西洋近代と日本語人(仮題) その7

3. 暴力について ――人類学風の考察―― (続き)

暴力とヒトの社会性(続き)

3.117.  以下では、ボウルズ&ギンタス『協力する種』(2017)の複数レベル淘汰がどのような考え方なのか素描します。取り上げるのは、同書第4章の「4.1 包括適応度と人間の協力」と「4.2複数レベル淘汰をモデル化する」の2節。協力の進化の基本的な考え方とその数学的な定式化の原理を述べる部分です。私は進化生物学の門外漢なので、以下の叙述は勘違いを含むかもしれない。というか、きっと含む。とはいえ、複数レベル淘汰については、すでに「個人を単位とする淘汰と集団を単位とする淘汰の両方を合わせて、洗練された形で群淘汰の概念を作り直す」(3.86)ものなのだと言いました。「洗練された形」がどういうものなのか、多少は紹介しておきたいと思います。

3.118.  ボウルズとギンタスの基本的な問題は、社会的選好(social preferences)を備えた人間たちがどのようにして人類社会で多数を占めるようになったのか、を説明することです。社会的選好を備えた人間とは、他者を考慮に入れて協力的に行動し、不公正な振る舞いを罰し、心のなかで罪や恥を感じる人々のことをいう(3.103, 114)。これが現実世界に生きている現実の人間であって、現実世界に生きているのは、けっして、経済学者のいう自己の欲求の最大限の充足を目指すホモ・エコノミクスではない。社会的選好を備えた人間とは、他者に広い意味での利益をもたらすように行動しようとする人間であるといってもよい。他者に利益をもたらす行為を一般に「援助」(helping)と呼ぶとすると、援助には、それによって自分の利益が増える場合と、逆に自分の利益は減ってしまう場合がある。ボウルズとギンタスが関心を寄せるのは後者で、これを特に「利他性(altruism)」と呼んでいます。

「援助によって自らの適応度や物質的利益が損なわれるにも関わらず、他者を援助する行為を利他性と呼ぶことにする。……利他的な援助行動は、人類の祖先が生活していた自然・社会環境とよく似た条件下で進化することを示していく。」(ボウルズ&ギンタス2017, 20)

これがボウルズ&ギンタス(2017)全体を通じた主題となる。

3.119.  動物の援助行動の進化を説明する枠組みには、先にもふれたように(3.79)、血縁淘汰(kin selection)による説明と、互恵的利他性(reciprocal altruism)による説明がある。このうち、ボウルズとギンタスは、血縁淘汰の考え方を受け継ぎ、これを血縁関係以外に拡張する方針をとる。互恵的利他性による説明は、ロバート・トリヴァーズの「互恵的利他行動の進化」という1971年の論文*で提唱されたものですが、これは二人の問題意識には適合しない。二人は、「トリヴァーズの貢献は一見すると利他的に見える行動が進化するのは、実はその行動が利他的でない場合があるためであることを示した点」(ボウルズ&ギンタス2017, 97)にあると指摘しています。援助を与える側と受ける側の双方に利益がある(互恵的である)かぎり、ボウルズとギンタスが考えようとしている利他行動とは異なる。従って、この互恵的利他性による説明は採用されなかったわけです。

注*: Trivers, Robert L. (1971). The Evolution of Reciprocal Altruism.  Quarterly Review of Biology 46: 35-57.

3.120.  血縁淘汰の理論は、ダーウィンにすでにその萌芽的な着想があるとされますが(小原2016*, 157)、ウィリアム・ハミルトンの「社会行動の遺伝的進化」という1964年の論文**で、利他性の進化の問題を解明するために、包括適応度という重要な概念とともに提出されました。この理論は、「血縁者への支援は、場合によっては自分の繁殖成績の向上に還元されることがある」(小原2016, 152)という着想にもとづいています。

注*: 小原嘉明(2016)『入門! 進化生物学』中公新書.
注**: Hamilton, William D. (1964). The Genetical Evolution of Social Behavior, I & II. Journal of Theoretical Biology 7: 1-16, 17-52.

