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ニートな気分 ver.2

「あのねえ、来月から入所施設のお世話になることにしたよ…いよいよムリも効かなくなってきたようだしね…昨日ケアマネの佐々木さんと相談して、そうして決めたんだ。アンタも良い歳なんだから、いい加減キチンとしなきゃダメだよ。いつまでもそうやってゴロゴロして。本当お天道てんとう様に申し訳ないよ…」

そう寂しそうに呟いた、しわだらけの老婆の顔はひどく疲れていた。もう何年も僕の目を見て話す事はなく、視線の先は遠くの景色か記憶の中にでもあるようだ。積年の苦労の記憶が僕に言い聞かせることを諦めさせたのだろう。老婆はただ部屋の入口に立ったまま、少しばかり開いたドアの向こうから決定事項を淡々と話すのだ。そこには非難も怒りの感情も消え去り、諦めのような無力感だけが漂っていた。

無職で独身の実家暮らし。最近流行はやりの、いわゆる僕はニート(英語:NEET;学校に通っていない、就業していない、職業訓練も受けていない、「無職無収入」な人々の略語)だ。ただ最近じゃあ35歳以上のニートはもうニートとは呼ばないらしい。その呼び名は「中年無業者」「高齢フリーター」とさらに進化を遂げ、より社会に馴染めない不要な存在として崇められてしまうようだ。社会からの孤立は日毎に進み、今では僕はもう現実社会にはどこにも居場所のない人間に成り下がってしまった。

いつから僕は、こんな人になってしまったのだろう。かつては反省と後悔と諦めの入り交じった複雑な感情が、苛立ちと諦めと現世への増悪をはらんで毎夜僕を襲い、そんな苦役に僕は苦しめられたものだ。いっそガソリンでもばらまいて火をつけたのなら、僕もきっと自由になれるのだろうか。SNS記事で見かけた孤独な犯罪者の無謀な動機にすら、気付けば僕は共感を覚えるようになっていた。時の流れの中で、いつしか僕は分厚い鎧を身に着けたかのようだ。達観の域に達した僕は、そんな記憶すらも懐かしく思えるようになっていた。何度となく、こんな思いに囚われる度に、僕には忌まわしい過去の記憶がよみがえってしまう。

公務員だった父親は、ひどく厳格な人だった。生真面目で不器用な性格の彼は、僕の人生も自分同様であるべきだと信じていた。だから薄給の中でも僕を無理に進学塾に通わせ、望んでもいない受験戦争へと僕を追いやった。母親だった人はひどく従順で、考えて行動したり、意見して衝突することをひどく恐れる性格だった。僕の子供時代の記憶といえば、両親ともに僕を追い立て、僕の気持ちなどお構いなしに塾だ勉強だ進学校だとはやし立て、合格通知を見て喜ぶ姿くらいしか覚えていない。

人付き合いも苦手で協調性にも欠けていた僕は、苦労の末に合格した進学先で落ちこぼれた。思春期独特の反抗期も重なって、僕は数年の浪人生活の末なんとかそれなりの大学には進めたものの、毎日が衝突と反省の日々になっていた。自閉傾向の強い僕は、自由意志のなさと世間知らずで広い世界で他者と交わるなど狂気の沙汰にしか思えなかった。苦労して就職した先でも人間関係のトラブルが絶えず、当時まだパワハラとかコンプライアンスなんて言葉すらなかった時代ではあったが、当然ながら僕が溶け込める世界も、僕を護ってくれるような環境もなかった。半年で僕は体も頭も動かなくなり、朝起きることすらできなくなっていた。「使えねぇ」「役立たず」「給料泥棒」「でくの坊」、僕を罵る言葉の渦に、僕は飲み込まれるように流されるままに心を病んでいった。

無理に連れて行かれた心療内科でも、僕は先生と全く話が合わなかった。当時の僕は無性に焦っていて、そして僕は度々医者と口論になった。血気盛んだった僕は、何度となく通院していたクリニックで問題を起こし、その結果僕は何度となく警察のお世話にもなった。決して仕事ができない訳ではなかった。でも朝の遅刻に報告書や礼状送付時の誤字脱字、先輩同僚からの叱責や助言への反抗的態度、僕の愚行を取り上げれば、それは枚挙にいとまがない程だった。今から考えれば当然の結果なのだろう。物わかりの良い部長に親子ともども呼び出された僕は、両親の前で退職勧告を受け、素直に従うしか道は残されていなかった。「ここでなければ、きっとこの子の才能を生かす道はありますから。」上司の言葉にほだされた両親は何も言い返すこともできず、僕たちはうつむいたまま帰途についたのだ。それから何年もの歳月が過ぎた。何度となく過去を振り返り、反省し、過ちを正そうと思い返した。そしてその度に臆病な自尊心は僕を護るようにこの部屋に僕を留めた。そうして幾年もの歳月を暈重ね、そして今の僕がここにいた。


(イラスト:ふうちゃんさんです。いつも本当にありがとうございます。)


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