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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の20]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

4.4.3.3. アガペー(愛)について

前回への補足

815. 前回は、原罪(original sin)とは底なしの懐疑のことなのだ、という私の直感的な解釈を示しました。〝底なしの懐疑〟とはどういうものなのか。懐疑は、通常、底なしではなくて、疑いを晴らす標準的な手続きの認識をともないます。グラスに入っている透明の液体が、水なのか焼酎なのか疑われる場合は、舐めてみればわかります。

816. あるいは、体調不良で、なんらかの病気を疑って病院に行く。医者は検査して診断を下します。診断は、確定する場合も、推定に留まる場合もあるでしょう。現代の医学では体調不良の原因を特定できない、という場合も考えられます。しかしその場合でも、医学の進歩によって原因が特定されうるという感じは医者も患者も持っている。疑いが残っても、晴らす手続きがあるという感じは失われない。

817. これに対して、底なしの懐疑というのは、そもそも疑いを晴らす手段がないと感じられるような疑いのことです。前回、例に挙げたのは、帰納法に対する懐疑*でした。帰納法とは、過去の経験にもとづいて未来の事象を推定する形の推論のことです。人間は、昔からずっと、経験にもとづいて未知の事態をとらえようとしてきた。しかし、帰納法が、一般的に正しくて有効であることを示すのは意外に困難です。言いかえると、経験にもとづいて未知の事態に対処するとき、自分が過ちを犯しているのかもしれない、という疑いを完全に払拭する手段はありません(2の19:804~813、特に805、808)。

注*: 底なしの懐疑としてよく知られているのは、デカルトが『方法序説』や『省察』で大々的に展開してみせた〝感覚への懐疑〟です。感覚的な外界認識においては、自分では正確なつもりでいても、錯覚に陥っていることがある。また、夢の中では、確かにそこに人やものが存在すると思っているが、実はそれらは存在しない。とすると、今現在、自分は目覚めていて、世界を現実に感覚していると思っているが、そう思っている夢を見ているのではないか、という疑いを晴らす手段はない……。というように、感覚的な外界認識は、底なしの懐疑に陥り得る構造を備えています。

818. 原罪という言葉は、自分が誤っているかもしれないという疑いがありながら、それを晴らす手続きがなく、したがって、いつまでも自分が過ちを犯しているのではないかという疑いが残ってしまう、という状態を言い表している。これが私の個人的な原罪の理解の仕方でした。

819. キリスト教辞典*をみると、原罪とは、「神と人間との関係の破綻であ〔る〕」とあります。懐疑が払拭できないことは、真理へと到る道を歩んでいるかどうか、私たちには常に疑いが残るということを意味している。これは、人間と真理との関係の破綻を意味するとも考えられます**。懐疑を原罪と見立てるのは、神を真・善・美に置き換えて考えれば、さほど的外れではないと思います。

注*: 大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃(編)『岩波 キリスト教辞典』(岩波書店 2002)

注**: しかし、疑いが残ることが、人間と真理との関係の破綻をかならず意味するとはかぎりません。たとえば、人間と真理との関係は、常に疑いが残るようなものなのだ、というように根本の考え方を変えてしまうという奥の手がある。そうすれば、むしろ疑いが残ることが人間と真理との通常の関係になる。
 このような考え方は「可謬主義(fallibilism)」と呼ばれます。可謬主義は、科学的知識のあり方に合致しています。ニュートン物理学は、18世紀にはこれこそ真理の体系であると考えられましたが、20世紀初頭に量子論と相対論によって改められた。現代の最先端の物理学体系も、どれほど真らしくみえても、常に改定の可能性を残すと考えられています。可謬主義的に考えるなら、人間が真理に到達していると決定的に論証する(認識を基礎付ける)ことはできない。しかし、真理がまったく個人や時代や社会に相対的であるわけでもない。結局、人間は誤謬を犯しながら真理へと向かう途上にある、とするのが穏当な考え方です(私もこう考えています)。
 ただし、人は常に誤謬を犯している可能性があるけれど、真理という概念自体は無内容ではない、と説得的に論ずることは意外に難しい。決して到達できない(誰も〝見る〟ことはできない)のに、なぜ在ると言えるのか、という難問が発生するからです。この難問はつまり、神(真理、或は絶対)には誰も到達できないが、神(真理、或は絶対)は存在する、と説得的に論ずることの難しさと同じものです。なお、この点については、絶対を論点として、2の14と2の15で或る程度論じました。