3.121 繁殖とは、突き詰めれば自分の遺伝子を複製する活動といってよい。そして、兄弟姉妹などの血縁者は、自分と一定の度合いで遺伝子を共有している。それならば、自分の子を通して自分の遺伝子を複製する道だけではなく、血縁者の繁殖に協力して血縁者の子を通して自分の遺伝子を複製するという別の道も成り立つ。ハチやアリなど膜翅目の昆虫の場合、幾つかの種においては、労働個体(ワーカー)は不妊でありながら、自分の母である生殖メス(女王)の繁殖に協力することを通じて、むしろ効率的に自分の遺伝子を複製できるという状態が生じている(後述3.127)。ワーカーは、不妊という大きなコストを引き受けて女王に協力する。すると、この利他的な行動様式をワーカーもたらした遺伝子が、女王の子供たちを通して次世代に受け継がれていくことになる。(小原2016, 151-160;長谷川2009*, 72-89)

注*: 長谷川眞理子(2009)『放送大学叢書 動物の生存戦略』左右社.

3.122.  血縁淘汰という考え方は、遺伝子の複製過程を把握するためには、自分の子供だけでなく、自分が協力した血縁者の子供まで勘定に入れねばならないことを教えている。包括適応度は、そのために提唱された考え方である。「適応度(fitness)」とは、字義的には、環境に適応している度合いだが、個体が一生の間に生んで成体に達した子供の数として表わされる(小原2016, 42;長谷川2009, 83)。これは「古典的適応度」と呼ばれることがある。これに対し、「包括適応度」とは、個体が血縁者の繁殖に寄与した分まで含めて測った適応度(子供の数)のことを言う。概念的には、

包括適応度=古典的適応度 + 利他的援助による利益×血縁度 - 利他的援助で被る不利益

というように定式化される(小原2016, 154)。なお、与える利益や被る不利益は、適応度を単位として測られる(ボウルズ&ギンタス2017, 99)。言い換えれば「子供1.3人増加分の利益」とか「子供0.5人減少分の不利益」ということになる。この言い換えは私の思いつきだが、長谷川(2009)の84~86頁に、鳥類で包括適応度を計算する際に、「1.8羽分のヒナを余分に育てる」といった言い方が出てくるので、的外れでもないはずである。

3.123.  包括適応度の概念的な定式は、簡単な数式で表現できる。

 包括適応度: Fi
 古典的適応度: Fd
 利他的援助で相手に与える利益: b
 血縁度: r
 利他的援助で自分が被る不利益: c
 と置いて、

   Fi = Fd+rb-c

ここで、血縁者間の利他的行動が進化するとは、包括適応度が古典的適応度よりも大きいということだから、これはFi > Fdと書ける。つまり、Fi-Fd > 0ということ。そして、Fi-Fd=rb-cであるから、Fi-Fd > 0とは、rb-c > 0ということである。

 このrb-c > 0(ないしrb > c)という不等式は、利他的行動の進化についてのハミルトン則と呼ばれる。(小原2016, 156;長谷川2009, 80)

3.124.  ボウルズとギンタスは、このrb > cというハミルトン則の検討から議論を始める。最初にrとは何かが確認される。これは、「ハミルトンによる社会構造の尺度」である(ボウルズ&ギンタス2017, 89)。もちろん、rは、利他行動をする行為者とそこから利益を得る受益者の遺伝的血縁度なのだが、訳注によれば、「血縁度(relatedness)とは、複数の利他行動が行われている〈集団〉*において協力者と受益者の血縁の平均的な近さを表し、〈集団〉の性質を表す量」である(ボウルズ&ギンタス2017, 90訳注†)。これはどういうことか。

注*: 以下では、「集団(population)」と「グループ(group)」を、集団遺伝学(population genetics)の専門用語の意味で使う。それぞれ山カッコ〈…〉に入れて〈集団〉および〈グループ〉と表記する。集団遺伝学の用法では、〈集団〉は、「生物種の全個体が属する集合」を指し、〈グループ〉は、「ある生物種の複数の個体が集まって相互作用する単位」を意味する(ボウルズ&ギンタス2017, 凡例)。ある生物種の〈集団〉の中に複数の〈グループ〉が存在するということ。なおボウルズ&ギンタス(2017)からの引用においても、同書第4章では集団遺伝学の用法であることが凡例から明かなので、山カッコ〈…〉を追加して引用する。

