれていた。

 僕はおずおずと手を差し出した。手と手が触れあった瞬間、僕の指先は柔らかい手の中にぎゅっと包み込まれた。

「さあ、もう離さないからね」

 空いた手で門の鍵を閉め、ヒマリさんはにっこり笑った。

「行きましょう、わたしのアリス。今日はお茶会よ。『なんでもない日おめでとう!』」

 言ってから、彼女はふっと空を見上げる。

「ああ、でも、今日のは一応クリスマス会だったね。何でもなくはないか……ふふっ」

 僕もつられて笑った。一度歩きだしてみれば、さっきまでの恐れが嘘のように僕の足取りは軽くなっていた。

 それでも坂を下りて道路を渡り、人通りが増えてくると緊張がぶり返してくる。道行く人はみんな僕たちを見て何か反応を見せる。じっと凝視したり二度見したり、小さな子なんて、ぽかんと口を開けている。でも、それはたぶん、僕の女装がばれたというより、ロリィタが二人も並んでいるからひどく目立っているのだ。硬いアスファルトと無機質な四角い建物に囲まれたこの世界で、僕たちの姿はまるで別世界から来た少女みたいに映ることだろう。

「人の目、気になる?」

 歩きながらヒマリさんが小声で訊ねてきた。

「気にならないと言えば……うそになります」
「そうね。みんな初めはそうよ。でも、すぐに慣れる。なんてことない……みんな見慣れていないだけ。こんな素敵なお洋服を目にする機会に恵まれなかっただけなの」

 見る機会に恵まれていない、だって。

 そんな風に考えやしなかった。言われてみればそういう見方もできるのだ。

 坂の途中に公園がある。その小さな立て看板が見えてきたところで、僕は咄嗟に顔を伏せた。

「どうしたの」
「なんでもありません」

 公園がどんどん近づいてくる。緑の生け垣の向こうからけたたましい笑い声が響いてきた。ああ、やっぱり、いるんだ。彼らが。

「あの、たぶん、あそこに、僕のクラスメイトがいます」

 勇気を振り絞って、僕は小さく公園を指した。

「僕……」
「大丈夫。賢嗣くんのクラスメイトは、アリスを知らないでしょう」

 ヒマリさんの手の感触がぎゅっと強くなった。ふがいない僕を勇気づけるように、力強く握られる。

「胸を張って、堂々としていて。颯爽と通り過ぎればいいよ」

 彼女の言葉に従い、僕はこわごわ、顔を上げた。なるべく背筋を伸ばして、まっすぐ歩いてみる。そして公園の前を通り過ぎようとしたとき、

「おい、みろよ」

 と口々に言う声が耳に届いた。
 聞き慣れた男子たちの声だ。そしてたぶん、呼びかけられたのは……

「うわお」

 わざとらしいひょうきんな声。顔を見なくともわかる。
 慎二はこちらに聞こえるほどの大声で言った。

「ゴスロリだ。あれゴスロリってんだよ」

 さも自慢げに、知った風に言う。間違っているのに。これはクラシカルロリィタだ。

「あんなの来てる奴って大抵デブかブスだからな。あれも絶対――」

 その瞬間、僕は顔をそちらに向けた。
 慎二は携帯ゲーム機を手にベンチに座って、ぽかんと口を開けていた。あんな間抜けな慎二の顔は見たことがない。

「アリス、急ぎましょ」

 ヒマリさんが僕の手をぐいと引き、肩で風を切りながら颯爽と歩いていく。公園はあっという間に過ぎ去った。

「傷ついた?」
「いいえ」
 僕はきっぱりと首を振る。「ちっとも」

「そう。その意気よ。あんなの言わせておけばいいの。だって、あなたは綺麗だもの」

 ヒマリさんは歩幅を戻して微笑んだ。

「美醜がわからないなんておかわいそうと思っていなさい」

 おかわいそう。僕は口の中で小さく繰り返す。そう、ヒマリさんの美しさもわからないで嗤うなんて、本当に馬鹿なひとたち……

 慎二の間抜けな顔が頭にこびりついていた。ちょっと可笑しくなって、笑い出しそうになるのを堪える。少し、肩の重みが抜けたような気がする。

 それでも、駅前まで来ると人で溢れかえっていて、僕はやはり気後れしてしまっていた。さっきまでの比じゃないくらいにじろじろと見られている。元々人の視線に慣れていないので身がすくむ。ヒマリさんの手を握られていなかったら、僕は……なんて情けないんだろう。

 なんとかホームまでたどり着くと、ヒマリさんが背をかがめ、小声で耳打ちした。

「もし電車で人が混んでいたら、スカートを少し抑えるといいよ。パニエで膨らんで、邪魔になってしまうから」

 なるほど、そういうマナーもあるのか。僕はボリュームたっぷりに膨らんだスカートの感触を確かめる。確かに余分な幅を取ってしまいそうだ。

 果たして、電車の中は混み混みとまではいかないけれど、全体的に人がばらけて乗っていた。ぷしゅ、と扉が両側に開き、ヒマリさんは臆せず乗り込んでいく。僕も慌てて足を踏み入れるが、顔を伏せていてもわかる……今、僕たちは人の視線の塊を一挙に浴びている。途端に、手足の先が震えだした。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が全身を駆け巡る。