イエスの死とその語り

820. 旧約聖書によれば、アダムとエバの裏切りによって神と人間の関係は破綻したのであり、それ以来、人間は罪のある状態にあります。新約聖書によると、この罪ある状態から人間を救ったのがイエス(前4頃~30頃)の十字架上の死です。そして、その死こそが神の愛(アガペー)であると解釈される。どうしてそういうことになるのか。

821. イエスの死の解釈は、彼に付き随った人々にとって、きわめて大きな問題でした。イエスは、ユダの裏切りによって、ユダヤ人社会の有力者たちに捕らえられます。そして、大祭司カヤパから「お前は神の子キリストであるのか」と尋問される。イエスは、「あなたがそう言っておいでなのだ」と答えます(マタイ26:63, 64)。イエスが救済者でありユダヤ人たちの王である(キリストないしメシアである)のかどうかということは、ユダヤ教の指導者たちにとってさえ、無視しきれない問いになっていた。イエスとその周囲の人々の活動にはそれだけの力と勢いがあったと考えられます。その活動は、当時のパレスティナに広がっていた宗教改革の形態をとる革命運動の一つだった。そして、ユダヤ人社会の有力者たちは、メシアを僭称した神聖冒瀆の咎でイエスを死刑にします。

822. この一連の出来事は、イエスをメシアと信じる弟子たちにとっては意外なことだった。イエスは神の子だったはずなのに、あっけなく十字架に架けられて死刑になってしまった。この事実は、いったいどう解釈すればよいのか。これが重大な問題となったわけです。

823. 歴史的な事情をすこし補足すると、イエスの死後、その教えは、1世紀中葉から2世紀前半にかけて、ヘレニズム世界の人々に広まっていく。そこには紆余曲折があります。エルサレムには、イエスの弟ヤコブを中心に、伝統的ユダヤ教に近い考え方をもつ人々の集団が存在した。これとは別に、パウロ(紀元前後~60頃)など、生前のイエスを知らないヘレニズム世界のユダヤ人(離散ディアスポラのユダヤ人)の信者の集団が、各地に存在した。この両者が対立しながら布教を続けるなかで、ローマ帝国からの独立を目指すユダヤ人の蜂起(第一次ユダヤ戦争 66~70)が起こります。だがこれはローマ帝国によって鎮圧され、エルサレムは徹底的に破壊される(70)。このとき、エルサレムにいたヤコブらの集団は壊滅します。

824. これ以後、ギリシア語を使用する離散ディアスポラのユダヤ人たちが、イエスの教えを広める中心になる。彼らは、政治的弾圧を回避するために独立運動からは距離をとりつつ、イエスの生涯をヘレニズム世界の人々が理解でき、許容できるようなかたちで、すなわち、伝統的なユダヤ教とは違う仕方で解釈し、物語ることになった。こういう歴史的経緯のなかで成立したのが、四つの福音書です。そして、福音書に先だって、パウロの書簡が存在していました。

825. 思想的な観点からは、上のような歴史的経緯は次のようにまとめることができます。

「イエスのメッセージの本質を明らかにする任務は、…(中略)…教育のある、都会化された、ギリシア語を話す離散ユダヤ人という新しい層に委ねられ、そうした人々が、この新しい信仰拡大の主要な役割を果たすようになる。ギリシア哲学やヘレニズム思想にどっぷり浸かっている人が多いこれら非凡な男女が、イエスのメッセージを自分たちの仲間のギリシア語を話すユダヤ人や、離散先で知り合った異教徒の隣人たちの好みに合うように解釈するようになるにつれて、イエスは、大変革をもたらす熱烈な革命家から、ローマ風の神格化された英雄へと次第に作り変えられ、ローマ人の抑圧からユダヤ人を解放しようとして失敗した一人の人間から、浮世の問題にはまったく関心のない、天界の存在にされていったのである。」(レザー・アスラン『イエス・キリストは実在したのか?』白須英子訳、文春文庫、2018、p.266[単行本2014])

