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ニートな気分 ver.3


僕が外界と交わる唯一の手段、それがSNSだ。僕の生きる聖域は狭い六畳間の部屋だけで、外部との通信は中古のPC機に頼っている。毎日夕方に目覚め、ニュース記事を眺め世間の情報を集めたら、後は動画を眺め、アダルトサイトを徘徊し、深夜になると同じような連中が集うSNSに辿り着く。いつもの連中、冷やかし目的の新規の奴もぞろぞろと入ってくるのがいつもの光景だ。

『乙ですw』
『www草生えたwww』

いつもの当たり障りのない書き込みが続くのだが、まるで互いに生存確認しているかのように思える。互いの境遇など知りたくないし、知られたくもない。濃密な関係性は、無機質なネット空間にはまるで似合わない。でもふとした弾みで、何気なく自分をさらけ出してしまうことがある。そして僕は恥も外聞もなく我が身に降りそそいだ境遇を打ち明ける。実際過去数十年の間に、何度となく繰り返された話題でもある。私たちの境遇は大概同様なのだが、でも生きる時代が違えば年齢も世代も異なってしまうため、しばしば年頃の引きこもり世代から激しいコメントが飛び交うことになる。

『もうすぐ還暦ニート』
『引きこもりの王』
『既に産業廃棄物』

連中から与えられた嘲笑と、僕に向けられた僅かな尊敬を称えた言葉の数々だ。一方で長年の付き合いだと思っていても、気づけば一人、二人と消えていくこともある。再び社会の荒波に揉まれて生きる決心をした奴、中には心を病んで動けなくなったり言動がおかしくなった奴もいる。しかし我々が歳を重ねれば、皆いつかは同様に切実な問題に直面することになる。それは親の高齢化だ。表現は気に入らないが、我々はいわば親という存在に寄生して生きているのだ。

『働いたら負け』そう主張する奴もいるが、そもそも何が勝ちで何が負けかも良く分からない不思議な言い分だ。ただ自分は人とうまく交わることのできない『社会不適合者』だった、それだけのことだ。親が年金暮らしのうちはまだ良いが、彼らが年老いて自力で生活できないレベルに落ち込めば生活は破綻する。親戚兄弟からお前が面倒を見ろ、そう言われることも多いようだが、そんな芸当ができればそもそもこんな生活はしていない。排除した側の人間に指図されれば、された側は全力で抵抗する。こじらせた我々には、そんな気概しか持ち得ていないのが精一杯の抵抗手段なのだ。

いよいよ僕にもこの時が来たか、母親だった人の突然の言葉に、僕はそう思った。生きる糧はもちろん必要だが、その反面人に頼るにしろ人とは関わり合いたくもない。生活保護の申請はひどく面倒で、役所の担当に散々嫌味を言われて逃げ帰ってきた奴等の話しを、僕は何度となく聞かされていた。『人生詰んだ…』そう言い残して消えていった奴のことを、僕はぼんやりと思い返していた。

自然の摂理に従えば、宿主が倒れたら寄生する側も当然道連れだ。散々親に悪態をつき、罵倒し反抗したものの、最後の最後はこうして共倒れのように潰れていくしかないのだ。もし『行きたいか?』、と聞かれてもうまく返答はできない。正直『死にたくないから生きるだけだ』としか言えない。何かの夢も、希望も、野心も遠い昔になくして、諦めと惰性の中で僕はひっそりと生きている。

でも我が身の不幸を感じる前に、一度考えて欲しい。漱石の名作と言われる「こころ」の登場人物も、自身を「高等遊民」とうたってはいるが、その中身は僕同様のニートに過ぎない。ただあの頃はまだ平均寿命は50歳にも満たない時代だ。当然スマホもテレビすらなく、無声の映画が人気だったのも大正の後期だ。人は狭い世界で生き、家庭や町内、職場でのつながりしかなくSNSで共通の趣味を持つ仲間を探すのも不可能な時代だ。言わば人は人知れず生き、人知れず死んでいったのだ。人権意識も稀薄で、食料経済面でも貧富の差は今よりも遙かに激しかったはずだ。今の僕は、本当にそれ程不幸な存在なのだろうか。

この命がどうなろうとも、広い世間には何の問題もない出来事なのは重々理解している。我が身が侍であれば、生き恥をさらすこと無為に生きることも到底容認できないことではある。でも僕は幸いか、侍でもなければただのニートなのだ。平和な世の中に生まれ、平和な世の中で生きることすらできなかった無意味な人間に過ぎない。

そう思い、人様には迷惑をおかけすることのなきようにと、しまいくらいは自分で潔く済ませようと、そう考えて生きた十数年の結果、まだまだ生きたいと、そう願う心の遣りように居場所すら見つからない。そう考えて日々を生きるのが、今の僕なのだ。




イラストは、いつものふうちゃんさんです。
本当に、いつもありがとうございます。


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