西洋近代と日本語人 その12

3.暴力について ――人類学風の考察―― (続き)

暴力とヒトの社会性(続き)

3.312. 現実の戦争は続いている。いまこの時、戦争についてあれこれ論ずるのは、身のほど知らずという感じがする。とはいえ、いま戦争について考えるのを止めてしまうのもおかしい。目を閉ざしても戦争はある。だから議論を続けることにします。

3.313. ここしばらく、〝人類は戦争することを通じて協力が必然となるように進化した〟というボウルズ&ギンタス(2017)*の主張への異論を紹介してきました(その9~その11)。更新世の激しい気候変動は、人類に戦争における協力をうながす以前に、まず食料採集における協力をうながしたと考えられる(その9)。また、人類の進化の過程で戦争が頻繁に起きていたという主張は、民族誌の報告からも(その10)、考古学の発掘報告からも(その11)裏付けられない。

注*: ボウルズ&ギンタス(2017)『協力する種 制度と心の共進化』竹澤正哲[監訳]、大槻久、高橋伸幸、稲葉美里、波多野礼佳[訳]、NTT出版。(原著、Bowles, S. and Gintis, H. (2011). A Cooperative Species: Human Reciprocity and Its Evolution. Princeton University Press.)

3.314. 今回は、そもそも現生人類は戦争に適応できていない、という異論を扱います*。ボウルズとギンタスの主張は、単純化すれば、人類の進化の過程では集団間紛争が頻繁に起きていて、協力して他集団の成員を殺害することに成功した集団が勝ち残って子孫を残すことになった、というものです(その5:3.76~77、同3.86~87)。それならば、現生人類は、協力する能力だけでなく、他集団の成員を殺害する無慈悲な能力も発達させていると想定されます。ところが、事実はそうではない。多くの人は、見知らぬ他人を殺すことなどできない。心理的に耐えられないのです。

注*: この異論は、これまでに「その3:3.42(キ)」、「その6:3.101」、「その9:3.205」などで触れてきました。

3.315. 人が一般に無慈悲かどうか問うのは意味をなさないでしょう。状況と文脈に大きく依存するからです。ここで指摘したいのは、多くの人にとって、多くの場合、他人と協力することは喜びをもたらすけれど、他人と協力して人殺しをすることは喜びをもたらさない、というだけのことです。人殺しは喜ばしい体験ではない。だから、私たちは戦争をするように生まれついてはいない。他集団の成員を殺すことに進化を通じて適応しているわけではないのです。

3.316. これとよく似た議論は、すでにしたことがあります。動物を殺すことは喜ばしい体験ではない、私たちは、狩猟をするように生れついてはいない(その2:3.12~3.23、その4:3.61~3.63)。チンパンジーは母ザルの目の前で子ザルを生きたまま引きちぎって食べる。人間にはそういうことはできない。この事実は、チンパンジーと人間における共感の質の違いによって説明されました。チンパンジーは限られた文脈でのみ他個体に共感する。だが、共感するときでも、かれらは感情移入はしていない。人間はずっと広い文脈で他の個体に共感する。そして、共感すると同時に、しばしば不可避的に感情移入する。その結果、私たちは殺される子ザルやその母ザルの心中を想像せざるを得ず、残酷な振る舞いは抑制される(その4:3.59~60)。これと同じ心理的な機制が人殺しについても成り立つと考えられます。

3.317. デーヴ・グロスマン(2004)*は、次のような印象的なデータを紹介しています。普通の兵士たちは、戦闘のさなかでも、敵に向かって発砲しない。そういう兵士の比率は、ときには8割を超える。

「第二次世界大戦中、米陸軍准将S・L・A・マーシャルは、いわゆる平均的な兵士たちに戦闘中の行動について質問した。その結果、まったく予想もしなかった意外な事実が判明した。敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶ兵士100人のうち、平均してわずか15人から20人しか「自分の武器を使っていなかった」のである。しかもその割合は、「戦闘が一日じゅう続こうが、二日三日と続こうが」つねに一定だった。
 …………第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか15から20パーセントしか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている。)ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらはやはり発砲しなかった。」(グロスマン2004, 42-43)

注*: デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』ちくま学芸文庫2004。(Grossman, Dave. (1995).  On Killing: The Psychological Cost of Learning to Kill in War and Society.  Boston: Little, Brown and Company.)

