見出し画像

西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の33]


5.近代(modern)と脱近代(postmodern)

5.2 観念説(続き)

はじめに

1316.  前回(番外編2の32、2024年3月9日公開)は、デカルト『省察』の神の第一の存在証明の前半部分を紹介しました。考える私の心の内にある観念を分析し、それぞれの観念が何かを表しているという表現的な性質に着目して、表現的実在性(objective reality)という概念を導入する。これが主題でした。デカルトは、このあと、因果性の概念にもとづいて神の存在を証明する。次の話題は因果性ですよという予告をして、1回休みました。

1317.  草稿は一応出来ていたのに1回休んだのは、議論の運びがどこかうまく行ってない感じがしたからです。私が目星をつけていた論点(1324参照)と、デカルトの議論の中心が、微妙にずれている感じがした。解釈上大きなまちがいがあるとも思われないが(いや、あるかもしれないけれど)、どこかしっくりこなかった。あれこれ考えあわせてみて、今は、どの辺にずれがあったのかほぼ分かってきました。この点を確認しておきます。

神の存在と論理

1318.  話は、宗教改革におけるプロテスタントの信仰に遡ります。ルターやカルヴァンの主張には特有の弱点がありました。彼らの主張をあからさまに言うと、こうなる。「信仰の信頼性の裏付けはそれが神に基づくことであり、神に基づくことの裏付けは信仰である」(番外編2の31:1252) つまり、私の信仰は神に基づくから正しく、私が神に基づくのは私がそう信ずるからである。

1319.  これは循環ないし同語反復です。自分が神に基づいて正しいということを証し立てるものが、自分は神に基づいて正しいという自分の信念だけになっている。これでは人の数だけ正しさがあることになって、行き着くところは懐疑論、つまり人間は絶対確実な真理には到達できないという結論にしかならない。カトリック教会はプロテスタントの信仰をまさにそのように批判しました(番外編2の31:1253)。

1320.  自分の信念の正しさを証し立てるためには、自分のもとに神を呼び出すだけでは不十分なのです。それだけでなく、神を〝理にかなった仕方で〟呼び出さないといけない。自分の信念の裏付けとして神があることを、他人にもわかる仕方で明らかにする必要がある。「理にかなった仕方で」と「他人にもわかる仕方で」は同じことで、要するに、「論理的に」ということです。だから、デカルトは、自分が新たな真理の追求方法(近代科学)を見いだしたこと、いいかえれば自分がまったく新たな意味で正しいということを、自分の心の中の観念を分析し、そこから論理的に神の存在を証明することで証し立てようとした。

1321.  その手順は次のようなものです。何かを表すという観念の特性にもとづいて、表現的実在性――何かを表すはたらきによって観念に帰される実在性――という概念を導入する。次いで、神の観念はきわめて大きな表現的実在性を備えていることを見いだす。さらに原因と結果の論理にもとづくと、考える私は、そんな大きな表現的実在性を備えた観念の原因ではありえない。よって私が心の中にもっている神の観念の原因は、心の外なる神そのものである。すなわち、神は存在する。このように論証して行きます。

1322.  この〝原因と結果の論理〟はかなり不思議なシロモノです。原因は結果に実在性を与える、いいかえると原因が結果を産みおとすという考え方が背後にある。そして、原因の実在性は、結果の実在性と同等か、それより大でなくてはならない、つまり、より小さなものがより大きなものを産むことはない。こんな考え方が頭ごなしに自明とされる。ここから、大きな表現的実在性を備えた神の観念が、この小さな私から生まれることはない、という話になる。こういうかなり怪しげな議論を指して、前回、デカルトの神の存在証明は「屁理屈じゃないか」と言ったわけです(番外編2の32:1313)。

1323.  屁理屈めいた奇妙な論理ではあるけれど、上の〝原因と結果の論理〟は、それなりに由緒正しいものです。これは直接にはスコラ哲学に由来しますが、元をたどればプラトン(新プラトン派)とアリストテレスに行き着く。

1324.  以上のように、デカルトの神の存在証明は、近代哲学の基盤となる観念説に古代中世の因果論を貼り付けてこしらえた元々無理な論証なのだ。だが、そんな無理な手段を使ってでも、神を〝論理的に〟要請することが、懐疑論から脱して近代科学と近代社会を基礎づけるためにはぜひとも必要だった。私が目星をつけていた論点はこういうものでした。

