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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の2]

西洋哲学史と近代日本(2)

1.はじめに

42. まず復習。前回はものごとを実現して行く力とは何か? という問いから始めました。そして、プラトン(前427/8~前347/8)とアリストテレス(前384~前322)の考え方を対比した。この世界の事物を作り上げる根本原理(力)は、イデアとデミウルゴス(事物を造る職人的な神)として世界の外に存在する、とプラトンは考えた。この考えは新プラトン派を経由して初期キリスト教の教義に組み込まれる。

43. 他方、アリストテレスは、根本原理が事物の自然本性(ピュシス)としてこの世界の事物に内在すると考えた。根本原理の外在と内在という二つの立場は、トマス・アクィナス(1225~1274)の『神学大全』において折衷されてひとつになる。だが、それは、キリスト教神学のなかに、根本原理が世界に対して外在的か内在的か、という対立が仕込まれたことを意味した。この対立が難問を引き起こす。そして、プラトンとユダヤ-キリスト教とアリストテレスの三つ巴の哲学的・神学的な対立のなかから、西洋近代の自然科学が生み出される。

44. 前回は、大略以上のようなことを書きました。ここから話はどうなるのかというと、トマス的折衷をしりぞけるドゥンス・スコトゥス(1265/66-1308)やオッカムのウィリアム(1285頃-1347/9)などの神学者が現れる。これらの人々は、全能の神はみずからの意志を法として〝外から〟世界に押し付ける、という神意論(voluntarism)を唱えた。この流れが、徐々に有力になる。

45. これは、中世末から近代初頭にかけて、ユダヤ-キリスト教の伝統的な神の超越的外在性が強調されたことを意味する。デカルトやボイルやニュートンなど17世紀の哲学者・科学者たちは、神意論の神学に沿って自然の秩序を考えた。こうして、神がこの世界に押し付けた法、すなわち自然法ないし自然法則を見いだすために、自然の探究が進められるようになった。

46. このように、自然科学の始まりを神学の観点から説明する立場は、私の独自の見解ではなく、研究史があります。フランシス・オークリーの1961年の論文「キリスト教神学とニュートン科学:自然法則という概念の興隆」*が、1930年代の先行研究に言及しながらこの立場を簡潔に打ち出した。オークリーの論文には批判もあるが、その立場は広く支持を得たといってよい**。たとえば、ピーター・ハリスンは2002年の論文でオークリーを鋭く批判している。だが、ハリスン自身がその論文の冒頭で次のように指摘している。

「神意論が経験科学の発展にとって中心的な役割を果したとする考え方は、今では初期近代の歴史家のあいだでありふれた見解(a commonplace)になっている。」(Harrison 2002, 1)***

注*: Oakley, Francis. (1961). Christian Theology and the Newtonian Science: The Rise of the Concept of the Laws of Nature.  Church History, Vol.40, No.4, 433-457.

注**: 神意論と科学の関係にかんする過去60年の研究史は、オークリーの2018年の論文「神意論の神学と初期近代科学:神の絶対的な力と定められた力の問題」(Voluntarist theology and early-modern science: The matter of the divine power, absolute and ordained. History of Science, Vol.56.)の冒頭で簡潔に語られている。

注***: Harrison, Peter. (2002). Voluntarism and Early Modern Science. History of Science, Vol.40, 1-27.

47. こういう研究史は、哲学史の授業では大事なのですが、縷々述べていると切りがない。そちらへさまよい込まず、言いたいことを書く方がよさそうだ。というのも、前回のブログを書いたあと、ちょっと不満が残りました。思いつきの気ままな流れを保存したいと宣言して書きはじめたのに、哲学史の授業みたいになってしまった。これでは書きたかったことになかなか辿りつけない。というわけで、典拠、研究史、学説史は脇に置いて、できるだけ単刀直入に述べます。

2.近代科学と懐疑論と個人主義

48. 近代科学は、古代ギリシア以来の西洋哲学とキリスト教神学の融合や対立のなかから生れた。時代は17世紀の半ばから終わりにかけて、地域は西ヨーロッパ、主にイタリア、フランス、イングランド、オランダあたり。近代科学の誕生には、15、16世紀以来のさまざまな哲学的・宗教的立場が先行していた。

