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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の3]

西洋哲学史と近代日本(2)続き

4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.3 夏目漱石

4.3.1 はじめに

76. ものごとを実現して行く根底には力がある、その力とは何か(番外編2の1:8)という問いから始めて、近代世界において、力は懐疑する個人に宿る(番外編2の2:74)という答えに至りました。近代日本の懐疑的個人として二葉亭四迷と夏目漱石を挙げ(番外編2の2:58)、前回は二葉亭について考えた。今回は漱石を取り上げます。

77. 「私の個人主義」*は、夏目漱石が大正3年(1914)の11月25日に学習院輔仁会で行なった講演の記録です。前半は、漱石がどのようにして「自己本位」を自分の原理とするにいたったか、そのいきさつを語る。その背景にはロンドン留学時の心理的な危機があります。後半は、「自己本位」の個人主義が社会の中でどのように生かされるべきかを語る。輔仁会は学生組織なので、講演の後半になると、これから社会へ出る学生に向けた話という性格が前面に出てきます。

注*: 青空文庫で読むことができます。(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html)

78. 前半と後半はそれぞれ別の意味で興味深いものです。前半は、心理的な危機に陥っていた青年期の漱石が、ロンドン留学中に立ち直りのきっかけをつかんだ道筋を語っている。それは、前回(番外編2の2)の言葉遣いで表せば、懐疑論と個人主義を自分の原理として見いだす過程です。この場合、懐疑論とは、定説や通念を疑うことを言い、個人主義とは、自分で確かめたことだけを真理として受け入れることを言います(番外編2の2:49)。この意味での懐疑論と個人主義は、17世紀に近代科学を推進した思想的な力でした。だが、遅れて近代化を進めた19世紀末の日本においては、むしろ近代化を推進する側ではなく、近代化に抵抗する側の人々に現れてくる(番外編2の2:58)。講演の前半は、その典型的な事例の当事者による報告として興味深いものです。

79. 後半で、漱石は個人主義と社会との関係を論じる。個人主義を標榜することは国家を危うくするものではないこと、個性を自由に伸ばす権利は義務の自覚をともなうこと、などが確認される。これは、明治大正期の日本社会で、個人主義が国家との対立を意味すると受け取られていたことを示しています。この世間一般の考えに対し、漱石が「義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます」(p.129)*と応ずるとき、日本語人の自由の理解と行使にまつわる難しい問題が姿を現します。講演後半は、その意味で興味深い。

注*: p.129は三好行雄(編)『漱石文明論集』(岩波文庫1986)所収の「私の個人主義」のページ数。以下、「私の個人主義」からの引用及び参照の箇所は、この岩波文庫版のページ数のみを記します。

80. 漱石は、決して国家的義務を個性伸長の自由より重く見るものではない。しかし、義務心を強調する漱石の言葉に対して、私は、〝超越者との結びつきを欠いた個の自由はこの世の権力にきっと敗北する〟と応じたくなります。超越者への義務がこの世の義務よりも優先されるのでないかぎり、個人はこの世の権力に負けるほかないからです。(講演後半の分析は次回に行ないます。)

4.3.2 講演の前半

81. 漱石は、講演を引き受けるにいたった事情を、冒頭でかなり長く説明しています。旧知の某教授から依頼を受けたが、自分が病気に罹ったりしてなんとなく繰り延べになり、もうやらなくて済むかしらんとひそかに思っていたところ、やっぱりやって欲しいということになった、云々。さらに、かつて学習院の英語教師になる話があったがそれは立ち消えになった、あのときこちらに就職していたら、今回あらためて講演に呼ばれることもなかったわけだ、等々。こんなふうにして、大学を終える頃の自分のことに話題をもって行きます。

82. 学習院の方が破談になった後、自分は高等師範に行くことになった。そこはなんだか窮屈だった。1年で辞めて伊予の松山の中学校に赴任する。ここもまた1年で辞めて熊本の第五高等学校に行く。五高にいるとき英国へ留学する話が文部省からもちこまれた。自分のようなものが外国へ行っても仕方がないので、断ろうと思ったが、教頭はともかくも行った方がよかろうと奨める。とことん反抗する理由もないので行くことにした。「しかし果せるかな何もする事がないのです」(p.109)。

83. 英国まではるばる行った挙句、なぜ「何もする事がない」なんてことになったのか。それは漱石の心理的な危機にかかわっています。漱石は東京帝国大学で英文学を3年間学んだ。ディクソンという教師に英詩を読まされ、発音を直され、作文を添削され、文学史の切れはしを教わる。そして不満だけが残った。「文学とはどういうものだか、これでは到底解るはずはありません」(p.110)。それなら文学とは何かを自力で究めようと考えても、手掛りはなかった。結局何も解らぬまま世の中へ出て、気の進まぬまま教師を続けていたが、「腹の中は常に空虚でした」(p.110)。あるいは、空虚というだけではなく、「何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪まらない」(p.110)のでした。

