ニートな気分 ver.1
「躺平主義」、これは現代中国の行き詰まった若者世代の声を代弁しつつも、深刻な社会問題を痛烈に皮肉った表現だ。日本語に訳したら「寝そべり主義」だが、かつてのバブル期以降の日本社会と同様の圧倒的な不況不景気の波に襲われた中国社会の現状を反映している。苦労して大学を卒業した挙げ句、新規の就職先もないまま路頭に迷う若者世代の苦悩と嘆きの産物である。そして「未来を諦め、体制に反発することもなく、ただ日々を寝て過ごす」ことで閉塞感漂う現代中国に抗いつつ生き抜く意思を表している。一党独裁かつ監視社会の中国においては声をあげても絶望を味わうだけで、受験戦争の日々を乗り越えた努力が報われない今、不況にあえぐ社会の絶望感を味わう彼らに残された手段は、ただもう静かに横たわるだけの日々を過ごすしかないのだ。いわばこれは若者世代が社会や政権に抵抗しうる精一杯の手段なのだろう。
PC画面に映し出される文字列を、僕はいつものように読みふけっていた。「何をいまさら…」、僕の胸中にはそんな感覚が去来していた。「もう数十年も前にそんな目に合ってるんだ。」正直『同類相哀れむ』よりは『同族嫌悪』、そんな感覚が僕には自然に感じられた。
見慣れた部屋の景色、見慣れた壁の染み。聞きなれた子どもたちの登校する声、聞きなれた親たちの子どもを呼ぶ声。行きかう車のエンジン音や自転車の音も朝のひと時を奏でる自然の音楽のように聞こえる。交わることのない異世界の住人達。彼らの日々の営みは忙しなく、そして止むこともなく日々を重ねていくのだ。時の流れが永遠ならば、彼らの日常もまた永遠のようなものなのだろうか。そろそろひと眠りしようか、疲れた頭を休めようかと敷き放しの布団に寝転がってみる。弾力の奪われた、味気のない布団だ。木目の天井の模様はもう見飽きていて、ぼんやりと思考をやり過ごす以上に僕ができることはないようだ。ただただぼんやりと、ただひたすらに忙しない朝のひと時が過ぎるのを待つ。そして上る日差しを感じつつ、ひとり静かに眠るのだ。いつからだろう、こんな風に日々を過ごすようになったのは。そんな不安がふと頭をよぎる。当たり前の答えをかき消すように、僕は無理に目を閉じた。眠ろうが眠るまいがどうでも良い。何も変わらない、何も変わらない世界が辺りを占めていた。
(イラスト:ふうちゃんさんです。いつも本当にありがとうございます。)
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