1325.  今も大筋ではこの方向に変わりはありません。しかし、付け加えないといけないことがひとつある。古代中世の哲学がデカルトの神の存在証明に影響を及ぼしているのは、因果性の論理だけではなかった。私の論述とデカルトの議論の勘どころが微妙にずれる感じがしたのはその所為だった。私が思っていたよりも、スコラ哲学はデカルトの観念説に深く浸透していた。

観念説と実体‐属性論

1326.  前回にも触れましたが(番外編2の32:1309)、デカルトは、表現的実在性を導入するとき、実体と属性という概念を使います。巧妙な手法なのですが、以下で述べるように(1375~1381)、この概念を使わないと、表現的実在性なる概念を、理にかなった仕方で導入することはできない。表現的実在性という概念が成り立つと主張するためは、実体と属性というアリストテレスに由来するスコラ哲学的な概念がぜひとも必要なのです。

1327.  西洋近代の哲学的考察は、基本的に、アリストテレスへの注釈と質疑応答を学問の正統とするスコラ哲学の立場に叛旗をひるがえし、そこから身をもぎ離すようにして遂行されました。デカルトも例外ではありません。観念が何かを表すというはたらき* への着目は、西洋近代の哲学を特徴づけるものです。人は、自分の心の中の観念から出発して、それが表現する実在の世界に到達できるはずだ。この、知識の個人主義の着想が、西洋近代の哲学者を衝き動かしています。

注*: このはたらきを一般的に言えば、個人の心は世界を映し出す、ということです。映し出された個々の映像(心的表象 metal representations)のうち、世界を正確に映し出すのはどれなのかを論ずるのが認識論(epistemology)と呼ばれる分野です。

1328.  観念の表現的実在性という概念は、個人の心を実在の世界と結びつけるかなめの位置を占めています。表現的実在性は、ある観念の表す対象によってその観念に宿る実在性をいう。荒っぽくいえば、この実在性が多いか少ないかを通じて、対象の実在性が推定できる。人は、心の中の観念の表現的実在性を足がかりにして、神に到達でき、神の下で世界を知ることができる。自分の観念を正確にとらえ、神を論理的に認識すること以外に、何か地上の学問的権威に支えてもらう必要はない。だから観念の表現的実在性という概念は、知識の個人主義を成立させるために重要な位置を占めるのです。

1329.  それなのに、デカルトは、観念の表現的実在性を足がかりに神の存在証明を試みるとき、本来は観念説とかかわりないはずの実体と属性というアリストテレス-スコラ的な存在論の枠組み(論理)に依存せざるを得なかった。観念が何かを表すという大事なところで、アリストテレス-スコラ的な存在論に助けてもらわないといけない。この事実は、微妙な違和感というか、居心地の悪さを感じさせる事実です。

1330.  ただし、デカルトはスコラ哲学一般を酷評しましたが、実体と属性という言葉遣いは排除しません。私とは考えるものであり、そのもの(実体)の本質的属性は考えるということである、というように述べている。だから、表現的実在性を説明するための例として使用したからといって、デカルトが自分の思考の中に異物を取り込んだということにはならない。微妙に居心地が悪いのは、この実体と属性の枠組みが、他のものでは代替できない唯一無二の役割を果たしているからです。

表現的実在性と神の存在証明

1331.  神の存在証明とは、デカルトの場合、神が人間の意識内容と外界とを結びつける仕掛けとして働くように、神の存在を確立する議論です。私秘的な意識内容としての観念から、外なる実在の世界に人が到達するためには、意識内容と外界とを結びつける仕掛けが要ります。

1332.  なぜそんな仕掛けがいるのか。観念は何かを表しているのだから、記号の一種と見なせます。記号は意味するものです。記号に対応して、意味されるもの(指示対象)がある。記号をじっと見つめていても、それが何を意味しているかわかるはずはない。赤信号を見て人が立ち止まるのは、「赤信号は止まれを意味する」という意味論の規則があるからです。記号と指示対象を対応させる規則の体系が意味論と呼ばれる。神は観念と外界を結びつける意味論の役割を果たします。

