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子どもの頃の思い出

ボクの子ども時代、思い出すのは田舎の港町だ。
坂の多いところで、鉄工所や造船所の工場群が敷き詰められた港が一望できる坂の上からの景色が好きだった。

父親が中学の英語教師で、生活自体は多分裕福ではなかったのだろう。でも周りの友達も似たようなものだったから、誰も気にもしてなかった。
そんな事よりも次のサッカーの試合だとか、友だちと自転車でどこに行こうとか、誰と誰がケンカしたとか、クラスのあの娘が最近キレイになったとか、そんな些細なことに夢中になっていた。

週末の休み、サッカーの練習がおわったあとで父が市の図書館に連れて行ってくれた。デジタル文化のない時代、文字や写真の情報が全てだった世界、最新の情報はTVか新聞でだった。地元のFM放送や深夜のニッポン放送のラジオ番組が人気だった、そんな時代のハナシだ。

子ども向けの書棚には明治期以降の日本文学、コナンドイルとかエドガーアランポーなんかの作品が並んでいた。一冊取り出して表紙をめくる。少し目を通して良さそうなのが見つかったら、棚の端に隠れるように座り込む。一つ息をして、表紙をめくる。

文字の並びの向こうには見たことのない景色が広がっていて、ボクの周りを満たしていく。それは行ったことのない中世のパリだったり、日本のどこかにある里山の風景だった。

時に天気の良い日に雲の上を歩いたりもした。陽射しが眩しくて、目を開けていられないような中を踊るように歩く。雲はところどころ穴が開いたようになっていて、のぞき込むと遙か下に街の景色が氷細工の玩具のように並んでいた。

推理小説ならもっとドキドキする世界に連れて行ってくれた。ルパンが宝石を盗んだり、暗号を解読するのを隣で間近に見ていられた。断崖絶壁から落とされたりしたら、ボクの視界もぐるぐると回って海面へと叩きつけられた。

本がボクに足りないことを教えてくれた。知らない世界を見せてくれた。現実の世界はきっと厳しいのだろう。それは田舎育ちの子どものボクにも何となく実感できた。でも本の中に自分を落とし込んでいる間、ボクは夢の世界を生きるヒトのように自由だった。

高校をでてボクは新宿の下宿先で浪人生活を始めた。お金がないことは苦にもならなかった。でも世間は当時まだバブルに湧いていて、お金に踊らされた哀れな人達が闊歩かっぽしていた。豊かさの何たるかを知らないヒト達、そしてそういう世界への入口を探して苦労している自分に矛盾を感じていた。

随分と時間がたった。ボクはそれなりの生活をして、家族と過ごしている。家にはデジタル機器が至る所に置かれていて、スマホでもipadでも小学生の子どもにも簡単に触れるようになっている。

ボクはいまきらびやかな音楽をまとった心躍る世界観の映像を観て満足している。でもボクが子ども時代に見た、心の中の風景を持たないボクの子ども達は本当に豊かになったのだろうか。ふと気になった。

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