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4. 暴力をめぐる点景、2000年代の日本(西洋近代と日本語人 その13)


Ⅰ はじめに


4.1.  自分の生きている時代と社会の本質的特徴を把握するのは簡単ではない。少なくとも、内部にいる自分の体験と、外部にいる他者の視点の、両方を踏まえなければならない。私がこれまでとってきたのは、日本語人としての自分の体験と、西洋近代哲学からの視線を交錯させるやり方でした(田村均『自己犠牲とは何か』「あとがき」名古屋大学出版会 2018)。

4.2.  暴力をめぐる現代の日本社会の本質的特徴をとらえるために、これからしばらく、いくつかの芸術作品の分析をします。優れた作品は、ある時代のある社会を凝縮して表わすことがある。だから、作品を見たり読んだりする体験は、私の直接的な社会体験の代わりになる。作品の分析には、現代哲学の概念装置、特に分析美学の概念装置を利用する。これがうまく行けば、作品体験と概念装置の交錯を通じて、暴力をめぐる現代日本の特徴が浮かび上がると期待できます。

4.3.  作品は時代と社会を「凝縮して表わす」と書いてみて、これ、ほんとうかな、と思ってしまった。芸術作品に時代や社会を表わす機能があるというよりも、私の側に、小説や映画を通じて知らない時代や社会について想像する性癖がある、というだけかもしれない。とはいえ、『野良犬』や『ゴジラ』を見て戦後間もない日本社会の欲望や不安を感じとり、『三四郎』や『青年』を読んで日露戦争後の知識層の希望と危惧を想像するというのは、普通にあるでしょう。

4.4.  小説や映画という虚構作品(フィクション fiction)を通じてある時代のある社会を想像することと、歴史書や記録写真、記録映像という虚構でない作品を通じてある時代のある社会を想像することとの間に、どういう違いがあり、どういう関係があるのか、急に気になってきた。(作品ではなく一次史料に当たるという話はひとまず別扱いにします。)

4.5.  今すぐこの大問題の解決に取り組むわけにはいかないんだが、ノンフィクション作品や記録映画の場合、鑑賞者は心のどこかで事実との突き合わせを気に懸けています。これに対し、小説や劇映画といった虚構的な設定を組み込んだ作品には、ものごとについて生き生きとした想像を喚起する機能があって、その想像は、事実との突き合わせを度外視して鑑賞者に受け入れられる。虚構作品が生み出す想像は、その意味で予断や先入見に近いもので、事実認識とは別ものです。でも、事実との対応関係を超えて、この世界の真相の認識へ私たちを導く役を果たすことがある。(ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』田村均訳、名古屋大学出版会2016、第2章1、2、8)

4.6.  ひとつ好都合なことを思いついた。これから扱うのは、2000年代の日本の作品です。私はこの時代の日本社会を見知っている。見知らぬ時代の見知らぬ社会を扱う作品を解釈するのとは違って、この場合、作品に触発された解釈者(私)の想像は、同時代の自分の直接体験と、制作者の意識的、無意識的な洞察と、分析のための概念装置という三つの点で、〝暴力をめぐる現代日本の想念〟という茫漠とした対象に接することになる。私の直接体験がある分だけ、見知らぬ時代の見知らぬ社会についての想像よりは、事柄の真相に近づく見込みがあるというものです。

 前置きはここまでにして、具体的な作品の紹介と分析に取り掛かります。

Ⅱ 松本人志『大日本人』

Ⅱ-1.設定と手法

4.7.  『大日本人』(2006)は、松本人志が企画し、監督し、主演した第一作目の映画です。脚本は高須光聖との共同執筆。企画、監督、主演が芸能界で大きな成功を収めている人物なので、言及せざるを得ませんが、私の関心は個人にはありません。この映画で暴力が取り扱われる全体の仕掛けに関心がある。