1333.  神の働きは、デカルトの場合、単純化すると次のようなものです。神は万物を創造し、また宇宙に関する数学的真理(物理法則)を創造した。神はまた、人間の心に数学の諸観念を生得観念として植え付けた。神は善なる存在であり、我々を欺かない。ゆえに、人間の認識する数学の諸観念は、神の創造したこの宇宙の数学的真理(物理法則)を正確に表している。つまり、数学の諸観念は物理法則を意味する。かくして人間はこの宇宙の真理を知ることができる。

1334.  この論法で、人間は、数学的自然科学において観念から実在に到達できると主張できるようになる。ただし、この論法が使えるのは、もちろん、神の存在が証明された〝後〟のことです。神の存在証明の〝前〟および〝遂行中〟には、この論法は使えない。なぜなら、神はまだ確立されていないからです。

1335.  すでに見たように(1321)、神の存在証明それ自体が、意識内容から外なる実在へ到達するという形式になっています。上述の通り、この形式では、「意識内容と外なる実在とを結びつける仕掛け」(1331)が必要になる。だが、神の存在証明を行なっている真っ最中に、この仕掛けとして神を利用することはできない。それゆえ、意識内容を外的世界と結びつけるための仕掛けであるところの神を見いだすために、先立って、意識内容を外的世界に結びつけるための別の仕掛けが必要になる。足場を作るための足場が必要になる。意味論のための意味論が要るのです。

1336.  この厄介な状況を打開する〝仕掛け〟として利用されているのが、ひとつには〝原因と結果の論理〟であり、もうひとつには〝実体と属性という存在論的枠組み〟なのです。どちらもアリストテレス-スコラ的な論理的枠組みです。

1337.  西洋近代を特徴づける「人は自分の心の中の観念から出発して、それが表現する実在の世界に到達できるはずだ」(1327)という知識の個人主義の発想は、観念と世界の媒介者として神を呼び求めるとき、どうしても古代中世以来のアリストテレス-スコラ的な論理の力を借りなくてはならなかった。

1338.  デカルトの神の存在証明がスコラ哲学の遺産に大きく依存していることは周知のことなのですが、因果の論理だけではなくて、観念の表現的実在性という観念説の最も本質的な特徴に関して、その導入のためにスコラ哲学の論理が不可欠の役割を果たしている。この点の理解を欠いていたことが、デカルトの論点と自分の解説がどこかずれていて、何か大事なことを見逃している感じを私のなかで生んだのでした。

1339.  以下では、実体と属性のスコラ的論理が、観念の表現的実在性の導入のために唯一無二にして不可欠の役割を果たしている、ということを明らかにしていきます。

表現的実在性再説

1340.  表現的実在性についての補足から始めます。“objective reality”を「表現的実在性」と訳すのは異例なことです。“objective”は、普通「客観的な、対象の、目的の」などと訳される。「表現的」はこの文脈限定の特殊な訳語です。なぜこうなるのか。まずこの点を簡単に説明します。

1341.  “object” は、元来、ラテン語の“ob”「~の方へ、~へ向かって」という接頭辞と、“jacio” 「投げる」という動詞が合体してできた “obicio”「前へ投げる」という動詞の完了受動分詞 “objectus, -a, -um” から派生した名詞です*。だから、おおまかにいえば、名詞 “object” は「前方へ投げられたもの」の意味。形容詞“objective”は、「前方へ投げられたものに関する」という意味。

注*: 中畑正志『魂の変容 心的基礎概念の歴史的考察』岩波書店2011、p.44。

1342.  すると “objective” は、「前方へ投げられたものに関する」の「前方へ投げる」ことを軽くみて、「もの」を重視すれば、「ものに関する」つまり「客観的な、対象の、目的の」という意味になる。これに対し、「もの」を軽くみて、「前方に投げられた……に関する」を重視すれば、投げられてものへと向かっていく過程にかかわることになる*。

注*: この説明は、語形から類推した簡略なものです。思想史を踏まえた本格的な検討を知りたい方は、前掲の中畑 2011の長大な考証を見てください。

1343.  “objective” が、観念がものへと向かっていく過程にかかわるというのなら、その過程とは「観念が ~ を表す、指し示す」はたらきだと解することができます。そういうわけで、“objective reality” は、「観念がものを表すはたらきにかかわりのある実在性」ということで、「表現的実在性」と訳したと考えられます*。