84. この、大学在学中から熊本を経て英国に渡るころまでの心理状態を、漱石は下のように述べています。やや長いのですが、段落全体を引用する価値がある。

 「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ちすくんでしまったのです。そうして何処からか一筋の日光が射して来ないか知らんという希望よりも、こっちから探照燈を用いてたった一筋で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどっちの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかもふくろの中に詰められて出る事の出来ない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本のきりさえあれば何処か一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥あせりぬいたのですが、生憎あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのであります。」(p.111)

85. ここには、人が青年期に体験する不安と焦燥が活写されています。何か為すべき使命があるはずだが、それが何なのか分からない。そしてとにかく「空虚」である。心の底には「何だか不愉快な煮え切らない漠然たるもの」が横たわっている。しかし「霧の中に閉じ込められた」ように、「どっちの方角を眺めてもぼんやりしている」から、いったい何が自分を苦しめているのかがそもそも判らない。「不愉快」なまま「ふくろの中に詰められて」いるような感じで、突き破って出ようにも、突き破る術は手中にない。

86. こういう心理は誰しもある程度まで青年期に経験すると思われますが、漱石の場合、問題を深刻にしたかもしれない事情が二つほどあります。まず一つは、幼少年期に安心して過ごせる居場所が与えられなかったこと。漱石は、慶應3年(1867)に、江戸牛込馬場下横町の名主、夏目小兵衛直克の五男として生れ、金之助と名付けられます。生後すぐ貧しい夫婦の元に里子に遣られ、またすぐ生家にもどされる。満1歳のとき今度は新宿の名主、塩原家に正式に養子に出され、養父母を実の父母と信じて育ちます。ところが養父母が不仲となり、養母は離縁され、8歳頃に金之助は生家にもどされる。そうして実の父母を祖父母と思って暮らすが、こっそり教えてくれる女中があって真相を知ります。とはいえ、籍は養家に残っていたため、実父からは露骨に厄介者扱いされてしまう。実母は可愛がってくれたが、金之助が13歳のときに他界する。という次第で、生家と養家のどちらにも安住の場所がない不安定な状態で十代を過ごします。養家から生家に籍が戻されたのは、ようやく明治21年(1888)、金之助が21歳のときでした*。

注*: 漱石の少年時代については、荒正人『夏目漱石』(五月書房1957)pp.7-19の記述が簡にして要を得ている。里子に遣られたり養子になったりした経緯は、漱石自身の言葉として、随筆『硝子戸の中』の「二十九」に記述がある。実母の記憶は同「三十七」に、また実父に厄介者扱いされた事情は、自伝的小説『道草』の「九十一」に記述がある。なお、養子に出された年齢について荒正人の記述と漱石自身のぼんやりした記憶にずれがあるが、荒の記述を採る。東北大学附属図書館の夏目漱石ライブラリの年譜(https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/nenpu.html)は荒の記述と一致している。また、以下で荒の記述と夏目漱石ライブラリの年譜に相違があるときは、最新情報と思われるライブラリの年譜の方を採る。

87. もう一つは、学制の変動期に当たっていたためか、あちこちの学校に通っていて、学業の方向が定まらなかったこと。金之助は明治12年(1879)に東京府第一中学校に入学します。だが、ほどなくやめて明治14年(1881)には漢学専門の二松学舎に入っている。漢籍や小説などを読んで面白く感じ、このころ文学を志す気持ちが芽生えたたらしい。しかし明治16年(1883)頃には、漢籍は売り払い、大学予備門を受験するために成立学舎で英語を熱心に学んでいる。明治17年(1884)に大学予備門に合格。予備門は予科3年本科2年だが、予科の2年目で一度落第している。明治21年(1888)に第一高等中学校予科(大学予備門予科を改称したもの、後の旧制高校に当たる)を卒業し、同校本科英文科1年に入学する。明治23年(1890)満23歳で第一高等中学校本科を卒業し、東京帝国大学文科大学英文科に入学する。大学の英文科に不満を覚えたことはすでに述べたとおり。ただし、他の学生が感心するほど英語はよくできた、とのことです。*

注*: 荒正人『夏目漱石』(五月書房1957)pp.11-15および東北大学附属図書館、夏目漱石ライブラリ年譜。

88. 江戸の元名主の息子という社会的位置は、明治前半の大変動のさなかでも相対的に恵まれていたはずです。しかし、生家にも養家にも安住の場所がなく、学校もあちこち変わり、そのつど漢学に打ち込んだり英語の受験勉強をしたりするというのは、少年の自己形成の大きな負荷になったと思われます。中でも、漢籍と英語を相次いで学ぶことになったのは明治初期の社会変動の影響と言えるでしょう。漱石にとって、これは大きな問題となりました。こうして大学を出て学士となったものの、「腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送った」という述懐は、正直な感想としてそのまま受け入れてよさそうです。