4.8.  仕掛けとは、ここでは物語の設定と、その設定を観客に伝える手法の両方を指します。この映画は、ひとつの物語的設定を、複数の手法を組み合わせて映画世界のなかの事実として観客に見せて行く。大日本人は、日本を守るために巨大化して怪獣と戦う役目を負った人物です。防衛庁所管の変身のための通電施設で身体に電流を流して巨大化し、怪獣と戦う。これが物語の設定の大枠になっている。

4.9.  主人公は、代々その大日本人の役目を務める大佐藤家の六代目の当主です。大佐藤と怪獣との戦いはテレビ番組として放映されている。彼の番組は、かつては人気番組だったが、今は午前2時の深夜枠に追いやられている。この映画の世界は、戦って日本を守るという活動が、娯楽作品として消費されている世界なのです。

4.10.  なお主人公自身は、戦いの相手を「怪獣」と呼ばず、たんに「獣(じゅう)」と呼ぶ。自分はそれと戦っていかないといけないんだから、なにを怪しがるのか、などと考えている。主人公は、いろいろこだわりのある人物として造型されています。

4.11.  この映画の主要な筋は、映画中盤で出てくる赤鬼のような謎の怪獣(以下、赤鬼怪獣)との戦いをめぐって組み立てられています。大日本人は突然出現した赤鬼怪獣に、不意を突かれて戦いの場から逃げ出してしまいます。その後、赤鬼怪獣は北朝鮮出身と判明する。大日本人は恐がってしり込みするけれど、再び戦う羽目になる。またしてもやられて大日本人が危うくなったとき、アメリカンヒーロー、スーパージャスティス一家が現れて、赤鬼怪獣をさんざんにやっつける。大日本人は除け者にされながら、脇でそれを見物します。最後、勝ち誇るスーパージャスティス一家が、自分たちの基地に大日本人を招き、まるで拉致するかのように大日本人を吊り下げて飛び去っていく場面で終幕になります。

4.12.  『大日本人』という映画では、物語の筋書きは、幾つかのエピソードを繋いでいくための便宜に過ぎません。日本、北朝鮮、アメリカへの寓意も自虐的な風刺の域を出ない。この映画の興味深さは、大日本人のうまく行かない家庭生活、人気の翳り、怪獣との中途半端な戦いといった、さまざまなエピソードを繋いで観客に見せていく手法にあります。

4.13.  幾つかのエピソードで、登場人物がなんらかの問題について自分の意見を述べる場面が出現します。意見を述べるのは、主人公の場合も、それ以外の人物の場合もある。そうした意見の陳述は、映画のなかで一貫してまともに取り合ってもらえない。「ちょっとよくわかんないんですけどね」と相手に肩すかしされてしまったり、必死で訴えたことがまったく無視されたり、熱を込めて語り始めた途端に打ち切られたりする。個人の意見が相手に正面から受け取られ、真剣な応答があるという例は、一つもありません。本気で主張しても取り合ってはもらえない。これは、この映画が描く世界の特徴の一つです。

4.14.  とりわけ、正義といのちについての意見の扱いは、なかなか興味深い。意見を述べるのは主人公ではなく、脇役です。そこで開陳される正義といのちに関する見解は、表現の拙さは別として、中身まで愚かしいわけではない。正義とは何か、いのちとは何か、と問い詰められて自信なさそうに始まった言葉は、徐々に熱を帯びて、しかし意見としてまとまらずにいささか迷走する。すると、その陳述はあっさり切り捨てられる。哲学的には、その意見は古くからあるまっとうな内容を備えています。この映画の世界では、そんな系譜は視野に入らない。単純に、取るに足りないものと見なされているようだ。

4.15.  エピソードを繋ぐ手法として特徴的なのは、レポーターによるインタビューという形式がとられていることです。主人公が、バスの中で密着取材番組らしきもののインタビューを受けている場面から映画は始まる。この映画は、ドキュメンタリーの設定を借りたフィクションということになる。取材とインタビューというこの枠組みは、映画のなかでずっと維持されます。