注*: John CottinghamのA Descartes Dictionary. Blackwell, 1993. の「objective reality」の説明によれば、“objective” のこのような使い方は、デカルトと同時代のスコラ学者に見られるとのことです。この当時は普通の使い方だったのです。

1344.  分かりにくい概念なので、中味も確認しておきます。表現的実在性とは、〝ある観念が表している対象によってその観念に帰される実在性〟ということだった(番外編2の32:1305)。上の語釈を生かして言えば、〝ものを表す観念のはたらきによって《観念に》生じる実在性〟ということ。

1345.  《観念に》と強調したのは、ここがのみ込みにくいからです。普通、実在性(reality)は、観念ではなく、対象の方にある。例えば、イヌを表す観念でいえば、イヌの観念は心の中の像つまり実在の写しにすぎず、実在性はイヌそれ自体に宿る。これが普通の考え方です。それなのに、デカルトは、観念の表現的実在性とは、対象の実在性ではなく、対象を表すがゆえに《観念に》生じる実在性であるとする。どういうことなのか。

1346.  「実在性」は、この場合、「現実感、現実味」とでも言い換えた方が分かりやすい。前回(番外編2の32:1306)、説明のために私が作った例ですが、現実の動物であるイヌの観念と、架空の怪物であるキマイラの観念を比べると、イヌの観念の方がキマイラの観念より表現的実在性が大きい。なぜなら、現実の動物によってその観念に生じる現実感と、架空の怪物によってその観念に生じる現実感では、前者の方が大きいと考えられるからです。

1347.  イヌの観念の方がキマイラの観念より現実感が大きいと言えるのは、架空と現実の対比によって、キマイラとイヌの実在性に対象の側で差をつけてあるからです。これは明らかでしょう。対象としての実在性の大小が、観念の現実感に影響を及ぼしている。対象の側の実在性が大きい観念には、大きい表現的実在性が宿る。そういうことになる。

1348.  とはいえ、現実の動物を表すがゆえに《観念に》大きな現実感が生ずるなんてことがあるだろうか。現実感というか、現実味というか、在るという感じを私たちが抱くのは、現実のイヌに対してであって、イヌの表象に対してではない。こう言いたくなります。

1349.  この疑問を打ち消すためには、現代日本語の片仮名語「リアリティ」の用例が役に立ちます。たとえば、小説を読んでいて、いかにも現実に起こりそうな出来事の描写を見つけたとする。そういう描写を「リアリティがある」と言うでしょう。この場合、リアリティが宿るのは文章の方であって、描かれた出来事の方ではない。ものごとを表す媒体(観念、言語、絵画、等々)の方に、それが表すものがいかにも在りそうだという感じが宿ることは確かにあるようです。

1350.  「表現的実在性」という言葉で、デカルトがこの感じを言っていると見なせば、少しのみ込みやすくなります*。というわけで、ある対象を表すことによって《観念に》それなりの現実感が、つまり相応の表現的実在性が生じる、という考えを受け入れることにしましょう。

注*: これは、片仮名語の「リアリティ」に頼った便法です。デカルト本人が、本当のところ、どういう「感じ」を言おうとしていたのかは、当時のラテン語やフランス語の用例を広く調べないと確たることは言えない。ただし、現代日本語からの類推とまったく違ったことを言っているわけではないと私は思います。

神の観念の表現的実在性

1351.  デカルトの第一の神の存在証明は、要点をざっくりいえば、私が抱いている神の観念は表現的実在性が極めて大きいので、神の観念の原因となるような神そのものが、私の心の外に現実に存在しなければならない、というものです。まず、神の観念の表現的実在性が大きいという点について、こうある。

 「それによって私が神を理解するところの観念、すなわち、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外のいっさいのものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実体を表示するところの観念よりも、明らかにいっそう多くの表現的実在性をそれ自身のうちに含んでいる」(『省察』「省察三」p.260*)

 「永遠」「無限」「全知」「全能」「いっさいのものの創造者」というのは、伝統的なキリスト教の神の特徴です。特徴のうち、ちょっと分かりにくいのは、「無限」かもしれない。

注*: 野田又夫(編)『世界の名著 デカルト』中央公論社1967所収の『省察』のページ付け。以下同じ。

1352.  まず、「有限な(finite)実体」というのは、ひとりの人間とか、一匹のイヌとか、一個の石とか、ひとつ二つと数えることができる個々のもののことです。これに対し、神は無限な(infinite)実体であるとされます。どういうことか。