89. 大人になり教師になりロンドンまで流れてきても、置かれた閉塞状況を破る手段がその辺に転がっているはずもない。「いくら書物を読んでも腹のたしにはならない…〔中略〕…何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来〔る〕」(p.112)。かくして、「果せるかな何もする事がない」とは、何をしても無意味に感じられるこの索漠とした心理の率直な表出だったわけです。

90. 漱石は、しかし、ロンドン滞在中にひとつの覚醒を体験します。本を読んでもふくろの中から出られない。突き破る錐はロンドン中探して歩いても見つかりそうにない。ならば自分で突き破るしかない。

 「この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。」(p.112)

91. 考えてみれば、自分はそれまでまったく他人本位だった。他人本位とは「いわゆる人真似」(p.112)をいう。「譬えばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物さくぶつを評したのを読んだとすると…〔中略〕…自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触れ散らかす」(p.113)類いである。そして、どこかに自分を納得させてくれる言葉があるのではないかと本を読み漁る。しかし、たとえ西洋人がこれは立派な詩だとか口調がよいとか言っても、「私にそう思えなければ到底受売うけうりすべきはずのものではない…〔中略〕…世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならない」(pp.113-114)のである。

92. しかるに、自分は英文学を専攻している。本場の批評家のいうことと自分の考えとが矛盾しては、「普通の場合気が引ける」(p.114)ことになる。だが、このとき他人本位の受け売りをすべきではなく、こうした矛盾がどこから来るかを問うべきなのだ。おそらくは、「風俗、人情、習慣、さかのぼっては国民の性格皆この矛盾の原因になっている」(p.114)に違いない。つまり、ある国民の気に入るものが別の国民の賞賛を得るとは限らない。文学と科学は異なる。

「私はそれから文芸に対する自己の立脚地を…〔中略〕…新しく建設するために…〔中略〕…自己本位という四字を漸く考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索にふけり出したのであります。」(pp.114-115)

「自己本位」を座右の銘として、心理学や哲学の研究に没頭するようになったとき、「もう留学してから、1年以上経過していた」(p.116)とあります。漱石の英国留学は明治33年(1900)9月から明治36年(1903)1月まで、2年4カ月余ですから、この覚醒はおそらく1901年末から1902年頃のことと推定されます。

93. 「私は自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。…〔中略〕…そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。」(p.115)

「そう西洋人ぶらないでも好い」とあるのは別に国粋主義に傾いたわけではなくて、西洋人のまねを続けていては「自分の腹の中は何時まで経ったって安心は出来ない」(p.113)からです。生涯の事業として成就させたいことは、西洋の受け売りではないやり方で、文学とはどんなものであるかを明らかにすることだった。

94. 「余所よそ余所よそしいものを我物顔わがものがお喋舌しゃべって歩く」(p.113)のはやめて、「文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げる」(p.112)途に就く。これが漱石における懐疑と個人主義の実践でした。漱石がこうして自力で作り上げたものの一端を、以下で簡単に見ておきます。

4.3.3  『文学論』の試み

95. 漱石は帰国後、東京帝国大学英文科講師となり、その講義録にもとづいて明治40年(1907)に『文学論』を刊行する。これが、文学とはどんなものかを明らかにする試みの一つの成果でした。「私の個人主義」では、この著作は自分の企てた事業の「記念というよりもむしろ失敗の亡骸なきがら」(p.116)であると語っていますが、同時に、「自己本位というその時得た私の考えは依然としてつづいています」(同上)と明言している。ロンドンでの覚醒のあと、根本の立場は変わらなかったのです。

96.『文学論』の序で、漱石は著作の執筆の動機を語っている。動機として特に挙げられているのは、漢籍を学んだときと英文学を学んだときの自分の受け止め方の違いです。自分は若いころ好んで漢籍を学んだ。そして「文学はかくの如き者なりとの定義」(『文学論』上*、p.18)を漠然と得た。ひそかに「英文学もまたかくの如きものなるべし」(同上)と思って学ぶことにしたが、「何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念」(同上)をもって大学を卒業し、今に至っている。

「換言すれば漢学に所謂いわゆる文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず。」(同上、p.19)

漢学の文脈でいう文学と英語の文脈でいう文学とは、同じものではなく、まったく種類が違う。続けて、これに気づかされたのはロンドンにおいてである、と言います。はるばるロンドンまで来て、こんな基本的な問題に気づくとは、「人は余を目して幼稚なりといふ」(同上、p.19)かもしれない。