3.125.  進化生物学の入門書によく出てくる例に沿って考えてみる。膜翅目の昆虫では、オスは未受精卵から発生する1倍体(半数体)であり、その精子は減数分裂を経過しないため、すべて同じ遺伝子構成をもつ。他方、メスは受精卵から発生する2倍体(倍数体)である。女王が一匹のオスの精子でみずからの卵をすべて受精させると、ここから生まれるメスたち(娘たち)は、父親の遺伝子をすべて共有する。つまり父親由来の遺伝子については共有の確率は1、すなわち、r = 1である。他方、母親由来の遺伝子は、通常の2倍体生物と同様に0.5の確率で共有する。すると、娘たちの相互の血縁度は、r = (1+0.5)÷2 = 0.75となる*(小原2016, 158-159;長谷川2009, 78-82)。このとき、この0.75という値は、同じ母親から生まれたこの娘たちのコロニ―(血縁集団)という〝〈集団〉の性質を示す量〟なのである。

注*: この式は小原(2016)の159頁にある。だが、実のところ、同書の記述からは、なぜ父由来と母由来の遺伝子を共有する確率を足して2で割ればいいのか、私には分からなかった。長谷川(2009)の81頁にある図5-1も意味が分からなかった。私に多少とも分かる説明は、ドーキンス『利己的な遺伝子 40周年記念版』(日高敏孝、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳、紀伊国屋書店2018)の【補注3】にあった。その複写を下に掲げておく。(同書p.558-559より)

3.126.  ハミルトン則rb > cとは、膜翅目の例からも分かるように、

「自分と相手のrの値に応じて個体が利他行動をするかしないかを選択することを意味している訳ではない」(ボウルズ&ギンタス2017, 90注†)

血縁淘汰とは、だから、血縁度の高い相手とは協力し、血縁度の低い相手とは協力しないようにして、自分の利他的な特性(をもたらす遺伝子)が血縁を通じて継承されていくように計らう、という〝個体の水準の話〟ではない。血縁淘汰が関わるのは、自分と相手の血縁関係の認識の有無とは独立に決まる〈集団〉の構造的特徴である。ある〈集団〉において、遺伝子に関わる関係性rと利他行動の利益b、利他行動のコストcについて、rb > cという不等式が成り立てば、その〈集団〉においては、利他的行動を通じて、その利他的な特性(をもたらす遺伝子)が広まっていく。ハミルトン則が告げているのはこの〝〈集団〉の水準の話〟なのである。

3.127.  ボウルズとギンタスは、ハミルトン則を、血縁淘汰に限定せずに一般的な状況に拡張して適用する。かれらによれば、ハミルトン則が捉えていることは、

「利他的遺伝子が広まるのは、利他的遺伝子を持つ個体が相互作用する相手から偶然よりも高い確率で協力してもらえる場合である」(ボウルズ&ギンタス2017, 90)

ということなのである。ハチのワーカーは兄弟姉妹を「相手」として「相互作用」し、兄弟姉妹を育て巣を守るという利他的行動を行う。すると、自分の遺伝子が効率よく複製されるという見返り、つまりは「協力してもらえる」状態が得られる。ハチの例では、血縁関係が「偶然よりも高い確率」を保証する。だが、これを保証するのが血縁関係でなくてもかまわない。そう考えれば、ハミルトン則は一般的な状況に拡張できる。

3.128.  そして、訳者解説によれば、現代の進化生物学においては、血縁淘汰はこの一般化の方向で解釈されている。

「血縁淘汰とは、同じ遺伝子を持つ個体同士が、ランダムに出会うよりも高い確率で遭遇して相互作用する「状態」を指しているに過ぎない。そうした(正の)同類性と呼ばれる状態は様々な「メカニズム」によって生じうる。そして何らかの「メカニズム」によって、同類性という状態が生じているならば、そこでは協力が進化している。これが現代の進化生物学における「血縁淘汰」」なのである。」(ボウルズ&ギンタス2017, 解説408)

要は、利他的な傾向を持つ個体が、同じ傾向を持つ個体と、何らかの原因によって、偶然よりも高い確率で出会って相互作用している「状態」があれば、そこでは協力が進化するということである。ある個体を、同傾向の別の個体と組み合わせる「正の同類性」(positive assortment)を生み出すのは、血縁でもよいし、他のどういうメカニズムでもよい。(門外漢に言わせれば、これを「血縁淘汰」と呼ぶことは、もはや誤解を招くだけではないだろうか。)