 ヒマリさんは椅子の背に少しもたれるようにして立っていた。僕を安心させるように微笑んでくれる。僕の緊張はもう、極限にまで達しようとしていた。頬が熱い。寒いはずなのに背中が汗ばんでいる。

 扉が閉まり、電車が発進した。ごとごとと揺れだして、緩やかに僕たちを運んでいく。

 車内は静寂だった。人の話し声もなく、視線だけはちらちらと感じるので息が詰まりそうだった。僕はヒマリさんの方へ身体を向けてひたすら目を伏せていた。僕は今、周囲の目にどんな風に映っているんだろう。ヒマリさんは堂々としているが、それも当然だ。だって、あんなに綺麗なんだから。僕はといえば――

「おかあさん、あれ、かわいい」

 突如、僕の思考を遮るように、舌足らずなあどけない声が響いた。思わず顔を上げると、四人がけの席に小さな女の子が座っていて、懸命に背を伸ばしながら僕らの方を指さしていた。

「こら、指を向けちゃだめ」

 慌てて母親が止めるが、女の子はそれでも僕たちの方を見てきらきらと目を輝かせている。

「あたしも、はっぴょうかいでああいうの、きたい」
「はいはい、今お家で縫ってるでしょう」

 その後も女の子は座席の上でお尻をぴょんぴょんさせながらこちらを覗いて、終始にこにこしていた。国民的な魔法少女アニメの登場人物の名を挙げ、誰々に似ている、というようなことを母親に熱心に話しているのが丸聞こえだった。くす、とヒマリさんが小さく笑う。

「ほほえましいね」

 僕もうなずいた。不思議と、胸につかえていたものが抜け落ちたような心地だった。

 館を出る前、姿見に映したアリスの姿を思い出す。愛らしい、お人形のような少女がそこにいた。そう、あれはもう、僕じゃない。賢嗣じゃないんだ。みんなの目には、きっと完璧なロリィタ少女が映っている。

 五つ目のS駅に着いたので、降りなければならなかった。扉をくぐるとき、振り返ってみる。女の子は寂しそうな、名残惜しそうな目でこちらを見ていた。

 ばいばい。

 声に出さず、手を振る。女の子は夢中で振り返してくれた。

 S駅は栄えていて、休日ということもありホームは人でごった返していた。だけど、僕はもう、気後れしなかった。

 僕は、アリス。
 堂々と、胸を張って。
 ヒマリさんの言葉に従って、まっすぐ歩く。

 お茶会は有名な高級ホテル直営のカフェを貸し切って行われるようだ。そんなところに行ったことなどないので、僕はまた緊張する羽目になった。

「大丈夫よ。内装はとてもクラシカルで豪華で、素敵なところなの。あなたならきっと気に入るはずよ」

 実際到着してみると、ガラス張りの壁から見えるずらりと並んだスイーツの精巧さや、壁の装飾の凝った造りからヒマリさんの館に似たものを感じる。絶対、何もかもが高価だ。慣れないスカート幅で歩いて、何か高いものをひっかけて壊したりしませんように、と小さく祈る。

 ヒマリさんは鞄からはがきを二枚取り出して、扉を開けた。重厚な木製の枠にカラーガラスの填められたお洒落な扉だ。からんからん、と古風なベルの音が鳴る。

「いらっしゃいませ」

 出迎えた店員さんは黒のワンピースを着て、白いエプロンをしていた。はがきを受け取り、名簿をチェックすると、「ご案内します」と言って奥へ通してくれる。

 ダイヤ柄の絨毯が敷かれた通路の先に、テーブル席の並ぶ空間があった。座席はロリィタやゴスロリ姿の客で埋まっており、その光景に思わず息を呑む。ぴし、と緊張が背筋を走る。

 僕らが通された四人がけの席には、すでに先客が二人いた。互いに二人連れ同士というわけだろう。ヒマリさんが「こんにちは」とスカートを広げる。

「こんにちは」彼女らも控えめな声で返してくれた。白と黒に分かれた二人の装いは見事なまでに対照的で、頭から足先まで完璧にコーディネートされている。

「こんにちは……」

 僕の声はみっともなく震えていた。すると先客のうち、白いロリィタの女性が柔らかく目を細めた。

「もしかして、初めての方ですか?」
「えっ」
「お茶会。初めてですか?」
「……はい」

 彼女はにこにこ顔で「緊張しないでいいですよ。実は私もまだ二回目なんですけど」と屈託なく言った。よかった、優しそうな人だ。

 僕らはそれぞれ連れ同士で向かい合って座っていた。運ばれた温かい紅茶を一口啜る。さすが高級ホテル直営というだけあって、香りも味も濃厚だった。だけど、なんといえばいいんだろう……ヒマリさんのあの紅茶の味に慣れすぎていて、ほんのわずかだけど違和感があった。