注*: 夏目漱石『文学論』上、岩波文庫2007。

97. だが、もちろん、誰も漱石を幼稚と見なすことはできないでしょう。あまりに基本的な問題は、明瞭に対象化することが極めて難しい。漢文学と英文学を同じ定義で一括できると決めてかかるわけにはいかないと気づいたことは、漱石が、当時の日本で、人々があえて考えないことにしていた問題に気づいたことを示しています。それは、自分たちは果たして西洋文明を理解できるんだろうか、という問題だった。自分たちの伝統的な概念枠によって西洋文明を理解しようとしても、「欺かれたるが如き不安の念」を抱くに終わるだけなのではないか。

98. 漱石は、文学とはどんなものかという問いに答えようとしました。そのためには、漢文学で培われた文学の理念から距離をとる必要があった。英文学というよそよそしいものを鵜呑みにするのも止めねばならなかった。それぞれの文学的伝統から独立した考察の土台を設定しなければならない。そこで漱石は、「心理的に文学は如何なる必要あつて、この世に生れ、発達し、頽廃するか…〔中略〕…社会的に文学は如何なる必要あつて、存在し、隆興し、衰滅するかを究め〔る〕」(同上)という方針を立てます。こうして心理学や哲学を学ぶことが必要になった。「私の個人主義」で「科学的な研究やら哲学的の思索にふけり出した」(p.115)と語ったのは、このような方針を立てたからにほかなりません。

99. 『文学論』「第一篇 文学的内容の分類、第一章 文学的内容の形式」は、「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す」(『文学論』上、p.31)という定式で始まります。

100. Fは、「焦点的印象または観念」(『文学論』上、p.31)を意味する。‘F’は焦点 focus のFと考えられますが、さまざまな事柄をFと呼ぶこともある。だから事柄 facts のFとも考えられます。個人意識における一時的なFの例として、幼い頃は玩具や人形、少年には格闘や冒険、青年に至れば恋愛、中年のFは金銭や権勢、などと言われている(『文学論』上、p.37)。要するに、Fは意識の焦点に来る事柄(厳密には、その事柄の印象や観念)を表すわけです。‘f’の方は、「これに附着する情緒」(同上)なので、情緒 feelings のfです。「F+f」という式の意味することは、したがって、文学的内容とは、意識の焦点に置かれる事柄とそれにかかわる情緒の組合せである、ということです。

101. ここから始まる漱石の分析をいま論ずる準備はありません。ただ、ひとつ感想を言っておくなら、情緒fの分析は、とうてい一筋縄ではいかないだろうな、ということです。第一篇第一章の冒頭で、三角形の観念をFとするとき、それは情的要素を欠くと言われている(『文学論』上、p.31)。他方、星、花などの観念は情緒を生ずると言われる(同上)。これは「三角形」という語には読み手に情緒を喚起する力が宿っておらず、「星」、「花」という語には宿っているということだろう。ここで、語ないし観念に宿る力をfとみなすのか、読み手に起る反応をfとみなすのか、またはこの二つをあえて区別しないのか、判然としません。だが、一応、fを伴うか否かという区別は受け入れるとしよう。

102. さて、『オセロ』は、嫉妬という情緒を骨子として組み立てられているとされる(『文学論』上、p.113)。たしかに『オセロ』を観る(読む)ものはオセロの嫉妬がわかる。しかし、嫉妬を心に抱くわけではない。つまり観客は誰かを嫉妬するようになるわけではない。この場合、作品『オセロ』はどういう情緒を伴っていることになるのだろう。嫉妬が作品の骨子(主題)であるというのは受け入れるとしよう。作品はオセロに嫉妬が生ずる複雑な状況Fを伝えている。かといって、読み手が嫉妬を抱くわけではない。オセロの嫉妬がわかって、はらはらどきどきするとき、複雑な状況Fは、情緒fをたしかに伴うといってよい。だが、そのfは、ただちに嫉妬なのではないとしたら、いったい何であるとするべきか? 作品に宿るさまざまな力と、受け手に起こるいろいろな反応を区別し、それぞれについて精密な分析を試みないと、このような情緒fについて的確に語ることはできないと思われます。漱石はたしかに『文学論』全篇で長大な分析を試みていますが、それを通読したかぎりでは、的確に語ることに成功しているとは言えないように感じました。

103. 漱石は『文学論』以降、心理学や哲学を応用して文学とはどんなものかを明らかにする途は放棄し、小説を書くようになります。「文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げる」(p.112)のではなく、むしろ、文学そのものを自力で作り上げる方向を選んだ。彼は、ロンドンで立てた問いに、文学とはこういうものだ、と実物で答えたわけです。その意味で、漱石は自己本位の姿勢をよく保って自分の問いに答え、知性における個人主義を貫いたといってよいと思います。

104. 次回は、講演後半の自由と義務をめぐる議論を取り上げます。



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