3.129.  ボウルズとギンタスの言う「複数レベル淘汰」の仕組みは、この、血縁以外のメカニズムを含む方向に拡張された血縁淘汰の概念に、さらに、〈集団〉のなかの複数の〈グループ〉相互の関係を導入することによって構築される。私のことばでその大枠を述べれば、複数レベル淘汰は次のような組み立てになっている。

3.130.  まず、正の同類性があれば協力が進化するという拡張された血縁淘汰の概念は前提しよう。いま、〈集団〉のなかに、繁殖に関して相対的に隔離された多数の〈グループ〉があるとする。このうちの幾つかの〈グループ〉では、何らかのメカニズムで正の同類性が生じている。他方それ以外の〈グループ〉では、正の同類性が生じていない。このとき、前者の〈グループ〉内では協力が進化するが、後者の〈グループ〉内では協力は進化しない。仮に前者を協力的〈グループ〉、後者を非協力的〈グループ〉と呼ぼう。さらに、いま、以上に加えて、〈集団〉の生存環境に何らかの変動が生じ、その変動の下では、協力的〈グループ〉は成員を増やしながら存続できるが、非協力的〈グループ〉は成員が減り続けて存続が困難になるとしよう。すると、長い間には協力的個体の数が、非協力的個体の数を凌駕して、その生物種(たとえば、ホモ・サピエンス)のなかの多数を占めることになるだろう。

3.131.  上の図式について、淘汰の単位は個体であるという点を強調しておかなくてはならない。〈グループ〉を単位として淘汰圧がかかるという素朴な群淘汰の発想は、すでにしりぞけられている(3.80)*。現在の進化生物学では、常に個体(ないし遺伝子)の適応度が問題になる。ボウルズとギンタスの定式化もその例にもれない(ボウルズ&ギンタス2017, 91-92)。にもかかわらず、〈グループ〉の相互関係と内部構造が個体の適応度に影響を与えて、その結果、利他行動が進化する状態が出現するのである。

注*: 冒頭3.117で引用した3.86の私の文言、「個人を単位とする淘汰と集団を単位とする淘汰の両方を合わせて、洗練された形で群淘汰の概念を作り直す」は、不正確だったことになる。正確には、「集団を単位とする淘汰」ではなくて「〈グループ〉間の相互作用が個体に及ぼす淘汰」である。あわせて、「個人を単位とする淘汰」も「〈グループ〉内の相互作用が個体に及ぼす淘汰」となる。

3.132.  たとえば、個体は、協力的な個体のかなり多い〈グループ〉に属していれば、当然かれらと遭遇して利益を得る機会も多くなる。すると、おそらく適応度は高まる。逆に、協力的な個体のかなり少ない〈グループ〉に属していれば、利益を得る機会も少なく、おそらく相対的に適応度は低くなる。また、個体自身が協力的か非協力的かということも、適応度に影響する。非協力的な利己主義者が、協力的な利他主義者の多い〈グループ〉に属していれば、自分の方は協力のコストを支出せずに、周囲から多くの利益を得ることができる。逆に、利己主義者に取り囲まれた利他主義者は、常に搾取されてしまう。

3.133.  すると、以下のように、〈グループ〉の水準と個体の水準の条件が組み合わさったややこしい状態が生じることが予想できる。

 ある個体が、協力的な個体の多い〈グループ〉に属していて、かつ、その個体自身も協力的だった場合、他から得られる利益は多くなる(周囲に利他主義者が多いから)が、〈グループ〉内で利己主義者と出会うと搾取されてしまう。したがって、この〈グループ〉の中では利他主義者は利己主義者よりも相対的に適応度が低くなる。すると、この〈グループ〉内で徐々に利他主義者が占める割合は減少するはずである。

 また、これとは別の、利己主義者が多数を占める〈グループ〉では、利他主義者は他から得られる利益が少なく、かつ搾取される機会は多いから、この〈グループ〉内で利他主義者の占める割合は、さらに速い速度で減少するはずである。