4.16.  ただし、レポーターと取材班自身は、映画の中に映り込まない。画面の背後にいます。レポーターの質問する声が聞こえ、それに答える人物をカメラが撮る。この枠組みがなくなるのは、最後のスーパージャスティスが登場する十数分の場面だけです。この最後の部分は、だから、別に考える必要があります。

4.17.  レポーターと取材班は、末尾以外のほとんどの場面に介在する。それはしつこいくらいに念を押される。この映画のさまざまな場面は、(末尾を除き)すべて取材班が撮影した映像であると解釈しようと思えば、そう解釈できるようになっている。観客は、映画内の取材班の手で〝編集された事実〟を見せられているともいえる。映画のさまざまな場面が〝編集された事実〟になって行くからくりについては、あとでいくつかの例で分析します。

4.18.  『大日本人』はヒーローが怪獣と戦う映画ですから、映画の手法として特撮も必要になります。特撮は、コンピューター・グラフィックス(CG)による特撮と、昔ながらの着ぐるみによる特撮と、二つの様式が使われています。レポーターと取材班が介在する場面では、CGによる特撮が使われる。着ぐるみによる特撮は、末尾のスーパージャスティス登場場面で全面的に使われている。

4.19.  レポーターが介在するとき、観客は、映画内の取材班の手で〝編集された事実〟を見せられていることになりうる。こう4.17で指摘しました。そして、レポーターの介在する場面は、CGが用いられ、レポーターが介在しなくなると、着ぐるみになる。ということは、CGの場面は、レポーターと取材班によって〝編集された事実〟として観客に示されている。着ぐるみのスーパージャスティスの場面は、レポーターがいないむき出しの事実として観客に示されている。こういうことになるわけです。

4.20.  つまり、CGの効果で画面に現実味があると、それは〝編集された事実〟の映像であり、着ぐるみの効果で画面が子供だましであると、それは編集されていない事実の映像である。そういうちぐはぐな組合せになっています。『大日本人』では、映画の世界の出来事を、むき出しの事実として現実性を備えた形で直接体験することが、いつも阻止されるといってよい。

4.21.  簡潔にまとめれば、『大日本人』は次のように告げています。この映画は、日本を守るヒーローが存在する世界を描いている。ヒーローといっても人気は落ち目である。この世界は真剣な意見の表出が決してまともに取り合ってもらえない世界である。正義といのちについて、素朴だが真っ当な意見が開陳されても、誰にも理解されずに切り捨てられる。私たち(観客)がその世界の事実に触れようとすると、いつも他人による編集を経た事実を見せられることになる。編集を経ない事実に到達したときには、その世界は書割じみた子供だましでしかない。これが、日本を守る戦いが娯楽として消費される世界なのだ。

4.22.  ここまで書いて、この4.21の〈まとめ〉を敷衍して、もう少し詳しく『大日本人』を分析すれば、ブログの記事として公開できるだろうと考えました。問題としては、「他人による編集を経た事実」と「編集を経ない事実」の対比が、社会的な広がりがあって面白そうに見えた。今どきのフェイクニュースとか、SNSのエコーチェンバー現象なんかに関係ありそうだ。そこで、この問題から分析に着手しました。ところが、どうしてもうまく行かない。何回書き直しても、暗礁に乗り上げる。なんか私が大きな思い違いをしてるんじゃないかとさえ思われる(わりとよくある)。うーん困った。

4.23.  というわけで、簡潔にすっきり書くという野望は捨てることにしました。複雑なことは複雑なまま書くことにします。ただし、段落に小見出しを付けたり、いろいろ場合分けしたりして、論点の整理はします。そうやって、自分の考えをできるだけ分解してみる。これから何度目かの挑戦をするわけですが、哲学的な問題を無骨にごりごり分析するので読みにくいかも知れません。そこはどうかご容赦を。(2022年4月18日記)