1353.  神は疑ったり、欲求をもったりしない。というのも、それ自身で完全であって欠けるところないからです。神は、私たちが考え得るあらゆる完全性をすべて備えている。そればかりでなく、私たちの考えがとうてい及ばず、したがってまったく限定できないような仕方でも、神はやはり完全無欠である。神が無限であるとは、このように、あらゆる限定を超えて完全無欠な存在であるということです。

1354.  デカルトは、当時の常識的な神の観念を提示している。そして、その無限の実体の観念は、そこらへんの人間やイヌといった有限な実体の観念よりも、はるかに多くの表現的実在性を含んでいるとしている。それなら、ここからただちに、神の存在を結論することができそうに思われます。ところがそれはできません。なぜか。

1355.  できそうに思われるのは、表現的実在性が、観念の表す対象によって観念に帰される実在性、というものだったからです。仮に存在証明をやってみると、こんな風になるでしょう。イヌとキマイラの例からわかるように、架空のキマイラの観念と実在のイヌの観念では、イヌの観念の方が表現的実在性は大きくなる。神の観念は、人間やイヌなどの有限な実体の観念よりも、さらに大きな表現的実在性を含むとされている。それなら、神の観念は、まさに神が無限な実体として実在することによって、それだけ大きな表現的実在性を獲得しているはずである。ゆえに、神は存在する。証明終り。これでよさそうに思われます。

1356.  この議論は成り立たない。なぜ成り立たないのかというと、キマイラとイヌの観念を、それぞれの表現的実在性の順に並べて、イヌの観念の表現的実在性がキマイラの観念のそれよりも大きいのはイヌが実在するゆえである、と論ずることが、現段階では許されないからです。イヌとキマイラの例は、私が勝手に作った例でした。表現的実在性の説明としてはこれでいいと思いますが、デカルトの議論の順序からいって、存在証明の中でこういう例を用いることはできない。

1357.  なぜなら、デカルトは、外的事物の存在を疑って否定し、その疑いを通じて考える私を見いだして、この状態で、神の存在証明にとりかかっているからです。つまり、議論の順序として、まだ外的対象を導入することは許されない。イヌの観念の表現的実在性がキマイラの観念より大きいのは、イヌが現実に存在するからだ、という議論をしてはいけない。こういう段階にいるのです。

1358.  すると、デカルトはそもそも観念の表現的実在性という概念をどうやって導入したのか、不思議に思われます。というのも、対象の側の実在性が大きいと、観念の側の表現的実在性も大きくなるという話をしたい。だが、考える私以外の存在を導入してはいけないのだったら、存在する対象はひとつしかないのだから、そもそも対象の側の実在性が大きいとか小さいという話ができるはずがない。それならば、観念の表現的実在性が大きい小さいという話はできなくなる。そうなると、表現的実在性という概念を導入する意味がないことになる。

1359.  デカルトは、ここはうまくやります。ここで利用されるのが、実体と属性というスコラ哲学の論理的な枠組みなのです。デカルトの神の存在証明は、観念という新しい仕掛けを用いた新機軸なのですが、肝心かなめのところでスコラ哲学に依存する。そのことを確認します。

デカルトによる表現的実在性の導入――実体と属性

1360.  表現的実在性を導入する際、デカルトはこう言います。観念は、それぞれ心のあり方としてだけ見ればその実在性に違いはない。すべてある人が心の内で考えているという心的な事実、つまりひとつの意識様態である。ところが、ある観念はあるものを表現していて、別の観念は別のものを表現している。この点に着目すると、それぞれの観念は非常に異なっている。この非常に異なるところの実在性が、その観念の表現的実在性なのだ。(デカルト『省察』「省察三」p.260)

1361.  デカルト自身が説明のために持ち出すのは、キマイラやイヌなどではなくて、由緒正しい哲学的概念の例です。前回にも挙げましたが、次のとおり。

 「実際、疑いを容れないことだが、私に実体を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性を表現する観念よりも、一層大きなあるものであり、いわば、より多くの表現的実在性をそれ自身のうちに含んでいる」(「省察三」p.260)