49. 初期近代のこの思想的大変動のなかで、17世紀の哲学者たちは、窮地をのがれる道を懐疑論と個人主義の方向に見いだすことになる。この見方は、私としては穏当な見解のつもりですが、他の人が同じ見解を述べているのを目にした記憶はないので、ひょっとするとあまり普通の見方ではないかもしれない。なお、懐疑論とは、ここでは、人間は何ごとにつけ――例えば、物体の本質について、自然の法則性について、他人の心の中について――確実な知識を得られないのではないか、という疑いを懐くことをいう。また、個人主義とは、ここでは特に知識についての個人主義のことなのですが、人間は、自分が確かめて本当だとしか考えようがないことだけを真理として受け入れることが許される、という立場をいうものとします。

50. かんたんに言えば、私見では、近代科学の形成に寄与した17世紀人たちは、確実だとされてきた何もかもが今は疑わしいが、さしあたり自分で確かめて本当としか考えようがないことを、知識の唯一の基礎としてやっていくほかない、と考えた。そういう姿勢で初期近代という思想的な大変動の時代を乗り切った。デカルト(Renée Descartes, 1596-1650)やロック(John Locke, 1632-1704)の哲学は、同時代のこういう人間観や知識観の表現とみなすことができる。

51. デカルトは数学と物理学において当代一流の存在だった。ロックは医学と化学を修めた実験科学者だった。彼らは、自分たちの新しい学問(近代科学)に正統性を与えるため、知識一般に対する哲学的な基礎づけを行なった。その議論が詳細かつ徹底的だったので、彼らの哲学は新しい文明の基準点となった。

52. 疑うことと自分で確かめることは、近代という体制の根幹に組み込まれています。近代社会では、科学にかぎらずどんな分野でも、人は通念や常識や定説を疑ってかまわないし、自分で確かめて本当だとしか考えようがないことは、真理として表明してよい。あるいはむしろ、人は自分の見いだした真理を表明するのに臆病であってはならない。これが近代的個人の自由であり、人権(human rights 人間のさまざまな正しさ)の根幹です。

3.日本の近代化と懐疑論と個人主義

53. デカルトやロックの時代から200年余り後、19世紀の半ばを過ぎたころ、日本は西洋近代文明を輸入し始める。多くの人がさまざまな分野の科学技術を学んだ。西洋思想史を学ぶ人々も存在した。デカルトやロックによる知識の基礎づけの議論もすぐに知られた*。だが、科学を学ぶ人々は、デカルトやロックとは違って、懐疑論と個人主義をわざわざ自分自身で実行する必要はなかった。科学はできあがった学問体系として移植すればよかった。

注*: 例えば、明治30年代末の夏目漱石の『吾輩は猫である』や大学での講義録『文芸評論』にデカルト、ロック、バークレー、ヒュームらへの言及がある。(山田弘明「日本におけるデカルト哲学の受容 1836-1950」p.3 『名古屋大学哲学論集』第8号pp.1-26 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/28883#.Y1Ci7XbP2M8 )

54. 科学技術を学ぶ明治期の学生たちにとって、人間は確実な知識を得ることができないのではないか、という懐疑は無用かつ無縁だった。彼らは、完成した体系を輸入して熱心に学べばよかった。また、通念や定説はすべて棄て去り、自分が確認したことだけを真理として受容する、という禁欲的な認識論的個人主義を堅持する必要もなかった。教科書には公認の正しい見解が記されていると思ってよかった。

55. 日本の近代化、すなわち文明開化は、懐疑論や個人主義を必要としなかったわけです。人々には懐疑に陥っているひまなどなく、むしろ皆で協力して効率的に近代化を推進する必要に迫られていた。たしかに幕末には攘夷の運動があった。だが、攘夷は結局のところ幕府を倒すための政争の具にすぎなかった*。科学技術だけでなく政治や道徳についても、西洋文明から学ぶべきものが多いことは、儒学者らも含めて皆が気づいていた**。近代化を推進した人々は、殖産興業や富国強兵の意義を疑ったり、自分のものの見方に徹底してこだわったりはしなかった。

注*: 公家の大原重徳は、慶應四年(1868)二月に勅使として江戸に赴き、幕府に攘夷をせまった。だがその五年後に、攘夷は徳川家を潰すための方便だったと明言している。「私の考へには、御一新前、朝廷攘夷を専ら被為唱候となえさせられそうろうは、畢竟徳川家兵馬の権及天下の政務を被為執度とらせられたしの思召にて、徳川家を潰す為めに攘夷を被為唱候となえさせられそうらいて……〔以下略〕」(渡辺浩『日本政治思想史[十七~十九世紀]』東京大学出版会2010、p.387)。