Ⅱ-2.インタビューという枠組み

4.24. 【虚構世界のなかのドキュメンタリー】 すでに述べたように、映画はバスのなかで大佐藤(松本人志)がインタビューを受けている場面から始まる。バスを降りて商店街を抜け、大佐藤の表札をかかげた一軒の古ぼけた住宅に着く。やり取りは切れ切れに続く。芸能レポーターのような人物が大佐藤にインタビューをしているようだ。この冒頭の場面は手持ちカメラで撮影されており、バスの振動や被写体の動きに合わせて微妙に手振れが生じています。観客はこれは密着取材の映像であると自然に了解します。
 『大日本人』は、したがって、密着取材番組という一種のドキュメンタリーを内側に含んだ虚構作品(フィクション)になっている。私たち観客は、作品の提示する虚構世界のなかでドキュメンタリー映像を見ることになる。これはいったいどういう体験なのか。まず、対比のために、現実世界のなかでドキュメンタリー映画を見ることがどういう体験なのかを確認しておきます。

4.25. 【現実世界のなかのドキュメンタリー】 たとえば、現実世界で『ゆきゆきて、神軍』を見るとする。この場合、日常生活では、私たちはさまざまな出来事を直接的に経験しています。街で人に会うとか、コンビニで弁当を買うとかありふれた経験をする。日常のこういう直接的経験の流れのなかで『ゆきゆきて、神軍』を見る。すると、私たちはこの映画を通じて、奥崎健三という実在の人物に関するいろいろな事実を知ります。だが、映画を通じて知った事実は、直接的に経験したことではない。奥崎健三に直接会って知るのとは違う。間接的な経験、つまり事実の伝聞です。私たちは、現実世界でドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』を見ることを通じて、奥崎健三に関する〝編集された事実〟を知るといってもいい。
 このように、現実世界でドキュメンタリー映画を見るときには、〈現実世界の直接的経験のなかに、映像を通じた間接的経験がある〉という構造になる。

4.26. 【虚構世界の間接的経験】 では、『大日本人』のように、虚構世界のなかでドキュメンタリー映像を見るとはどういう体験なのか。上と同じように考えれば、それは、〈虚構世界の直接的経験のなかに、映像を通じた間接的経験がある〉という構造になるはずです。映画の中の密着取材番組の映像を通じて大佐藤について知ることは、大佐藤に関する事実を、映画の世界の中で伝聞によって知ることであり、大佐藤に関する〝編集された事実〟を知ることです。これが、虚構世界における間接的経験に相当する。

4.27. 【虚構世界の直接的経験】 それでは、虚構世界における直接的経験はどこにあるのか。じつはこれから詳しく述べるように、『大日本人』では虚構世界における直接的経験がうまく成立しなくなって行きます。映画の中の経験が、すべて間接的経験と見分けがつかなくなる。レポーターが観客と虚構世界の間に介在することで、映画を見る経験が、大佐藤に関する〝編集された事実〟を知る間接的経験に近づいていく。これが『大日本人』が表現している世界の特徴です。でも、話の順番として、虚構世界の直接的経験とは何かを言っておかないといけない。

4.28.  多くの映画では、観客は、その映画の世界の事実(虚構世界内の事実)に直接立ち会います。レポーターは介在しない。映画を見ることは、一般に、虚構世界の出来事について直接的経験をすることなのです。たとえば、『ジュラシック・パーク』で、ティラノザウルスがこっちをひたと見て(いわゆる「カメラ目線」で)追いかけてくるのを見る。このとき、観客は、自分が追いかけられるという虚構世界の事実をまざまざと経験する。これは、ティラノザウルスが自分を追いかけてくると信じることにする、という一種のごっこ遊びです*。これが通常の映画の鑑賞体験であり、虚構世界の事実を直接的に経験することです。

柱*: 映画にかぎらず芸術作品を見たり読んだりする鑑賞体験は、一種のごっこ遊び(games of make-believe  信じることにするゲーム)であるというのは、ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』(田村均訳、名古屋大学出版局2016)の理論です。本稿の分析は、全体としてウォルトンの理論にもとづいています。