3.318. グロスマン(2004)は、この種の報告をたくさん引用しています。たとえば、兵士は、どうしても発砲が避けられないときには、しばしば相手に決してあたらないように発砲する。

 ある傭兵ジャーナリストは、ニカラグアで民間人を乗せた船を川岸で待ち伏せしていた。それはニカラグア民族解放戦線(サンディニスタ)との戦いで、女を殺したらサンディニスタをひとり殺すことになる、子供を殺してもサンディニスタをひとり殺すことになると聞かされていた。やがて船が到着し、射撃開始の命令がくだる。一斉にロケット弾、機関銃、自動小銃が火を噴き、凄まじい銃撃が行なわれた。

「だがどの弾丸も、船のはるか上をむだに飛び過ぎてゆくだけだった。」(グロスマン2004, 60)

兵士たちは事前に申し合わせたわけではなく、訓練不足だったわけでもない。ただ、みな女子供を殺したくなかった。だから故意に狙いを外して発砲して命令の裏をかいたのです。

3.319. あるいは、兵士は自分が発砲しているかのように演技することもある。南北戦争のとき、ゲティスバーグの戦いのあとで、2万7千挺余りの銃が戦場から回収された。このうち9割近い2万4千挺の銃は弾薬を装填済みだった。当時の銃は、先填め式で、弾薬を装填するには、銃口から火薬を流し込み、続いて弾丸を入れて深く押し込むという面倒な手順を必要とした。通常は、装填すればすぐに撃つ。ところが、装填済みの銃のうち1万2千挺は、複数の火薬と弾丸が装填してあり、なかでも6千挺は3発以上が装填されていた。

「先填め式の銃は、立った姿勢で弾丸を装填しなければならない。……〔南北戦争当時の密集隊形による射撃では〕一挙手一投足が、肩を並べて立つ戦友の目にさらされているのだ。それでもどうしても発砲できない、したくないとすれば、ごまかす手段はただひとつ、銃を装填し(弾薬包を破り、火薬を流し込み、弾丸を填め、深く押し込み、雷管をつけ、打金を起こす)、肩にかまえ、だが実際には発砲しないことだ。」(グロスマン2004, 72-73)

装填済みの銃が多数遺棄されていたのは、撃つのをためらった兵士が多かったことを示すでしょう。さらに、遺棄された銃の半数が複数の弾丸を装填した状態だったのは、発砲するふりだけして、次の弾丸を装填していた兵士がずいぶん多かったことを意味します。

3.320. 多くの兵士は、戦場に立っていながら、敵を殺すのをためらう。「問題は、なぜかということ」(グロスマン2004, 44)なのですが、グロスマンによれば、これは「ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する、という単純にして明白な事実」(同上)によって説明できる。抵抗感は相手が見えている近距離の場合に特に生じやすい。下の引用は、銃剣による白兵戦が戦場ではきわめてまれである理由が、近距離での殺害への忌避であることを述べた一節です。

「第一に、距離が小さくなるほど敵を殺すのはむずかしくなり、銃剣距離になると途方もなく難しくなる。そして第二に、手持ち式の刃物を同種たる人間の身体に突き刺すことには強い抵抗感があるので、〔致命傷になりにくい〕殴ったり切りつけたりするほうが好まれる。(グロスマン2004, 217)」

一方で、爆撃や艦砲射撃のような距離を隔てた攻撃では抵抗感は少なく、心的外傷もあまり生じないようです。(グロスマン2004, 179-237)