注**: 渡辺浩(2010)「十七章「西洋」とは何か」

56. これに対し、西洋17世紀の哲学者・科学者たちは、所与の学問体系を疑い、自分の観点に徹底してこだわることによって、近代科学を生み出した。近代文明を生み出す過程では、懐疑論と個人主義は必須だった。近代的個人とは、通念や定説を疑い、自分の力で真理を見出す人物であるといえるでしょう。ところが、西洋に遅れて日本が近代〝化〟を推進するとき、懐疑論と個人主義は要らなかった。

57. 明治の日本社会のような仕方で社会の近代〝化〟を推進すると、その社会に生きる人々は、近代的個人の類型からはかえって遠ざかる結果になる。既存の知識を的確に入力し、工業製品から学術論文まで、気の利いた出力を効率よく生産するためには、懐疑論や個人主義は邪魔になるでしょう。

4.近代日本における懐疑論と個人主義

58. 近代の日本社会では、通念や定説を疑い自分の見方にこだわる人物は、近代化を推進する側ではなく、近代化に抵抗する側の人々に出現しました。例えば、二葉亭四迷(1864/元治元年ー1909/明治42)には「私は懐疑派だ」(明治41/1908)という談話記録がある。夏目漱石(1867/慶應3ー1916/大正5)の講演記録「私の個人主義」(大正3/1914)には、ロンドン滞在中に心理的危機に陥り、自分の見方に徹底する覚悟を決めてそこから立ち直った経緯が語られている。この二人を例に取って、近代化に抵抗した人々の懐疑と個人主義のありようを見てみます。(漱石は次回に回します。)

4.1  二葉亭四迷

59. 二葉亭四迷は名のみ高く、作品はさほど読まれない作家でしょう。しかし、非常に興味深い人物です。二葉亭の「私は懐疑派だ」は、「私は筆を執つても一向気乗りがぬ」と始まる。「書いてゐてまことにくだらない。…〔中略〕…真実ほんとの事は、書ける筈がないよ。…〔中略〕…小説の上ぢや到底うそツぱちよりほか書けん」*と続く。これは小説は嘘っぱち、つまり空想にすぎず、人生にとって第二義のものに過ぎないのではないか、という疑念です。日本の当時の文学状況については、次のように述べている。

「文学哲学の価値を一旦根底から疑つて掛らんけりや、真の価値は解らんぢやないか。ところが日本の文学の発達を考へて見るに、果してさう云ふモーメントが有つたか、有るまい。今の文学者なざ殊に西洋の影響を受けて、いきなり文学は有難いものとして担ぎ廻つて居る。これぢや未だ未だ途中だ。」**

二葉亭から見れば、日本の文学者たちは、文学や哲学の価値を根底から疑うことをせず、たんに西洋の考え方を学び、それに従って文学や芸術をよいものとして持ち上げているだけなのだった。

注*: 「私は懐疑派だ」『現代日本文學大系 1』筑摩書房1971、p.379。
注**: 同上、p.381。

60. 二葉亭は、言文一致体の小説『浮雲』を生み出した人物です。だから、彼は近代化を推し進める側にいたともいえる。だが、その『浮雲』を彼は完成させることができず、作品は中絶されます。私が二葉亭を近代化に抵抗する人々に数え入れるのは、二葉亭が、徹底した懐疑を引き受けたからです。それは、作品の完成を不可能にするほどの根本的な懐疑でした。

61. 明治23年(1890)に『浮雲』を第三篇で打ち切るとき、二葉亭には文学の価値に対する疑いがきざしていたようです。内田魯庵は、それを「二葉亭の為めには文学夫れ自身よりも根本の人生問題の方が重大であつた」と評した。中村光夫は、この魯庵の評を引きつつ、二葉亭の心事を次のように読み解いています。

「当時の二葉亭の心をもっとも強く占めたのは、科学や知識に、人間の生きる拠りどころが得られるかという問題で、これは彼が周囲の社会にたいして、彼なりに試みてきた文明批評の結論として彼の前に提出され、その解決を迫られたものでした。」(中村光夫『二葉亭四迷伝』講談社文芸文庫1993[初刊1958]、p.142)