1362.  「実体(substance)」とは、すでに述べたとおり(1352)、存在する個々のもののこと。一個の石とか、一頭のウマといったもの。ただし、〝もの〟といっても人間や神まで含むきわめて広い意味です。ものには、さまざまな性質(属性)がある。いろんな属性をたばねて保有している一個のものが実体です。属性の持ち主という特徴を強調する場合は、特に「主語的実体」と言ったりもします。

1363.  「偶有性(accident)」は、実体が保有するさまざまな属性のことです。偶々たまたま有している属性なので、“accident”を偶有性と訳すわけです。「様態(mode)」とは、ある実体の任意のあり方、つまりある偶有性を備えているありさまを言います。なお、ある実体が必ず有しているのが「本質」(essence)です。デカルト哲学では、精神としての私はひとつの実体であり、その本質は〝考える〟ことです。言い換えれば、考えない精神というものはありえない。そして「今日の晩御飯は何を作ろうかな」と考えているならば、〝晩御飯について考えている〟ことが「偶有性」になります。考える私という実体が、たまたまそのようなありさま(様態)を取っている、ということ。以下では「偶有性」という特殊な単語を使うのは避けて、「属性」といいます。

1364.  上の引用では、実体の観念と属性の観念の表現的実在性が比較され、実体の観念の方が、属性の観念よりも多くの表現的実在性を含むと断定されています。この断定の背景には、実体と属性の論理的な依存関係がある。すなわち、属性は持ち主が存在しなければ存在できない。この意味で、属性は実体に依存する。この依存関係が、表現的実在性の比較に反映されている。

1365.  なお、実体とは一個の石とか一頭のウマなのだから、そんなものをここで導入していいのか、と疑問に思う人もいるでしょう。イヌをこの段階で導入するのが禁じ手であるなら、イヌその他の個々のものすべてを表しうる実体とやらを導入するのは、よりいっそう禁じられるのではないか。

1366.  この疑問に対しては、考える私とは実体の一例である、と答えることができます。たしかに、まだイヌその他の外的対象一般の存在は確立されていない。だが、考える私の存在は疑いない。だから、少なくともひとつの実体は、その存在が確立されている。したがって、この段階で実体について語ったとしても、存在が確立されていないものを導入しているという批判は当たらない。こう主張できるわけです。

1367.  さて、属性は実体に依存している。それゆえ、実体の観念の方が、属性の観念より表現的実在性が多いとされます。デカルトはこのことを「疑いを容れない」(上掲)と言っています。いったいどういうことなのか。

実体と属性の関係

1368.  実体に対する属性の論理的依存関係を理解するのに好適なエピソードが『不思議の国のアリス』にあります。このお話にはチェシャネコというニヤニヤ笑うネコが登場する。ある場面で、チェシャネコは「ネコなしのニヤニヤ笑い」を残してネコ本体は消えてしまいます。

 「ネコは、今度はとてもゆっくりと消えていきました。しっぽの先から消え始め、最後にはニヤニヤ笑いが残り、ネコがすっかり消えてもニヤニヤ笑いはしばらく残っていました。
 「うわあ! ニヤニヤ笑いなしの、ネコだけってのは見たことあるけど」とアリスは考えました。「ネコなしのニヤニヤ笑いだけっていうのはね! 生まれて初めてだわ、こんなへんてこりんなものを見るの!」(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』河合祥一郎訳、角川文庫2010、第6章末尾。)

 ニヤニヤ笑いが属性で、ネコが実体です。そして、この場面では、ニヤニヤ笑いという属性が、ネコという実体に依存せず、それだけで存在している。もちろん、そういうことは起こるはずがない。読者がその光景を想像しようとしてもうまく行きません。

1369.  『不思議の国のアリス』は数学者・論理学者ルイス・キャロルの渾身の冗談です。私は高校1年生の第三学期、英語の副読本として一部を読まされました。このエピソードは記憶にないけれど、とにかく英語が難しくて冗談どころじゃなかった。この場面は、ニヤニヤ笑いなしのネコ(a cat without a grin)は存在しうるが、ネコなしのニヤニヤ笑い(a grin without a cat)は存在しようがない、という論理的事実を下敷きにした冗談です。