3.134.  しかしながら、〈グループ〉間に何らかの原因で競争が生じた場合、たとえば戦争が起きた場合、協力的な〈グループ〉は非協力的な〈グループ〉よりも優位に立つことがあり得る。言い換えれば、協力的な〈グループ〉が、非協力的な〈グループ〉の得ていた資源を獲得して、急速に大きくなる場合があり得る。そうすると、どの〈グループ〉内でも利他主義者は利己主義者に搾取されて割合を減らす(個体数を減らすとは限らない!)が、すべての〈グループ〉を合算した〈集団〉全体で見ると、協力的な個体の多い〈グループ〉が急速に大きくなっていくために、以前よりも――非協力的な〈グループ〉が幾つもあったときよりも――利他主義者が、割合においても個体数においても増えて行くことがあり得る。このように〈グループ〉間と〈グループ〉内に起因する淘汰が重なり合うことによって、全体としてみると、利他的な個体が増え、利他行動が広まっていくということが起こり得る。

 ボウルズとギンタスは、こういう込み入った条件をうまく表現できるように、協力の進化を数学的に定式化しなくてはならない。

3.135.  数学的モデルの構成は、まず、利他行動をもたらす一個の利他性の遺伝子(A)を想定するところから始まる。現実には、利他行動をする形質(trait)が単一の遺伝子の働きでもたらされるなどということは考えられないが、モデルを作るためにこのように単純化して考える。各個体はこの形質を持つ(A)か持たない(N)かのいずれかである。(ボウルズ&ギンタス2017, 98)

3.136.  3.123で述べたように、利他行動にはコストcがかかる。また、ある個体の利他行動は、〈グループ〉からランダムに選ばれたある個体にbの利益を与える。そして、3.122で見たように、bとcは適応度(もうける子供の数)を単位として測られる。以下では、b > c > 0であるとする。*

注*: 「以下では、b > c > 0であるとする。」の一文は、2021/12/15の追加。

3.137.  すべての個体は、A(利他的)であるかN(非利他的)であるか、いずれかである。Pij*という表記で、〈グループ〉jの個体i がA(利他的)またはN(非利他的)であることを表わす。Pij = 1で〈グループ〉jの個体i がAであることを表わし、Pij = 0は個体i がNであることとする。(ボウルズ&ギンタス2017, 99)

注*: note では、数式を通常の形式でテキスト中に記すことができない。それゆえ、通常「斜体の英小文字と下付き文字」で表記されている記号は、「直立の英大文字と小文字」で表記する(下図参照)。その他、必要に応じて注記する。

3.138.  ある世代の開始時の〈集団〉における利他的遺伝子Aの割合をPで表わす。次の世代の開始時における〈集団〉のAの割合をP′で表わす。P′-Pの値が正になる条件がどのように表現できるのか、ということが数学的定式化の関心事である。正の値ならば、A(利他的個体)は〈集団〉のなかで割合が増えている。負ならば減っているのである。

3.139.  Wijを〈グループ〉j内の個体i の適応度の期待値とする。そして、Wijを以下のように表わす。

 Wij = βo+Pj·βg+Pij·βi   (式4.2)

 この式は、ボウルズ&ギンタス(2017)の99頁で、「Wijを……と定義し、Wij = βo+Pj·βg+Pij·βiとおく」というように、天下り的に、問答無用で提出される。ここだけ読んでも、なんでこうなるのか解せない。しかし、「βo」「βg」「βi」がそれぞれ何を表わすのかを読み取っていくと、この式4.2のひな型は、包括適応度の定義の式「Fi = Fd+rb-c」(3.123)だろう。私はそう思って読んだ。以下、式4.2の右辺の記号を順番に説明する。

3.140.  βoは、「ここでは考えられていない要因によるベースラインの適応度」(ボウルズ&ギンタス2017, 99)である。ここで考えられて〝いる〟のは、〈集団〉内の各〈グループ〉の個体たちが利他的(A)か非利他的(N)かということだから、βoは、これ以外の要因、たとえば、自然環境その他もろもろの、ここでは問題にしていない要因で決まる基盤的な適応度を表わす。

3.141.  Pjは、「〈グループ〉j内の遺伝子Aの頻度」(ボウルズ&ギンタス2017, 99)である。つまり〈グループ〉jの成員のなかの、利他的個体の割合ということ。〈グループ〉jの任意の個体が遺伝子Aをもつ確率といってもよい。だから、0 ≤ Pj ≤ 1である。全員がA個体ならPj=1であり、A個体が一人もいなければPj=0。そして、Pjの値、つまりAである個体の割合の増減に応じて、その〈グループ〉の個体i の適応度の期待値も変動する。たとえば、利他的個体の割合が多い〈グループ〉では、協力してもらえる機会も多くなるから、各個体の適応度は高まる方向の力を受けるだろう。