4.29.  先に、『大日本人』を見るときには、虚構世界における直接的経験がうまく成立しなくなると言いました。これは『大日本人』の一つの特徴ですが、ドキュメンタリー映像が組み込まれている映画のすべてでこうなるわけではない。たとえば、『トゥルーマン・ショー』は、映画のなかに特殊なリアリティ・ショーを組み込んだ映画です。しかし、この映画の観客は、リアリティ・ショーの映像を通じて主人公のトゥルーマンに関する〝編集された事実〟を知ると同時に、リアリティ・ショーの外で起こる出来事を直接的に経験することができます。

4.30.  主人公のトゥルーマンは、生れたときから巨大なドーム内の島のセットで育てられて大人になった。巨大ドーム内に町があり、海がある。トゥルーマンの周りの人々は、妻も友人もすべてショーに出演している演技者だが、トゥルーマンだけはそれを知らない。トゥルーマンの生活はリアリティ・ショーとして放映されていて、セットの外では、人々がそれを視聴している。映画『トゥルーマン・ショー』は、トゥルーマンが自分はセットの中で生かされていたのだという現実に目覚めていく過程を描きます。

4.31.  ですから、この映画の中には、リアリティ・ショーの映像と、ショーの外で起こる現実の両方が、映像として登場します。前者は観客(及び映画内のショーの視聴者)の間接的経験の媒体であり、後者は観客(及び映画の登場人物)の直接的経験の対象です。この二つは判明に区別できる。これに対し、『大日本人』では、映画の中の映像において、ドキュメンタリーの映像と現実としての映像との境い目が分かりにくくなるような映画的手法がとられている。

4.32. 【インタビューの場面の多義性】 大佐藤は、ちょっとした有名人です。商店街では振り返って見つめる者もいる。それは周知のこととして映画は進んで行く。密着取材の対象が有名人であるのは不思議ではない。映画の観客は、こうして冒頭のレポーターとのやり取りを見ながら、自分の見ている映像が同行しているカメラマンの撮っている映像であると自然に了解します。それでは、いったい私たち観客は、映画内の事実とどういう関係にあるのか。インタビューされる大佐藤の映像を私たちが見ている体験は、直接的経験なのか間接的経験なのか。ここで、話が込み入ってきます。

4.33. 【直接的経験という解釈】 大佐藤がインタビューされる映像を見ているとき、観客は、自分もレポーターに(どういうわけか)同行して現場に立ち会っている、と感じるかもしれない。自分も(なぜか)そのバスの中にいる。映像を見ている前提条件として、そう暗黙に想像する。これはたとえば、システィナ礼拝堂の『天地創造』を見るとき、見ている人が、暗黙のうちに、アダムの創造される現場に立ち会ってそれを見ていると想像するのと同じです。そんなことはありえないんだが、絵や映像を見るとき、その現場に立ち会っていると想像する(そう信じることにする)のは、ごく普通のことです。
 以上は、大佐藤がインタビューされる映像を見る経験を、観客における映画の中の直接的経験として解釈することです。私たちは出来事の起こる現場にいる。映画を見るとき、一般に生じるのはこの解釈です。

4.34. 【間接的経験という解釈】 しかし、映画の観客は、自分はインタビューの現場に立ち会っておらず、取材班のカメラマンが撮った映像を見ていると想像することも可能です。『大日本人』の冒頭場面を見ると、取材に同行しているカメラマンがその場面を撮っていると自然に想像します。そこで、自分が見ている映像は、そのカメラマンが撮った映像であると想像する。これが、大佐藤のインタビュー映像を見ることを間接的経験として解釈するやり方です。つまり、観客は密着取材番組の映像を見ているわけです。この場合、ひとつの自然な解釈は、その密着取材の一部が映画『大日本人』となっている、というものでしょう。