1370.  だからなんなんだ、と言いたくなりますが、「生まれて初めてだわ、こんなへんてこりんなものを見るの!」というアリスの独白は、論理学者には、あるいは、厳格な主語‐述語の構文を通じて実体‐属性の論理になじみやすい印欧語の話者には、見えるはずのない光景が見えるナンセンスとして笑いを誘うのかもしれません。

1371.  ニヤニヤ笑いをしていないネコはいくらでもいます。というか、ネコはニヤニヤ笑ったりしない。一般化すれば、ある属性を持っていない実体は存在しうる*。しかし、持ち主としての実体なしに属性がそれだけで存在することはあり得ない。

注*: 本質的属性の場合はまた話が別ですが、さしあたり、本質のことは忘れてください。今ここでスコラ的論理の細目に立ち入る必要はないので。

1372.  属性が実体に依存するというのは、この意味です。実体の方が基本的な存在者*であって、属性は実体に内属する(inhere)ことによってのみ存在する。したがって、実体の観念の方が、属性の観念よりも表現的実在性が多いのは明らかだ、とデカルトはいうわけです。

注*: 「存在者」というのは、現代日本語の哲学用語としては、存在するもの一般を言います。つまり物体も人間も含む。英語の“an entity”とか“a being”に相当する。「者」という文字に影響されて、人間だけを指すと考える人がたまにいるので、念の為注記します。

1373.  主語‐述語といった文法範疇に慣れ親しんでいると、なるほど明らかだな、と納得するかもしれない。そして、考える私は実体であり、考える私の任意の属性(例えば、今チェシャネコの観念をもっていること)は、たしかに考える私に依存して存在する。そして、実体と属性の観念に言及するとき、デカルトは、考える私以外のものを導入したことにはならない。デカルトは注意深く議論を進めています。

実体と属性が唯一無二であること

1374.  以上のように、実体と属性というスコラ哲学の論理的範疇は、観念の表現的実在性を導入するための有効な枠組みになっています。神の存在証明のこの段階では、デカルトは、考える私というたったひとつの実体が存在する世界のことしか語れません。考える私以外の対象(実体)はいっさい導入できない。だから、表している対象に応じて観念の表現的実在性が大きいとか小さいとか論ずることもできません。それどころか、表現的実在性を導入すること自体が意味をなさないように思われたわけです(1358)。

1375.  実体と属性の観念は、観念の表現的実在性を理にかなった仕方で(即ち、考える私以外の存在に言及せずに)導入するための、利用可能な唯一の論理的枠組みです。そのことを、以下で簡略に説明します。

1376.  考える私というたったひとつの実体しか存在しない世界では、観念は私を表すか、私のさまざまな思考を表すか、どちらかしかありません。私を表す観念は、実体の観念です。私のさまざまな思考を表す観念は、私という実体に属している思考の観念、つまり、属性の観念です。

1377.  属性の観念を具体的に考えてみます。

(1)時刻T1に、私が一匹のイヌについて考えているとします。このとき、私という実体の観念と、イヌについての私の思考という属性の観念があることになります。

(2) 時刻T2に、私が一頭のキマイラについて考えているとしてます。このとき、観念としては、私という実体の観念と、キマイラについての私の思考という属性の観念があることになります。

1378.  イヌもキマイラもこの世界には実在しないので、(1)のイヌについての私の思考(即ち、観念)と、(2)のキマイラについての私の思考(即ち、観念)は、ともに実在しないものから与えられる等しい表現的実在性しか備えていないと考えられます。つまり、二つの属性の観念は、表現的実在性に関して、大きい小さいという差異がないと考えられます。

1379.  この世界に存在するのは私だけなので、私が自分自身以外の何について思考していても、その思考の対象物は存在しません。したがって、これらの思考を表す観念(即ち、私の思考という属性の観念)の間には、対象から与えられる表現的実在性の大小の違いはなく、すべて等しい表現的実在性をもつと考えられます。(なお、自分自身について思考する場合に私が持つのは、私という実体を表す観念にほかなりません。)

1380.  すると、考える私しか存在しない世界では、私という実体を表す観念と私のさまざまな思考を表す観念のあいだにのみ、表現的実在性の差異が生じる可能性がある、ということが分かります。いいかえれば、実体の観念と属性の観念のあいだにのみ、表現的実在性の大小を想定することができるのです。

1381.  以上から、実体と属性という論理的範疇は、考える私しか存在しない世界で表現的実在性の導入に利用できる唯一無二の存在論的な枠組みであることが分かります。