3.321. どんなことがあっても人を殺すことができないというわけではない。「適切な条件づけを行い、適切な環境を整えれば、ほとんど例外なくだれでも人が殺せるようになるし、また実際に殺す」(グロスマン2004, 44)ことが知られている。しかしまた、戦闘になればだれだって人を殺す、というありがちな考え方が誤りであることも、戦場における上のようなエピソードが告げています。

3.322. 兵士や警察官が必要に迫られて人を殺さねばならないとき、自分自身の内にある強烈な抵抗感が殺害を躊躇させる。その結果、本人が命を落とすこともある。それゆえ、国家が対外的と対内的の暴力行使を必要とするかぎり、暴力行使が可能になるような条件と環境を整えて、余儀なく人を殺す兵士や警察官が、深い心的外傷を負わないように配慮する必要がある。米軍退役中佐にして心理学者のグロスマンは、このような立場から、人を殺すという行為の心理的な側面を分析し、どういう場合に強い抵抗感が生じ、それを克服するためにどういう訓練が可能であり、さらに兵士の心的外傷を軽微にとどめるにはどのような措置や儀礼的手続きが必要なのかを論じています。

3.323. 興味深い観察を一つ二つ紹介します。殺人に対して抵抗感をもたない兵士が一定数存在することが知られている。戦闘中の兵士の2パーセントは、抵抗感をもっておらず、戦闘が長引いても精神的な損傷をこうむらない。こういう兵士を精神病質者(サイコパス)とか社会病質者(ソシオパス)と呼ぶのは当たらない。戦闘にあって平静でいられる能力(the capacity for the levelheaded participation in combat)をもっているという方が適切だろう。平静に戦うことができる人間は攻撃性を発揮しやすい。そういう兵士たちは、たとえば、子供のころに喧嘩ばかりしていたという共通性が観察されたりする。弱い者いじめ(bullies)でなく、正真正銘の喧嘩(fights)である。だが、そんな風に攻撃性が高くても、同時に感情移入(empathy)の能力を備えていれば反社会的人格障害(社会病質者)ではない。かれらは残りの98パーセントの人間からなる羊の群れの牧羊犬であって、羊を襲う狼、つまり攻撃性が高く感情移入の能力を欠いた病的人間ではない。(グロスマン2004, 293-301)

「かれら〔牧羊犬〕の多くはひそかに正義の戦いにあこがれている。自分の能力を正当かつ合法的に発揮する機会として、狼の出現を待ち望んでいるのだ。」(グロスマン2004, 299)

3.324. この描写はいろいろな疑問を呼び起こします。たとえば、狼と牧羊犬の間にそんなに明確な線が引けるのか、あるいは、感情移入の能力を持ちながら自分の攻撃で相手が致命的な損傷を被るのを気にしないでいられるものなのか、等々。しかし、この観察が興味深いものであることは間違いありません。

3.325. これを別の角度から見ると、長期間の過酷な戦闘を経験しても心的外傷後ストレス障害(PTSD)に罹患しない兵士が2パーセントいるということになる。そして、残る98パーセントの人間は、数十日に及ぶ過酷な戦闘を経験すると、確実に戦争の精神的な犠牲者となりPTSDを発症する(グロスマン2008*, 45~46)。結局、大多数の人間は、戦争には適応できていないわけです。

注*: デーヴ・グロスマン&ローレン・W・クリステンセン『「戦争」の心理学 人間における戦闘のメカニズム』安原和見訳、二見書房2008。

3.326. グロスマンによれば、強い抵抗感を打ち消して必要なときに必要な暴力をただちに行使できるようにする手順には、ある程度の定型がある。一つめは、脱感作(desensitization)という手法。これは、訓練プログラムとして明示的に意識されているものではないが、致死的な暴力行使に鈍感になり、抵抗を感じなくなるように仕向けることを意味する。典型的には、訓練の最中に敵を侮辱的な冗談のタネにし、人間以下の存在として扱うこと。「グック」「ジャップ」「コミー」などの蔑称を使うのはそのやり方のひとつ。こうして兵士は相手を自然に人間以下の生き物とみなすことが可能になり、抵抗感を覚えずに殺すことができるようになる。(グロスマン2004, 390-392)