「おいしい」

 ヒマリさんが一口啜りほっこりと頬を緩めるのを見て、僕は今の考えを恥じた。せっかくこんなところに来たのに、失礼だった……

「みなさん、お揃いですね」

 いつの間にか、空間の前方に女性が立っていた。紺色のジレに黒いブラウス姿で、落ち着いた佇まいだ。化粧はかなり濃いめで、年齢がわからない。「本日はお茶会にお越しいただきまして、まことにありがとうございます。さっそくですが、本日のメニューをご紹介いたします」

 すると背後からスタッフと思われる女性が黒板を持ってきて、ジレ姿の女性の隣に立て掛けた。

「まずはこちら、カフェ・ルナティ自慢のクリスマスケーキを味わっていただき、頃合いになりましたらレ・ローズ・ミニョンヌ新作お披露目会をいたします。その際はお写真を撮っていただいても構いません。そのあと再び交流時間を持ち、最後に本日のベストドレッサー賞を発表いたします」

 何が、何をして、何を発表するって?
 ヒマリさんがちらりとこちらを見て、ふっと笑った。混乱しているのがばれてしまったみたいだ。僕の方に顔を寄せ、小さく囁く。

「レ・ローズ・ミニョンヌっていうのはね、ロリィタブランドの一つよ。わたし、結構愛用しているの。今日は違うけれどね」
「その、新作を、見せてくれるの?」
「そうそう。交流時間は、周りの気になるロリィタさんに話しかけてもいい時間で、ベストドレッサー賞は、その日一番いいコーディネートをしている人をスタッフが選んで決めてくれるの」

「スタッフって、このカフェのスタッフ……?」

「ううん。エプロン姿の人たちじゃなくて、あのジレの女性――レ・ローズ・ミニョンヌの店長さんやとそのスタッフさんが決めてくれるの。お店はこの近くにあるから、こうしてこのカフェで定期的にお茶会を開いてくれるのよ」

「まあ、新作宣伝が主だよ」と割って入ったのは、僕の隣に座るゴスロリの女性だった。見事なくらい全身真っ黒、墨で染めたような黒髪は定規を当てたみたいに真っ直ぐだ。目の周りも唇も青黒く塗られている。

「坊やは無理して買おうとしちゃだめだよ」

 ぎくりと全身が強ばった。坊や――やっぱりばれていた――アリスの仮面の下の、賢嗣が――!

「す、すみません、僕……」
「なに、言っちゃいけなかった? もしかして男ってこと気にしてんの? 気にしなくていいよ。かわいいから」
「え、男の子なのっ」

 向かいの白い女性が勢いよく身を乗り出した。

「うそー、全然わかんなかった。すごいね、もっとよく見せて……」

 と、身を乗り出して僕の顔をまじまじと見つめる。どうしていいのかわからなくて目を逸らし続けていると、彼女は深いため息をついた。

「うそでしょ、ほんとに男の子? こんな、お人形みたいなのに……サチ、よくわかったね」

 サチと呼ばれたゴスロリ女性は「まあ、声とか骨格?」と照れくさそうに呟いた。「でもほとんどわかんないよ。華奢だし肌白いし。目もそれ、全然弄ってないでしょ」

「この子はアリスといいます」

 ヒマリさんが割って入って、僕の腕に触れた。

「どうぞ仲良くしてあげてくださいね」

 まるで保護者みたいだ。申し訳なさと照れ臭さで胸のあたりがこそばゆい。

「わたしはヒマリと申します」
「ヒマリさんですか。私はカヨで、こっちがサチです」

 白ロリのカヨと、ゴスロリのサチ。互いに自己紹介を済ませ、場が和やかになったとき、ケーキが運ばれ始めた。目の前に置かれた小さな円いショートケーキは、上にピンク色のバタークリームでできた薔薇が飾られていて、置物みたいに凝ったデザインだった。

「かわいい! 食べるのもったいなーい」

 カヨがスマホを手に夢中で写真を撮り始める。

「サチ、サチ、私とケーキ、撮って!」
「ええー、もう」

 サチもスマホを取り出して、ケーキを頬の横に持ち上げる笑顔のカヨを撮影する。

「ねえ、良かったら、アリスちゃんも撮っていい?」

 カヨに突然振られて、僕はケーキを喉に詰まらせそうになった。

「え、えっと」
「お願い! だってすっごくかわいいんだもん、ケーキ食べる振りして、こっち向いて!」

 瞬間、思わずヒマリさんに助けを求めたけれど、彼女は困ったように微笑むだけだった。僕の好きにして、ということなのだ。
 結局僕は断れず、何枚も何枚も撮影されてしまった。


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