デカルトの説明への反論

1382.  しかし、デカルトの説明に納得していいのか? と危ぶむ気持ちも起こります。属性は主語的実体なしには存在しえない。「ニヤニヤ笑い」がそれだけ単独に眼の前に出現するということはない。かならず、〝何ものかの〟ニヤニヤ笑いとして出現する。だからこそ、チェシャネコのエピソードは、ナンセンスの笑いを引き起こす。その理屈は分かった。

1383.  とはいえ「ニヤニヤ笑い」という〝概念〟を私たちは持っている。「ニヤニヤ笑い」とは何なのかを、特定の人やネコと結びつけずに〝理解〟することはできる。だから、「ニヤニヤ笑い」は、概念的理解においては特定の主語的実体に結びつかずに存在している。それなら「ニヤニヤ笑いそのもの」、いいかえれば「ニヤニヤ笑いのイデア」は存在すると言えるのではないか*。

注*: プラトンは、任意の属性についてそのイデアを考えることができるとどこか(初期対話篇のどれか)で言っていたはず。

1384.  「ニヤニヤ笑い」でイデア論を続けるのはいささか苦しいので、例を「美」に変えます。プラトンの説明によれば、たとえば、ひとつの花が美しいのは、理想世界に美しさそのものである美のイデアが実在していて、その美のイデアを現実世界のその花が分有しているからでした。現実の花は、色合いに難があったり形がいびつだったり、完璧な美しさを実現してはいない。だが、眼前の花は、理想的世界の完璧な美しさを、不完全ではあってもそれなりに写し取っているから美しいとされる。こう考えれば、美のイデア(理想化された属性)が真の実在になる。(番外編2の29:1175, 1176)

1385.  これは、実体と属性という考え方とは違う考え方です。実体や属性という概念で認識を分析するのは、スコラ哲学の手法であり、元はアリストテレスです。アリストテレス風にいえば、先に見たように、主語的実体に属性(性質)が結びついて一個のものが存在することになる。

1386.  他方、プラトン風に考えれば、性質は完全な状態でイデアとして理想世界に実在していて、それが現実世界に不完全な仕方で現れていることになる。この場合、実体が基本的な存在者であるとか、属性は実体に付随するといった考え方は成り立たない。デカルトは、「私に実体を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性を表現する観念よりも、一層大きなあるもの〔だ〕」(上掲)と言っていますが、アリストテレスとスコラ哲学の論理的分析の枠組みを受け入れていないと、この例示はそもそも意味をなさないのです。

デカルトが導入した枠組み

1387.  以上の分析にもとづいて、デカルトによる表現的実在性の導入について私が指摘したいことは、次のことです。観念の表現的実在性という仕組みを使うためには、あらかじめ、観念と観念の表現する対象にかんする理論的な枠組み、つまり、何らかの意味論を前提しないといけない。上述のように(1332)、あるものが何かを表現するという仕組み(記号体系)は、記号(意味するもの)と、記号が指し示す対象(意味されるもの)と、記号と対象の結び付け方の規則(意味論)が決まらないと使えないからです。

1388.  デカルトは、私の存在だけが確立された段階において記号と指示対象を結びつけ、観念の表現的実在性という概念を導入するために、結び付け方の規則として、スコラ哲学的な実体と属性の存在論的枠組みを利用しています。デカルトはスコラ哲学を最大限の侮蔑とともに退けたのですが、表現的実在性を導入する決定的な局面で、スコラ哲学の存在論的枠組みに依存しました。「疑いを容れないこと」(前掲)と言われているのは、事実上、スコラ哲学の論理です。

1389.  神の存在証明の議論は、表現的実在性に次いで、原因と結果の論理を導入します。そこでもスコラ哲学に由来する原因概念が、証明の肝心かなめののところで利用されます。デカルトは、心の中の観念という新しい哲学的装置を導入したけれど、心の中から心の外へ到達するためには、観念の領域を越え出る必要があった。越え出るための仕掛けは、記号としての観念に対し、意味論の役割を果たすものでなければならなかった。デカルトの場合、それはスコラ哲学に由来する因果性と実体-属性の論理的枠組みだったと考えられます。

1390.  次回(4月27日)は、原因と結果の論理について考えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?