3.327. 二つめは、一般的な条件づけの手法。一定の条件下であれこれ考えず兵士が反射的に引き金を引くように訓練する。戦場を忠実に再現した環境で、人間に酷似した標的が急に出現し、即座にそれを撃つ。命中すると標的はばったり倒れる。射撃に成功すればそれに見合った報酬(賞賛、公式の顕彰、外出許可など)が与えられる。これを繰り返すことで、射撃練習場で丸い標的を撃つのとはまったく違う効果が得られる。すなわち、反射的かつ瞬間的に、人間の形をした対象を撃つ能力が高まる。(グロスマン2004, 392-396)

3.328. 三つめは否認防衛機制の拡張。これは条件づけ訓練の副産物として生じる。実戦に酷似した環境で標的射撃を繰り返すと、現実に人間を撃ったとき、自分は結局のところ標的を撃つのと同じことをしただけだと思い込むことが可能になる。「兵士は殺人のプロセスをなんどもくりかえし練習している。そのため、戦闘で人を殺しても、自分が実際に人を殺しているという事実をある程度否認できるのだ。」(グロスマン2004, 397)

3.329. しかし、敵を人間以下の存在と見なし、姿を見たら反射的に撃ち殺して、これは標的を撃つのと同じことだと自分に言い聞かせるのは、問題の先送りに過ぎません。殺人への抵抗感を条件づけと反射行動で乗り越えても、人殺しにまつわる罪責感を逃れられるわけではない。

「兵士は殺すように条件づけることができるし、また条件づけられてきた。かれらはこれを熱心に進んで受け入れ、社会の判断を信頼した。それなのに、その行為の倫理的・社会的な重荷に対処する能力は与えられなかった。」(グロスマン2004, 448)

精神に外傷を負った帰還兵の問題は、特にヴェトナム戦争後の合衆国で大きな問題となりました。この問題の解決の困難さは、戦場で人を殺すという行動類型が、多くの人間にとっていかに耐えがたいものであるかを示しています。

3.330. 大多数の人間は、戦場で敵と対面してもなかなか相手を殺す気にはならないし、反射的に殺傷できるように条件づけしても、その後の人生に大きな問題が生じる。さらに、手に持った刃物で至近距離から相手を殺すことには特に強い抵抗感がある。そして、戦闘における殺人に心理的に耐えられるのは全兵士の2パーセントに過ぎない。これらの事実は、戦争に勝ち残ることを通じて人類は協力的で利他的な特性を獲得した、というボウルズとギンタスの主張をかなり疑わしいものにします。人類は、他の類人猿に比べて協力する能力を大きく発達させたけれど、同種の他の個体を殺す能力はそこまで発達していないのです。*

注*: ゴメス他(2016)によると、先史時代のヒトにおける暴力による死者の割合は、全死者の約2%と推定される。これは霊長類の系統全体に関する推定値とほぼ一致する。つまり、ヒトは他の霊長類と同程度の暴力性を備えている。ところが、近代以前までの歴史時代については、時代と統治体制によって異なるが、その割合は一般に2%を大きく上回り、10%を超えることもまれではない。近代には、この比率は大きく低下して5%を下回り、現代では1~2%程度になる。つまり、歴史的記録の残っている時代に関していえば、ヒトはかなり最近になるまで、進化的に予測される以上に暴力性を発揮してきたことになる。これは農耕開始以後の文化的な要因によると推定できる。(Gómez, J. M., Verdú, M., González-Megías, A., & Méndez, M. (2016).  The Phylogenetic roots of human lethal violence.  Nature, Vol. 538, pp.233-237.)

