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土成り、人成る③ 中道子山城(播磨)

 「志方(しかた)の城」と地元の人が呼ぶ中道子山城は、姫路城と三木城の中間あたり、現在の兵庫県加古川市に位置し、南に「湯山街道」をおさえる優位な地にある。標高271メートルとさほど高くはないものの周りに比肩する山がないので、見晴らしが効き近辺四十ほどの山城を視野に収められたという。山上曲輪群は東西約二百メートル、南北約二百メートルにわたり、山すそを含めれば広大な山城で、東播磨地域で最大規模と言われている。播磨地方に権勢を誇った赤松氏が重要拠点の一つにしたこともうなずける。とはいえ、この山城は築城、城主、戦歴にかかわる不明瞭な点が多く、また真偽の疑われる逸話もいくつか伝わりまことに興味深い。

縄張り図

 そもそも築城、廃城の経緯が判然しない。記録が少ないことや、複数文書に齟齬があることなどで事実が画定しにくいのであるが、その背景にこの城が背負ってきた期待と遺恨があるような気がする。

赤松の城

 山陽道の山城の多くがそうであるように、この中道子山城も元来は山岳寺院であった。弘法大師の高弟真然僧都開闢になる「中道寺」が始まりというから九世紀初頭にまで遡る。その後、南北朝期に勢威を誇る赤松円心則村が城に作りかえ四男氏則に与えた。その頃は砦の域を出ぬものだった模様。一五世紀、赤松円心から数えること五代の末裔にして孝橋家に養嗣で入った孝橋繁広が、現存遺構に残るような築城整備をしたという。その後、この地域は各勢力の取り合い争奪に巻き込まれる。赤松氏守護代浦上氏が下剋上を狙うも、後年黒田官兵衛と姻戚関係を結ぶ櫛橋氏の協力を得た孝橋氏が奮戦撃退する。さらに戦国期には出雲から浸出した尼子詮久に一旦は打ち負かされるものの、二年をかけて排撃する。勝手切り取り次第の時代に様々な勢力の入り乱れたこの地域で、中道子山城は一つの重要な防御拠点としての役割を果たした。しかし、天下統一期に羽柴秀吉に攻められ落城し、その後、廃城となったと伝わる。要衝地にあった山城のご多分に漏れずこの城も時代に翻弄され、主を変え、終には廃城の運命をたどった。
 中道子山城に関する歴史文献は少ないものの、近年、学術発掘調査が数次にもわたって行われており、その構造が詳らかにされている。一六世紀半ば頃の京土師器、輸入陶器が多く出土したことなどから戦国期には隆盛を誇ったと推測されている。全国に山城多かれど発掘調査がきちんと進められているところの方が少ない。加古川市教育委員会の尽力によるものであることは言うまでもないが、山の一角に通信施設を設置することになったのが大きな理由のようだ。そういえば、二の丸跡に建つ高い鉄塔と大きなパネルは麓から見てもはっきりと認識できる。2017年の2回目の調査内容『中道子山城跡発掘調査報告書II』はネットでも公開されている。

遺構発掘(『中道子山城跡発掘調査報告書II』2017より)

播州平野を望む

 中道子山城は規模が大きいとはいうもののさほど複雑な構造ではない。わりと急峻な勾配を登っていくと櫓門跡など所々に石垣の跡が残る。中世の城にしては珍しい。城と言えば一般に石垣を連想するかもしれないが、高低差や勾配、尾根・谷の自然条件を存分に利用できる山城においては、実戦面で必ずしも石垣を要しない。近くで大きな石が調達できなければ却って山上に運びあげるだけでも大作業となる。ただ、土質や地形によって土塁や切岸などの構築だけでは心もとなく補強を要する場合、あるいは頑強な石積みの威容を見せつけて攻め手を怯ませる心理的効果を狙う場合などは、山城でも石垣が構築される。戦国末期には後者の例が増えてくる。三大山城の一つで、山中に目をみはるほどの立派な石垣を積んだ高取城などは好例だ。中道子山城の場合、実戦的必要性というよりも、赤松以来の伝統を引き継ぎ東播磨地域における威勢を示す目論見から早期に石積を導入したのではなかろうか。