 後年の談話記録「予の半生の懺悔」によれば、二葉亭は、その当時、自分の書くような未熟な作品を金に換えるのは不徳な行ないだ、と考えていた。本来、自分は芸術を尊重し、「俯仰天地に愧ぢざる」正直な生き方をすべきなのだった。この「正直」の理想は小説を書いて金を得ることで崩され、また他の種々のことで崩される。この「実際的と理想的の衝突」に二葉亭は非常に苦しんだ*。

注*: 「予が半生の懺悔」『現代日本文學大系 1』筑摩書房1971、p.384-385。

62. そして、キリスト教に接し、仏典を読み、ある時期には自暴自棄の無茶もするなかで、「古人は精神的メンタリーに「仁」を養つたが、我々新時代の人は物理的フィジカリーに養ふべきではなからうか」*と思いいたる。「物理的に physically」とは自然科学的にということで、二葉亭は心理学や医学、生理学などの研究に着手します。かくして、「科学、あるいは科学の基礎になる思想は、人間に本当の安心と幸福をあたえるに足りるか」(中村光夫『二葉亭四迷伝』 p.181)という問いを、二葉亭は二十代の後半に本気で追求することになった。

注*: 「予が半生の懺悔」前掲書p.386。

63. 中村光夫の評伝を参照して*その追求の次第をたどると、まず、「安心」は、人生の意味に苦しんだ二葉亭が、かねて求めるところのものだった。そして、心理学に視野を広げた結果、結局、「安心はこれ a disposition of mind なれば議論にて求むるとも得へからず 當に議論を離れて求むへきものなり」**と考えるにいたる。

注*: 中村光夫『二葉亭四迷伝』pp.169-191、特にpp.177-183。
注**: 「涅槃」『二葉亭四迷全集 第六巻』岩波書店1965、p.146。

64. 「a disposition of mind」は、〝ある人の潜在的な心理的傾向、ないしその傾向がもたらす態度〟という意味にとってよいでしょう。二葉亭は、議論というものは、人の心理的傾向に沿って生ずると気づいた。持ち前の心理的傾向によって、人は理想主義者になったり懐疑主義者になったりする。心理的傾向の相違にもとづく主義主張の相違は、当の心理的傾向に由来する議論をどれほど戦わせても、少しも決着をみない*。それゆえ、安心は議論から得られるものではなかった、というわけです。

「安心は唯安心するにて外の仔細あるにあらねば、たゞ安心することを得る道を学ふへき也 これ術なり学にあらす 故に言詮を絶し人々自得せんことを要す」**

安心はただ単に安心するというだけのことで、安心にいたる道を学べばよい。だが、それは学問ではなく、一種の技術である。言葉で説明できるものではなく、自得せねばならない。

注*:「涅槃」上掲書p.146。
注**:「涅槃」上掲書p.146。

65. それでは、科学への関心は、遂に無駄だったのかというと、そうではなかった。二葉亭は人間とその心理を考察する学問を「道義学」と呼んでいますが、それについてこう述べている。

 「しからは道義学は無用の長物なりやといふに左にあらず なるほど、従来のメタフィジックは無用の長物なるべし 然れども真の Science なる道義学は尤も有用の学問也
 然れとも真のサイヤンスとしての道義学は従来の道義学とは全く異なりたるものたらさるべからず 何となれは従来の道義学は一の理窟を定めて之に依りて安心を得むとするものなれとも真の道義学はたゝ天然の理法を研究するに止まるべければ也」(「涅槃」上掲書p.146)

「従来のメタフィジック」および「従来の道義学」は、旧来の倫理学や道徳哲学のことでしょう。「真のサイヤンスとしての道義学」とは心理学や生理学のことです。二葉亭の考えでは、旧来の倫理学などはひとつの「理窟」つまり道徳理論を与えて、それによって安心を得ようとするものである。これは無用の長物である。心理学や生理学はこれと異なる。科学としての心理学は、人間心理にかかわる「天然の理法」すなわち自然法則を研究するにとどまるからである。だから、二葉亭はこれは有用だと考えた。なぜか。