3.331. 「その9」以来の議論をすべて合わせると、ボウルズ&ギンタス(2017)に対して、次のような反論が構成されます。協力は戦争以外の要因でも促されるし(その9)、そもそも人類の進化過程で戦争が強い淘汰圧になっていた事実はなく(その10、その11)、したがってまた、人類は戦争をするように進化したわけでもない(本稿)。では、このようにボウルズとギンタスの主張に反論しなければならなくなったのはなぜだったのか、これまでの論点を簡潔に振り返っておきます。

3.332. 私が当初持っていた考えは、「「ヒトの小規模戦争(小集団抗争)は、チンパンジーと同様の心理的特性によって生じている可能性がある」(その3、3:42(エ))けれども、そうはいっても「ヒトは大規模戦争に適応するように進化してきたわけではないようだ」(同上(キ))」というものでした(その5:3.72)。このうち、後者の大規模戦争への適応についての考え方を擁護するために、私とは反対の主張を含意するボウルズとギンタスの理論を取り上げて反論したわけです。大規模戦争への進化的適応はないようだという点では、私の考えは改める必要がなさそうです。

3.333. ただし、ボウルズとギンタスへの反論を検討するなかで、むしろヒトの小集団抗争について、私の考えは少し変化しました。考古学の知見や非定住型採食民の民族誌を参照すると、現生人類はチンパンジー的なよそ者ぎらいの感情に突き動かされて小集団抗争をする、という当初の見込みは、下の二つの理由で正しくないようだ。この機会に、訂正しておきます。

3.334. 第一に、非定住型の採食民の社会には、集団の活動領域の境界を管理する手続きや、集団間の対立解消の仕組みがある(その10:3.258(7)、(9))。他集団の成員が単独または少数でいると即座に攻撃する、といったチンパンジー的な暴力がしばしば行使されるわけではない。

3.335. 第二に、現生人類の場合、自分たちとよそ者を区別する基準になっているのは言語や宗教や生活習慣といった文化体系であり、自分が何者であるか(アイデンティティ)も文化集団への帰属によって定義される。したがって、よそ者ぎらいの感情が発揮される場合、自他を分ける単位になるのは、部族や民族、国家といった大きな文化集団であり、一家族から数家族の小集団(band)の水準ではないだろう。(その9:3.228~230)

3.336. 元来、暴力をめぐる私の関心は、人間の集団的な暴力行使を可能にする仕組みはどのようなものか、ということにありました(その6:3.96)。狩猟の場合、動物殺しを疚しく感じる気持ちを打ち消して、獲物の殺害を可能にするのは、神々と動物と人間をめぐるさまざまな物語や宗教的儀式でした(その2:3.10~3.22、その4:3.61~3.63)。これらの神話や儀式は、人間としてのあるべき行動を指図するはたらきを持っている。神々の指図に沿って行動することで、人は殺害の罪責を免れ、動物への感情移入を一時的に停止し、動物を殺すという暴力が可能になる(その6:3.96)。

3.337. 戦争はどうなのか、というのが次なる問題となります。私の予想は、戦争についても同じような心理的・文化的な機構を想定してよいのではないか、というものでした(その3:3.42(キ)(ク))。

3.338. ところが、ボウルズとギンタスは、100万年以上前からの人類の進化過程に戦争を組み込んでいます。すなわち、複数レベル淘汰の機構が一定の条件で作動するとき、ホモ属において、戦争を通じて利他性が進化する状況が生れ、現在のような人類社会が形成された。言いかえれば、戦争を可能にする仕組みは複数レベル淘汰という自然過程である。かれらはこう主張したことになる。言語や文化は、この進化の自然過程に現生人類とともにたった十数万年前に登場するにすぎない。したがって、神話や宗教は戦争と本質的には関係がないわけです。

3.339. これは、私としてはいささかのみ込みがたい(その6:3.98)。そういう次第でここまでボウルズとギンタスの主張を吟味してきました。最終的には、上で確認したように、協力の進化は戦争以外の要因を考えることができ、戦争が人類進化の過程で主要な淘汰圧であったという事実は確認できず、人類は戦争に適応していない、という結論になりました。