主郭から瀬戸内海を望む

 三の丸付近、本丸南側の二カ所には今でも水の湧く井戸跡がある。瀬戸内一帯は雨が少なく昔から農業水確保のための池をそこかしこに作っている。中道子山城周辺を地図で見るとおびただしい数の溜池がある。そうした水の貴重な地で山中に「水の手」を複数確保できたのは重要で、この城の価値を高からしめる要素でもあっただろう。しかし何といってもこの城の魅力は眺望の良さである。七十メートル、三十メートルほどの縁辺に囲まれた主郭跡は驚くばかりに広い。手入れが行き届き、ぐるりの木々がきれいに伐採してあるので三方に見晴らしが効く。北側の一辺には低い土塁跡が残り、中央付近には「赤松城址」との石碑が建つ。ここから南に向かい播州平野が一望できるだけでなく、瀬戸内海そして淡路島西岸まで見渡すことができる。陸海の軍勢の動きも瞬時に把握できたであろう。水田、小山、溜池に青い空、その向こうには陽光照り映える瀬戸内海を配した箱庭のような景色を前にすれば、日頃の憂さなど一気に吹き飛び、胸も空(す)く。                  
             瀬戸内の 海面の春陽(はるひ) 空に溶け                                                           
            風に流れつ  トビの長鳴き

伝承の怪

 一方で、この城は真偽定かならぬ逸話がいくつか伝わっていることも興味深い。たとえば秀吉に攻められた際、城郭北側三の丸付近では敵の寄せ来るあたりに竹の皮を敷き詰め油をぬって足元が滑りやすくする仕掛けを施した。しかし逆にそれに火をかけられ却って攻め込まれてしまったという。また、主郭に入る虎口あたりに「米倉址」とされる一画がある。戦の際に貯蔵米も焼かれ、後になって炭になった米が出土したと伝わる。さらにこの山城のどこかに赤松家の埋蔵金が隠されているとの伝承もあるらしい。「朝日照る夕日輝く 木の下に 瓦千枚 黄金千枚」。どれもこれも事実でないと断定はできまいが、現実味に乏しい逸話である。竹皮油作戦は発想としては面白いが、敵に火をかけられることなど容易に予想できようし、小細工の域を出るものでもなくむしろ滑稽である。米倉址といわれる曲輪自体、保存状態の良い土塁で囲まれた面白い空間ではあるが、戦闘を想定すれば、最後に守るべき主郭の手前に米倉を設置するなどありえないだろう。黄金千枚に至っては、徳川埋蔵金をはじめ全国津々浦々にこの類の話は絶えず、「見つかった」という確定報告は未だ聞かない。

主郭に立つ石碑「赤松城址」

山城の醍醐味

 伝えられる内容の真偽よりも、むしろなぜこうした不思議話が多く語られているのかという点に感興そそられる。ここで全く根拠のない想像力を働かせてみると以下のことが言えるのではないかしらん。鎌倉末期にのし上がり室町期には将軍まで誅殺し(嘉吉の乱)、後に衰退をしていくといった毀誉褒貶多き赤松一族(およびそれにつながる孝橋氏ら)はなんといっても播磨一帯の名家であり、没落しても地域有力者としての名声を様々な形で地域に残したかった。殿様が自賛芝居で伝承を作り出したか、あるいは領主様を慕うか逆に忌み嫌う領民による創作だったかはわからない。おそらく両者による合作だったのではないか。そこに山陽地方に広く影響力を持ち大名豪族とも気脈を通じる寺院勢力がつなぎ役として噛んでくる。有力大名に取り込まれた世俗坊主らが「信仰」を通じて民衆にまことしやかな伝承を信じ込ませることは難しいことではない。しかしどの逸話も現実味に乏しく、また捉えようによっては滑稽なものばかりで揶揄話に近い。武勇伝だったはずの逸話が城主を慕っていない領民によって滑稽譚にすりかえられたのかもしれない。いずれにしてもこれら真贋定かならぬ山城伝説の背景にはこの播磨一帯に勢力を張っていた赤松氏の見栄と衰退の憂き目を見た恨み、またその領民の複雑な受け止め方があったに相違ない。現在主郭に建つ石碑も「中道子山城址」ならぬ「赤松城址」とあり、あえて「赤松の城」が強調されている。ここにもそんな事情が反映しているのかもしれない。
 こんな根も葉もない想像をして伝承に「真説」を打ち立てようという意図はさらさらない。むしろ本丸からの素晴らしい景色を眺めながら、さらにそこに花を添えてくれる余興としての伝承を楽しませてもらったことに感謝している。実際に山城を訪れることの醍醐味は、こうして現場に立って遺構や景色を眺めながら、あれやこれやと想像をめぐらせて楽しむことにあるのだという思いを新たにした次第である。   (2024.4記)



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