4.35. 【直接的かつ間接的な経験】 観客自身が現場に直接立ち会っていると感じるか、取材班が現場に立ち会っていて、観客自身はその場面を取材映像を通じて間接的に見ていると感じるか、どちらが観客の映画体験として成立するのかは決めようがない。個人によって違うだろうし、同じ個人でも時によって違うかもしれない。私には、しかし、両方の感じ方が同時に同一の観客のなかで成立しているように思われる。論理的には矛盾しますが、要するに、観客は、自分も現場に立ち会っており、かつ、取材カメラマンの撮った取材映像を見ていると感じるのです。私自身の視聴体験をかえりみると、これが真相だろうと思われます。(矛盾はさほど気にしなくていい。あなたが『天地創造』を見るとき、想像の中で、あなたは天地創造の現場に立ち会う。それより矛盾が大きいというわけでもない。)

4.36. 【典型的な例】 レポーターが介在する場面について、観客は、自分もそこに立ち会っていると同時に、取材班の撮った映像でそれを見ていると想像する。これが特に明瞭になるのは、大佐藤が巨大化のために防衛庁所管の変身施設に出頭する場面です。取材班もそこに一緒に入ろうとすると、取材班の入場は拒否される。防衛庁職員の手のひらがレンズをふさぐように画面に大写しになり、「取材なんすけど、ちょっと入らせてもらっていいですか」「ダメです」というやり取りが聞こえる。観客は、あきらかに取材班のカメラを通してその場を見ている。だが、現場に自分が立ち会っている感覚も同時に成り立ちます。

4.37. 【直接的かつ間接的な経験の効果】 映画のさまざまな場面を、直接的かつ間接的に観客が経験することの効果はいったい何なのか。私の考えでは、それは、映画の中での観客の直接的経験が、ただちに映画の中で他人たちと共有できる間接的経験になってしまう、ということです。現実世界でも虚構世界でも、自分が直接立ち会って現場で経験したことは、そのままでは他人とは共有できません。言葉にしたり絵にしたりする必要がある。言葉や絵は、再現表象(representations)であり、一個限り、一回限りの個別的なものごとを複数の人々のあいだで共有できるように表現する(represent)はたらきがある。

4.38.  たとえば、現実世界であなたが犬に追いかけられて恐かったとき、その直接的経験それ自体は、あなただけの経験であって、そのままでは他人と共有できない。共有するには、「さっき犬に追いかけられて恐かった」などと言う必要がある。虚構世界でも、『ジュラシック・パーク』でティラノザウルスに追いかけられて恐いと感じるとき、追いかけられる直接的経験それ自体は、そのときの心拍数の増加とか目を瞠って座席で固まってしまう動作とかも含めて、厳密にあなた自身のもので、それを他人と共有することはできない。共有するには「ああ、恐かった」などと言う必要がある。

4.39.  ところが、『大日本人』では、レポーターの介在するほとんどの場面において、観客はそこに自分が立ち会っていると感じつつ、同時に取材カメラの映像を見ているとも感じる。その結果、自分の、映画の中での直接的経験の内容が、そのまま他人と共有可能な取材映像(再現表象)として成立してしまうことになる。現実世界に置き換えると、この状態は、あなたが犬に追いかけられているとき、横でそれを映像と音声で実況中継する人物がいる状態に少し似ているかもしれません*。

注*: 「少し似ている」だけで、本質的には全然違うと思いますが、深入りしません。非常にややこしい話になりそうな予感がする。

4.40.  一般の映画と違って、『大日本人』では、映画の世界における観客の直接的経験と間接的経験の境界がはっきりしない。観客が、映画の中で、ある場面に直接立ち会うと感じるたびごとに、経験の中身が、他人と共有できる一般的な再現表象(たとえば、取材カメラマンの撮った映像)と融合してしまう。自分がじかに体験している事実と、他人による編集を経た事実との区別がぼやけて行く。これはかなり奇妙な虚構世界です。でも、私たちの現実世界での日常の経験と、まったく似ていないわけではない。というのも、日常生活でも、自分の直接的経験の個別性や固有性を守りぬくのは時には難しい。私たちは、他人と共有できる形に自分の体験を改変してしまうことも多いでしょう。