3.340. これまでに見たさまざまな知見を総合すると、人類社会に集団間の致死的紛争、つまり戦争が出現するのは、今を遡る1万数千年前、人々が定住し始め、狩猟採集から徐々に農耕に移行してゆく頃のことではないかと思われます。(その11:3.292~3.307)

3.341. 言語や文化の伝承によっていわゆる部族組織が形成され、見知らぬ他人と協力して行動する可能性が出て来る。自集団と他集団の識別が重要になり、遺伝情報によってではなく、文化情報によって、相互に隔離された集団が形成される。これらの集団が競争するとき、競争の一形態として集団的暴力行使、つまり戦争が生み出される。戦争を含むさまざまな競争に勝ち残る文化的特性――遺伝的特性ではない――を持つ集団が生き残り、繁栄するようになる。(その9:3.226~3.230)

3.342. このように整理してみると、ボウルズとギンタスの複数レベル淘汰の理論は、遺伝情報(遺伝子gene)にもとづく群淘汰ではなく、文化情報(ミームmeme)にもとづく群淘汰の理論として、そのまま生かせることがわかります。現状では、複数レベル淘汰の数学的定式化はそのまま受け入れて、それを文化的群淘汰の理論として解釈するのが、かれらの議論をもっともよく生かす道だと考えられます。

3.343. このブログは、「現代の日本社会は、近代という体制の大事な部分で失敗している」(その1:2.22)という直観から始まりました。日本社会の失敗は「憲法第九条と自衛隊のあいだの矛盾」(その2:3.2)として現れている。日本語人は、「近代国家の本質の一部をなす対外的な暴力の能力について、居心地のわるい自己矛盾」(その2:3.6)の状態にある。この自己矛盾の原因は、憲法条文と自衛隊という表層にはない。だから憲法を改正してつじつまを合わせても、矛盾は解消できない。ほんとうの原因は、「現代日本語人が、個人としての生き死にを、共同体の命運に結びつけることができないという思想的な問題」(その2:3.7)にある。

3.344. ここであわてて付け加えておくと、個人としての生き死にと共同体の命運を、単純明快に結びつける道はおそらく存在しない。「生きている身体としての自分(〝私〟)と共同体の成員としての自分(〝我々〟)のあいだに不一致がある」(番外編:19)ことは、人間性の根源的な条件のひとつです。人間は、群れを形成しなければ生きていけない社会性の動物です。そして、その人間社会は、「みずからは死にたくないのにみずからを死なせる力」(番外編:17)としての権力を、個体に対して形成する。

3.345. 「みずからは死にたくないのにみずからを死なせる力」とどのようにかかわるかは、単純明快な解決を許さない人間性の根源的な問題として存在しています。この問題に答える試みとして、さまざまな神話が語られ、いろいろな宗教が信じられてきました。近代国家は、個人の自由と民主制を組み合わせて権力を組み立てる。このやり方は、根源にある問題に対する一つの解答だった。しかし、私の見るところ、現代の日本語人は「近代国家の暴力性と自分自身の関係をうまく把握できない」(その2:3.1)という状態にある。

3.346 というわけで、次回以降、いったいこれがどういう状態なのかを考えていくことにします。「その2:3.8」ですでに触れましたが、美術家、村上隆の展覧会図録『スーパーフラット』(2000)と『リトルボーイ』(2005)、および、村上春樹の『海辺のカフカ』(2002)、そして、漫才師の松本人志の監督した映画『大日本人』(2006)という4つの作品は、すべて、

「私たち現代日本人は自信をもって〝正しい暴力〟を振るうことができない」

というメッセージを発していると直感されます。このことは21世紀初頭の日本社会と日本語人のひとつの傾向を表現しているに違いない。これらの作品の分析を通じて、近代国家の暴力性と自分自身の関係をうまく把握できないとはどういうことなのか、考えてみます。

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