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フランス熱

 10月にパリに2週間ほど滞在した。帰国後しばらく不眠症が続き、ついには風邪をひいた。夜中に目が覚めると、朝まで寝られないのが、10日たった今でも続いている。時差ボケかと思っていたがどうも違う。「フランス熱」におかされた模様。夜半目が覚めると、パリで見た光景が目にうかび、つぎつぎとフランスで得た感情がよみがえってくる。読書をして眠りに戻ろうと枕元に置いたフランスの歴史、小説などを手に取ると、ますます精神が昂揚して、ついには寝ころんで読んでいるよりも机に向かったほうがよいと起き上がってしまう。こんなことの繰り返しだ。
 そもそもアジア派の吾人はヨーロッパにあまり興味がなかった。ましてや「花の都」ともてはやされファッションと高級グルメの地となれば吾人とは全く無縁の世界。アジアの混沌と臭気こそが我が世界と任じていた。
 ところがいったんパリの街に足を踏み入れた途端に、レリーフで装飾された19世紀半ばの建物群に圧倒された。どれも人が住み店舗の入った実用的な建物には違いないが、それぞれに工夫と装飾が施され、それ自体が工芸品然とかまえている。建物の上方を見上げるうちに足元もすくみ歩が進まない。
 宿はGay-Lussac通り沿いの簡素ながら快適なVilla Pasteur。あの「細菌学の父」ルイ・パスツールにちなんだ命名だ。そのあたりはグランゼコールGrandes Écolesというエリート養成の高等教育機関、研究所の集まった地区で、歩いて10分以内の範囲にパリ高等師範学校、マリー・キュリー研究所、さらに歩けばソルボンヌ大学などの重厚な建物が集中している。いわゆるカルチェラタンQuartie latinという地区で、古くは欧州各地から秀才学徒が集まり共通言語のラテン語で議論を交わした地であり、また1968年学生運動の一つの拠点になった場でもある。そうしたフランスのみならずヨーロッパ、世界の知性を牽引した地に足をつけているのかと思うだけでどうも心が浮つき始めた。
 一方、別方向に10分ほども歩けば広大なリュクサンブール公園があった(巻頭写真)。メディチ家から嫁ぎルイ13世の生母となったマリー・ド・メディシス王妃(イタリア名マリア・デ・メディチ)の命で作られた宮殿・庭園で、敷地面積は22ヘクタールにもおよぶ。元老院である建物は非公開ながら、公園敷地は無料開放され、市民が憩い、観光客が多く訪れる地となっている。パリの空気は密度が異なるのか日差しの成分でも違うのか、晴天に恵まれれば白、赤、黄色の花々が日本では見られないほど美しい彩を放つ。瀟洒な建物の端は青空に一髪をひき、威容を際立だせる。敷地内にはそこかしこにベンチ、椅子があり、多くの人が会話に興じ、またなにするとなくくつろぐ。著名な彫刻家による像が雨ざらしに多数配置されている。池の周りはメディチ家王族の立像がかこみ、園内緑地の所々には革命画家ドラクロア、楽聖ベートーベン、小説家ツヴァイクなどフランスに縁のある偉人らが銅像、胸像などで顕彰されている。ニューヨーク「自由の女神」の原像がここに立っていることは訪れて初めて知った。

パンテオン

 近くのパンテオンLe Panthéonにも足を運んだ。18世紀末に教会として建てられたものが革命後に偉人を祭る廟となった。パンテオンとはギリシア語で「神々を祭る廟」、古い日本語では「万神廟」と訳したらしい。建物の正面破風には「Aux Grandes Hommes la Patrie Reconnaissante」(祖国の偉人を敬す)と刻まれている。
 地下の廟の入り口近く左手に、いきなり百科全書派重鎮ヴォルテールの立像とその棺。廊下を挟み、右手にはフランス革命に多大な影響を与えた『社会契約論』著者ルソーの棺。フランスに興味はなくとも人類の歩を進めたフランス革命には大いに興味をもってヴォルテールもルソーも多少読んでいたので、まずはそれらに接して足が震えた。棺の中に本人やその一部が入っているわけでもないのに何度もめぐって様々な角度から棺を拝見した。無神論者を自任していたが、なんでもない像や絵、ことばに神仏を見出して手を合わせる信仰者の心境を多少なり理解した気がした。さらに奥に行けば、政治家、軍人、文化人らの廟がある。自分とって圧巻であったのはVictor Hugoの廟。Les Misérables 『あゝ無常』ほか数々の傑作を残した大作家。Les Misérablesは私の中では最高傑作小説のひとつ。その著者の棺がエミール・ゾラと並んで祭られている。圧巻とは言うもののこれは全く主観的な話であって、棺自体は白い石膏かモルタルによる単調きわまりないもので、表面に名前と生年、逝去年が記されているに過ぎない。ここに本人が眠っているわけではないが、何度も棺に手を触れHugoと無言の対話ができたことには感無量。自らの単純さに我ながらあきれる。

廃兵院

 宿の南に歩を向け細い道を抜けると、いきなり荘厳な建物が目の前に立ち現れた。重厚なドーム建築で、現在改修中にて入館はできない。ルイ14世が建てたLes Invalides「廃兵院」とある。戦争で負傷した兵士らを看護する病院である。建物が素晴らしかっただけでなく、おそらくここは幕末明治初期にフランスに滞在した渋沢栄一が訪れたところではないかしらん、と想像し始めたら興奮が抑えられなくなった。渋沢は当時、戦傷病兵を国が責任を以て手当てしているフランスの在り方に感銘を受け、明治帰国後、同様の施設、また貧窮者、孤児向けの福利施設を創設していったという。そんなアイデアを彼が得た場に立っているかと思うだに心が震えた。足元を見れば道は石畳が敷き詰めてある。ところどころ犬の糞が転がっている。かつて渋沢の乗った馬車馬の蹄鉄音、車輪の軋みまで聞こえる気がした。渋沢も犬の糞には気をつけながら歩いたことだろう。
 仕事で滞在したため、名勝旧跡を毎日訪れたわけではない。宿から歩ける範囲で散歩がてら見物をする、週末に少し遠出をする程度であった。その意味では一般観光客ほどの観光地を見てないかもしれない。しかし限られた機会の中で今回フランスの芸術、文化、歴史、社会の一端に触れ大いなる刺激を受けた。アジア派を任じパリには何の想像も期待も寄せていなかったことがその衝撃をより大きくしたかもしれない。多少読み知っていたフランスの歴史、文学などの断片的な知識が呼び起こされ、若い頃に欧州中心の社会科学を学んだ精神が覚醒されたのかもしれない。
 いやはや老境に至ろうとするこの期にフランス文化に圧倒され、寝もやらぬ毎日をすごすことになろうとは思いもよらなかった。この病から脱するには、内に鬱屈した思いを多少なりとも文章にて発散することが最良の処方かもしれない。                     (2023年11月)

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