イエスは、熱烈な革命家から、無害な愛の伝道者へと変貌せざるを得なかった。イエスの教えを広めるためにも、また教えを信ずる人々の生活の安寧のためにも、それが要請されたわけです。

罪と十字架とアガペー

826. いったい、ヘレニズム世界の伝道者たちはどのような物語を作り上げたのか。そして、それが愛の概念に何を付け加えたのか。パウロは、罪と人間の関係について、まずこう語っています。

827. 「ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにある」(ローマ3:9)* そして、ユダヤ人もギリシャ人も「全世界が神に対して裁きに服する」(ローマ3:19) しかし「律法の業績からではいかなる人間も神の前で義とされることがない。律法によって生じるのは罪の認識だからである」(ローマ3:20)
 要するに、すべての人に罪があるが、人間は律法を守る行ない(「業績」)を通じて正しいとされる(「義とされる」)ことはない。律法は罪の認識を生むだけだから、というのです。

注*: 田川建三『新約聖書 訳と註 4 パウロ書簡 その二』(作品社2009)所収、「ローマにいる聖者たちへ」第3章9節。このパウロ書簡は、新共同訳では「ローマの信徒への手紙」と題されているもの。なお、新約聖書の訳文は、以下すべて田川建三の訳によります。

828. 「律法によって生じるのは罪の認識だから」(ローマ3:20)というのは、わかるようなわからないような微妙なところがあります。さしあたり、次のように理解しておきます。律法は罪か罪でないかの識別(「認識」)を生むけれども、律法を完璧に守り、罪であるという〝認識〟が一切ないからといって、人が罪を免れているかどうかはわからない。つまり、律法を守っているからといって自動的に正しい存在となるわけではない、ということが言いたいのだと理解できます。

829. では、大事なのは律法ではなくて何なのか。次の箇所が、「パウロの「福音」をを最もよく表していると言われる箇所」(田川訳註『新約聖書 4』p.141)なのだそうです。やや長いのですが、全部引用しておきます。

「21 だが今や、律法なしで神の義が顕わされた。律法と預言者によって証しされてはいるけれども。22 それはイエス・キリストの信による、信じるすべての者へといたる神の義である。そこには何の区別もない。23 何故なら、すべての者が罪を犯したのであって、神の栄光に欠けるのである。24 その人々が義とされる。無料で、神の恵みによって、キリスト・イエスにおける贖いを通して。25 そのキリストを神は宥めの供え物として定めた。信によって、彼の知において。それは、これまでに犯された罪を 26 その忍耐において 25 見逃すことによって神の義を示すため。26 こうして神の義を今の時に示すため。神がみずから義となり、イエスの信からの者を義となすため。」(ローマ3:21-26)

830. 田川建三の註釈をたよりにしながらこの部分を読解すると、こういう趣旨のようです。

 今や、律法とは別に神の正しさが明らかにされた、それは旧約が告げていたことである。それはイエス・キリストに示された〔神の〕誠実性によって、信じるものすべてに届く神の正しさなのである。そこには何の区別もない。なぜなら、すべての者が罪を犯したのであり、すべての者に神の光は届いていない。だが、そんなすべての人々が、正しい存在とされるのだからである。それも、無料で、神の恵みによって、キリスト・イエスによる買い取り(即ち、罪を贖うための身代金の支払い)を通して、正しい存在とされる。キリストを、神は、誠実性と知恵にもとづいて、宥和のための供物に定めた。それは、これまでに犯された罪を、忍耐し、見逃すことによって神の正しさを示すためである。また、こうして、神の正しさを今の時代に示すため、神がみずから正しいものとなり、イエスに示された〔神の〕誠実性に従う者を正しいものとするためである。

831. まだけっこう分かりにくいと思いますが、私の見るところ、要点は二つです。神が、イエスを、人間の犯した罪を償うための供え物と定めたこと。および、神はイエスを通じてその誠実性を示しており、神の誠実性に従う者が正しいものとなること。二つをつなげば、イエスの償いのおかげで人類は罪から救い出されたのであり、そこに示された神の誠実性に従うことで人は正しいものとなり得る、というわけです。

832. なお、「イエス・キリストの信(ローマ3:22)」、「イエスの信(ローマ3:26)」の「信(ピスティス、pistis, πίστις)」は、解釈が難しいらしい。この解釈については、田川建三『新約聖書 訳と註 3 パウロ書簡 その一』(作品社2007)の「ガラティアの諸教会へ」の2:16への註pp.166-174 に従っています。