66. この間の事情は、少し錯綜します。中村光夫の言葉を借りれば、

「彼にとっての科学は、心理学をも含めて、「天然の理法の研究」であり、その結果はどれほど驚異すべきものであっても、生活にたいしてはひとつのデータであり、それ以上のものではないのです。」(中村光夫『二葉亭四迷伝』p.203)

言いかえれば、心理学その他の近代科学は、自然法則についての知見を与える。そのかぎりで科学は旧来の学問に比べて驚異的に有用である。だが、それはそこに止まり、けっして人生はなぜ生きるに値するかを教え、安心を与えてくれるものではない。

67. 二葉亭四迷は、生きる拠りどころを見出して「安心」を得るにはどうしたらよいのか、という疑問を懐き、文学や哲学、仏典から心理学や生理学までを学びます。その結果わかったのは、安心を得るために必要なのは学問ではなく、一種の「術」であって、それは自得するしかない、ということだった。

68. 科学は有用だが、科学の役目は生きるための手がかりとなる事実の供与に止まる。科学的事実を手がかりにしてどう生きるかは自分でやってみるしかない。二葉亭は、この後、まさにどう生きるか身を挺してやってみる、すなわち、「私の心的要素マインドスタツフを種々の事情の下に置いて、揉み散らし、苦め散らし、散々な実験エクスペリメントを加へてやらう」*という生き方をします。

注*:「予が半生の懺悔」前掲書p.386。

69. 三十代の二葉亭は、陸軍大学や外国語学校のロシア語教師のほか、実業家を志したり、満洲に渡ったり、結婚し離婚し、また結婚したり、「幾多の活動上の方面に接触してゐると、自然に、人生問題なぞは苦にせずに済む。」*という日々を送る。そして四十歳を過ぎる頃から執筆活動を再開します。朝日新聞に入社し、明治41年(1908)四十五歳で朝日新聞特派員としてペテルスブルグに赴き、翌年、帰途の船上で肺結核によって亡くなります。

注*:「予が半生の懺悔」前掲書p.386。

70. 二葉亭は、『浮雲』の世間的成功に自足しなかった。『浮雲』の完成に取り組むのではなく、むしろ、自分が『浮雲』で描いたとおり明治社会を大きく変えて行く西洋近代の文明は、はたして自分が人生を生きる拠りどころとなるのか、という彼にとって一層重要な問いの方に取り組んだ。この疑問は、本来ならば文明開化を生きるすべての日本語人が心に懐くべき疑いだったが、社会はそのような懐疑にかまけているひまはなかった。

71. 二葉亭は、生きる上での「安心」を供与するのは科学の役割ではなく、「安心」は自分が自分の人生を生きてみずから得るほかないことに気づく。その後、彼は自分の身をあたかも一個の被験者とするかのように、身を挺してさまざまな活動に就き、客死します。彼は、西洋の諸科学はもろ手を挙げて受け入れねばならないという時代の通念を疑い、自分で考えて自分の結論を得て、その結論に徹底してこだわって生き、そして死んだ。二葉亭四迷は、近代化に抵抗する近代的個人だったわけです。

4.2  力と個人

72. さて、ものごとを実現して行く力とは何か? という当初の問いからずいぶん離れてしまったと思う読者がいるかもしれないので、その点について、一言しておきます。神は自由意志で自然法則を世界に与える。だから、近代科学を生んだ17世紀の西洋においても、神の意志が根本の力です。その神の意志の表現としての自然法則を、科学者は、みずからの合理的思考と実験・観察(感覚経験)を通じて突きとめます。神の意志という根本の力は、科学者による探究を通じて、多くの人間が理解し利用できるものとなる。

73. それゆえ、ものごとを実現して行く力は根本的には神の意志なのだが、自然法則を認識することによって、その力を人間の理性のなかに取り込むことができる。さらに、自然法則に沿って行動することで、その力を人間の意志と行為の上に転移させることもできる。というわけで、ものごとを実現して行く力は、近代世界では人間の理性に宿ることになる。

74. さらに、人間の理性は、通念や定説を疑い、自分の見方に徹底してこだわることを通じて未知の真理に迫る。だから、懐疑する近代的個人の中にこそ、ものごとを実現して行く力は、すぐれて新しい仕方で宿る。こういうことになるわけです。

75. 次回は、夏目漱石「私の個人主義」を取り上げて、懐疑論と個人主義のもうひとつの現れを考える予定です。

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