3.142.  βgは、「Pj(〈グループ〉j内の遺伝子の頻度)……の変化がWijへ及ぼす効果」(ボウルズ&ギンタス2017, 99)であるとされる。これは何が言いたいのかたいへん分かりにくい。そこで、訳者は親切にも、「βg = bと思って読み進めると分かりやすい」(ボウルズ&ギンタス2017, 99)と助言してくれている。bとは、ある個体の利他行動がもたらす適応度上の利益だった(3.123)。Pj·βgは、Pj·bだと思ってよい、ということである。βgをbと思ってよい理由は次回に考える。

 Pjは〈グループ〉jのAの頻度(確率)である。すると、式4.2の、βo+Pj·bという部分は、〈グループ〉j内の個体i が〝基礎的な適応度βoに加えて、自分の〈グループ〉の利他的個体の確率Pjにbを掛けた分の適応度上の利益を得る〟ということを言っている。仮に〈グループ〉jの半分が利他的個体なら、βo+0.5bということになる。

3.143.  βiは、「Pij(個体iが遺伝子Aを持つかどうか)の変化がWijへ及ぼす効果」(ボウルズ&ギンタス2017, 99)である。これも何が言いたいのかたいへん分かりにくい。ここでも訳者は親切に、βi = -cと思って読み進めると分かりやすい、と助言してくれている。c とは、ある個体の利他行動の適応度上のコストだった(3.123)。Pij·βiとは-Pij·cなのである。こう思ってよい理由も次回に考えたい。

 つまり、利他行動をするとその個体は-cという適応度上の損失を被る。そしてPijは、個体iが利他的(A)ならば1、非利他的(N)ならば0の値をとる変項だった。すると-Pij·cとは、個体iが利他的なら-c、非利他的なら0となる。したがって、式4.2の、+Pij·βiという部分は〝個体i が利他的なら-c、非利他的なら0を加える〟ということを言っている。要は、利他的個体はcなる値の適応上のコストを引き受けねばならないが、非利他的(利己的)個体はコストがゼロだ、ということ。

3.144.  以上から、式4.2、すなわち、Wij = βo+Pj·βg+Pij·βiなる式が述べているのは、次のようなことである。

〈グループ〉jの個体i の適応度の期待値=基礎的適応度+〈グループ〉jの利他的個体の頻度×b+(-cまたは0)

もう少し説明的に言うと、以下のとおり。任意の〈グループ〉の任意の個体は、基礎的適応度に加えて、自分の〈グループ〉にいる利他的個体の割合に応じた利益bを得るが、自分が利他的ならcを支払い、非利他的なら何も支払わない。

3.145.  以上のように見てくると、個体i の適応度の期待値を表わす式4.2、Wij = βo+Pj·βg+Pij·βiは、実質的には、

Wij = βo+Pj·b-Pij·c

である。これは、包括適応度の定義の式

Fi = Fd+rb-c

によく似ている。大雑把に言えば、どちらも、個体の包括適応度は、基礎的な適応度に、利他性からの利得bに或る係数をかけた値を加え、利他的行動のコストcを引いた値である、と言っている。

3.146.  だが、式4.2の係数Pjは個体が属す〈グループ〉jにおけるAの頻度であって、血縁度rではない。血縁度rとは、〈集団〉のなかで相互作用する個体同士の〝近さ〟、ないし、正の同類性(positive assortment)の度合いである。具体的には、ハチのワーカーの例で見たように、相互作用する相手が自分と同じ遺伝子を持つ確率を言う。現在考察中の問題で言えば、血縁度rは、利他的遺伝子Aを持つ個体同士が〈集団〉において相互作用する確率である。この確率rがハミルトン則rb > cを満たすかどうかによって、利他性が広まるか否かが決まる。

3.147.  〈グループ〉j内のA個体の頻度Pjが1に近いような高い値なら、〈グループ〉jの血縁度――言い換えれば正の同類性、さらに言い換えればA個体がA個体と相互作用する確率――はもちろん高くなる。だからPjとrは関係がある。だが、rは「〈集団〉の性質を示す量」(3.126)である。全〈グループ〉を考慮に入れて、〈集団〉の水準でrを求める方法はまだ見えてこない。式4.2に基づきながら、正の同類性の度合い r を算定する手順が必要なのである。(以下、次回)


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