833. 同註にはこうあります。「イエス・キリストの信」は、ギリシア語の文法によるかぎり、各種の現代語訳聖書によく見られるのとは違って、〝イエス・キリストを人が信仰すること〟ではなく、〝イエス・キリストが信実であること(まじめで偽りがないこと)〟という意味にしかならない(同註p.171)。だが、用例をよく調べると、そう決めつけることもできない。そこで、田川建三は、次のように示唆します。

「イエス・キリストの信」といった言い方は、「パウロの独特の省略表現であって…(中略)…「神がキリストを通じて示した信実」といったことを一言で「キリストの信」と標語的に言っているのであろうか。」(同上)

「……であろうか」と田川は断定を避けていますが、ここでは、この示唆にしたがって、「イエス・キリストの信」(ローマ3:22)は、「イエス・キリストに示された〔神の〕誠実性」としました。イエスを通じて、神が信頼できる誠実な存在であることがはっきり示された、ということです。

834. 結局、パウロは、何が言いたいのか。神の子イエスが十字架上で「宥めの供え物」(ローマ3:25)として死ぬことによって、すべての人が正しいものとされたのだ、と言いたいわけです。イエスは人間の罪を贖う犠牲となった。それがイエスの十字架上の死の意味であり、イエスの死は人間の罪の贖いとしての死なのだ、ということ。しかしまた、なんでそうなるのか。そもそも「キリスト・イエスにおける贖い」(ローマ3:24)とは何か。イエスは何の「供物」になったのか。

835. まず、訳語の漢字の問題から。「贖」は、音「ショク」、訓「あがな-う」、意味は、物と物を交換する、また、金品を出して罪をまぬかれる、など(『新字源』より)。「贖罪」は、今では、罪を償うこと一般を意味しますが、元来は、お金を払って罪を無しにすることだった。もとより、和語「あがなう」は、「購う」とも記すように、「買う、買い取る」という意味です。

836. 次に、ギリシア語の問題。こちらが、もちろん本質的な問題になります。訳文の「贖い」は、ギリシア語では「アポリュトローシス(apolytrōsis, ἀπολυτρώσις)」という語です。この語は、奴隷や戦争の捕虜を身代金を払って買い戻すことを意味する。田川建三は註で次のように言っています。

「パウロがこの語をキリストの死に関して用いているということは、その話の前提として、キリストの死は「身代金」だ、という思想があることになる。現に新約聖書の中でマルコ10・45=マタイ20・28にその意味で lytron 〔身代金〕の語が用いられている。人間は「罪」によって捕獲されている。「罪」という巨大な神話的力から釈放してもらうためには、「罪」に対して身代金を支払わないといけない。しかし人間にそれを払う能力はない。それで、神が神の子の生命を身代金として差し出し(十字架の死)、それによって人類を「罪」の支配下から救い出してくださったのだ、という思想」(田川訳註『新約聖書 4』p.144)

単純にいえば、イエスは、罪の手から人を解放させるための供物として、十字架上で死んだのだ、という考え方です。この場合、「巨大な神話的力」としての罪とは何なのか。

837. 罪を「巨大な神話的力」ととらえるのは、田川建三の独自の解釈によると思われます。田川の他の著作を見ると、大略、次のように説明されています。

838. 人間の罪という場合の「罪」とは、個々の人間が犯す行為のことではない。個々の罪の背景にあって、それを生み出している悪魔的な力を指している。これは、新約聖書の中では、パウロに最もはっきり出て来る考え方である。個々の人間の犯す行為を指すとしたら、「罪」は複数形にならないといけない。また、個々の行為を意味する単語は、具体的な事柄であるから、ギリシャ語では中性名詞になる。しかしパウロは、多くの場合「罪」を、単数形の女性名詞「ハマルティアー」(hamartia, ἁμαρτία)で記している。このとき、「罪、ハマルティアー」は、個々の人間を超えた、全人類を支配する超越的な悪の力を指す。(田川建三『キリスト教思想への招待』勁草書房、2004、p.195より)

839. 「キリスト・イエスにおける贖い」(ローマ3:24)という表現の背後にあるのは、神の子イエスの生命が、強大な罪の勢力の手に落ちた人類を解放するための代金だった、という理解の仕方です。神が、我が子の生命を差し出すことによって、罪に捕らえられた人類を買い戻してくれた。人々は罪の支配下にあったけれど、「その人々が義とされる。無料で、神の恵みによって、キリスト・イエスにおける贖いを通して(ローマ3:24)」 「無料で」というのは、人間の側はなにも支払う必要がない、ということ。ここは通常の邦訳では「無償で」と訳されます。意味は同じことで、人間の側は超越的な悪の力に何も差し出さなくてよいということです。そして、「神の恵みによって」というのは、要するに、神の愛によってということです。

840. 「恵み」と訳されているギリシア語の「カリス(charis, χάρις)」は、英語では“grace”です。日本語では「恩寵」と訳されることが多い。神学上、やっかいな概念です。今は神学に立ち入らず、同じイエスの死について「愛(アガペー)」という言葉でパウロが語っている箇所を示して、この「神の恵みによって」は「神の愛によって」と同じことであるのを確認しておきます。パウロは別の箇所でこう言っています。

「神は我々に対するご自身の愛を確定して下さった。我々がまだ罪人であった時に、キリストが我々のために死んで下さったのである。」(ローマ5:8)

一読、明らかと思いますが、イエスが罪人である我々のために死んだことを、神自身の我々に対する愛を確定する行ないだった、と言っています。「愛」はもちろん「アガペー(agapē, ἀγάπη)」という語で表現されています。

841. こうして、いったいどういう論理によって、罪ある状態から人間を救ったのがイエス(前4頃~30頃)の十字架上の死であり、その死こそが神の愛(アガペー)である(820)ということになるのか、明瞭になったと思います。神が、我が子イエスの命を身代金として支払って、罪の手から人類を買い戻した、という論理が根底にあるわけです。

842. なお、全知全能の神が、わざわざ我が子の命を悪の力に差し出さないといけない、というのは理屈に合わないと思う人も多いでしょう。田川建三もそう言っています。

「この種のことは理屈に合わない。神が神であるならば、絶対者である。絶対的な力であるならば、もしも神に対抗する勢力なんぞが出てきたとしても、いちいちそれに対して義理をたてて身代金なんぞを支払わずに、まるごとやっつけてしまえばすむ。」(田川『キリスト教思想への招待』上掲[838] pp.195-196)

843. しかし、イエスの死を、「贖い(アポリュトローシス)」であり、「身代金(リュトロン)」であるという新約聖書の記述を前提としながら、同時に、神に対抗する勢力への支払いとは考えないで解釈しようとすると、もっと訳のわからないことになります。

844. というのも、神が絶対者であるのなら、人間の側の犠牲(供え物)なんか必要なはずがなくて、罪を赦すというのなら、四の五の言わずに赦せばすむわけです。なのに、なぜ、イエスが死ななければならなかったのか。イエスが人間全体の身代わり(スケープゴート)であるというのなら、人身御供譚の一種として、話が通じます*。ところが、教義上、イエスは人であるだけでなく、神でもあるので、この場合、神自身がなぜわざわざ死んでみせなければ人の罪が赦されないのか、わけがわかりません。神は、やはり、自分が死んだりする手間なんぞかけずに、あっさり赦せばすむからです。結局、神の子イエスの死は必要ない(神があっさり赦せばよい)か、イエスは神でなく人間のスケープゴートにすぎない(人がイエスを差し出して神と取引する)か、どっちかになる。どちらもイエスに付き随った人々が採用できる考え方ではありません。

注*: 何か身代わりの動物を捧げて神々から見返り(例えば、罪の赦し)を得る、という通常の犠牲儀礼は、キリスト教の教義とは相容れません。絶対者を贈り物で操作するなんてことができるはずはないからです。だから、イエスの死を普通の人身御供譚として理解する道は、キリスト教の根本的な破壊に通じます。

845. これと比べると、「罪」という「巨大な神話的力」を仮設する田川の解釈は、イエスが死なねばならないこと(代金をその生命で支払った)、および、イエスが神であること(神が身銭を切った)、という両方の条件を満たす解釈です。もちろん、それでも神即絶対者という教義に照らせば理屈に合わないのは、田川自身が指摘する通りではある。しかし、神殿で牛や羊を犠牲に捧げることに親しんでいた古代人の宗教心理に照らせば、教義以前の思考様式として、それなりに筋が通っています。ここに見られるのは善悪二元論的な考え方であって、万物の創造者である唯一神への信仰とは違うものです。が、「超越的な力である「罪」の支配とでもいったものをまず前提として考えないと、「身代金」という概念は理解できない」(田川建三『キリスト教思想への招待』p.197)というのも確かなので、ここでは田川の考え方を採用したいと思います。

アガペーとエロース、ピリアーの違い

846. 神の愛としてのアガペーは、これまでに見てきたエロースやピリアーと、どのように違うのか。この点は、次回以降、アガペーの特徴をもう少しはっきりさせてから論ずる予定ですが、今の段階でも言えることはあります。

847. 神は罪人である人類のために、我が子イエスの生命を差し出した。その行ないが神の愛であるというのですから、「神は罪人を愛する」といって差支えない。罪を犯した者、悪を為した者を愛するというのは、キリスト教や仏教(浄土真宗)の立場としてなんとなく耳にしているので、そういうこともあるのかな、と納得してしまいますが、これはやはり理屈に合いません。

848. 悪いもの、ダメなもの、劣等なものを〝愛する〟というのは、一種の矛盾語法です。普通、これがあえて主張されるときは、歪んだ茶碗を賞玩するように、一見ダメで劣等なものでも、特殊な味わいがあるから、そこのところを〝愛する〟という意味になるほかない。しかし、今の場合、すべての人が罪を犯しているのだから、人はみな同じように歪んでいる。個別の歪みに特殊の風趣を感じるというような趣味的な話は的外れです。神は、罪人という悪くてダメで劣等な存在を、まったくそのまま、そこに特別の善さを認めたりしないで〝愛する〟のだ、と解するほかありません。

849. そんなことがどうしてあり得るのかという説明は、次回以降に譲りますが、この、罪人という悪くてダメで劣等な存在を、〝そのまま愛する〟という点だけでも、「アガペー」という言葉によって、エロースともピリアーともまったく違う態度が言い表されていることがわかります。エロースもピリアーも、とにかく何か取り柄のある対象を愛することだからです。

850. エロースは、自分に欠けている美しいもの、よきものを恋い求めるはたらきでした(2の17:684~690)。また、それゆえにエロースは、本来的に知への愛(なぜなら、知は最も美しいものであるから)であり、また不死を求める欲求(なぜなら、よきものを永遠に自分のものとして持ちたいと人は思うのだから)でした(同695, 698)。罪人は、いわば定義によって美しいものでもよきものでもないので、エロースとしての愛の対象となることはあり得ません。

851. ピリアーは、善いもの、快いもの、有用なもの、という三つの種類のものへの愛でした(2の18:737)。そして、優れた性格(徳)を備えた人同士が、双方とも、相手方が善き存在であるがゆえに相手を愛し、相手のために善きものを願う、という関係において成り立つのが真の意味でのピリアーでした(同772)。罪人は、徳ある人ではないので、真の意味でのピリアーにおいて*、愛の対象となることはあり得ません。

注*: 派生的な意味においてならば、受刑者を戦場に送って戦わせるなどという例で、勝利という快を得るために、罪人が有用なものとして愛される、ということが成り立つと言えます。でも、もちろん、これはアガペーとは何の関係もありません。

852. アガペーが、愛の心理学に付け加えたのは、美しいものや善いものを愛するのではなくて、悪くてダメで劣等なものを〝そのまま愛する〟ということです。それは、神が罪の手から人間を救い出したように、悪くてダメで劣等なものを対象としつつ、そのものにとって善いことが起こるように計らうこと、を意味すると考えられます。いったいこれがどういう広がりをもつ思想なのか、次回以降、ニーグレンの『アガペーとエロース』に沿って考えて行く予定です。

853. あと、もう一つ、大事な課題が残っています。私たち現代日本語人にとっては、西洋におけるこれらの愛の思想が、「物のあわれを知る」という日本語における愛の思想の一形式と、どのように結びついていて、どのように離れているのか。この問題も、次回以降、追々考えていくつもりです。

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