4.41. 【レポーター不在の場面】 レポーターが介在する場面は、上のとおりの分析で、直接的経験と間接的経験の境い目がぼやけて行くからくりを説明することができます。しかし、『大日本人』には怪獣との戦いの場面もたくさんある。レポーターは、巨大化した大佐藤と怪獣との戦いの現場には登場しません(たぶん、危険すぎるんでしょう)。すると、観客は、普通の特撮映画と同様に、自分が現場に立ち会って、大日本人と怪獣を傍らから見ていると想像するはずです。観客は映画の中の出来事の直接的経験を得ることになる。こういうとき、この映画は、また別の仕掛けで直接的経験の成立を妨害します。

4.42. 【街頭インタビューという仕掛け】 怪獣と大日本人が戦う場面がひとしきり流れると、そのあとに、しばしば街頭インタビューの映像が挿入されます。インタビューされるのは、若者三人連れ、中年サラリーマン風、老人、若い女性、子連れの母親、カップルなど、さまざまです。レポーター「こないだの「大日本人」みましたぁ?」、若者「あ、みたみた」といったやり取りが置かれる。

4.43.  私たち観客は、戦いの場面を見ているときには、自分が虚構内の事実を直接的に見て経験していると想像する。そして、その直後に街頭インタビューが挿入されると、自分の見たものと、街頭インタビューを受けている人々の見たものが、〝同じ戦い〟であると考えます。

4.44.  というのも、「あ、みたみた」と若者が言うとき、観客は、それが指しているのは自分が直前に見た〝あの戦い〟だと自然に思うからです。観客である自分の見た戦いの場面と、映画の中の若者が見た深夜番組の映像が、同じ戦いにかかわるのでないかぎり、映画の筋がつながらない。だから、観客は、若者と自分が同じ戦いを見たと考える。

4.45. 【〝同じ戦い〟を見るとはどういうことか】 このとき観客は、自分の見た〝その映像〟を映画の中の若者も見たのだと、無意識的に思うのではないか。映画の中で、その戦いの映像は、観客が見た〝その映像〟しか存在しません。だから、インタビューを受けている人物と自分とが同じ出来事を見たのなら、同じ出来事として観客が脳裏に浮かべることができるのは〝その映像〟しかない。したがって、若者もそれを見たのだと思うのは不思議ではない。

4.46.  若者が〝その映像〟を見たのだと思わないとすると、観客は、「あ、みたみた」という発言を聞いたときに、自分があの戦いを見たのとは別の角度から撮影した別の映像を若者が見たのだと、わざわざ想像しなければならない。そういう映像は、深夜番組で放映された映像として、いわば理論上は、映画の世界の中に存在すると考えられますが、観客がそこまで手間を掛けて街頭インタビューの場面を解釈するとは考えにくい。自分と若者は同じ戦いを見たのであって、自分の見たものを若者も見た。「自分の見たもの」は、〝その映像〟であるから、それを若者も見た。観客は、自然にこう想定すると思われる。

4.47.  すると、このとき観客の想像の中で起こっていることは、自分の直接的経験の対象(〝その映像〟)が、そのまま他人と共有できる再現表象となる、という移り行きです。観客である私の見た光景(〝その映像〟)が、同時に他人である若者が見た光景(〝その映像〟)になる。大日本人と怪獣の戦いを街頭インタビューを通じて観客と若者が同じ出来事として共有する流れは、レポーターが介在する場面で、観客である自分が現場に立ち会ってその場面を直接的に見ていると同時に、取材カメラマンの撮った映像を通じて間接的に見てもいる、という体験が成立するのと同じ効果をもたらします。直接的経験(事実の経験)と間接的経験(事実の伝聞)の境い目が不明瞭になるという効果、〝編集されていない事実〟と〝編集された事実〟が分けられなくなる効果、自分固有の経験の中身が他人と共有できる一般的な再現表象と融合するという効果です。

4.48. 【モニタ画面という仕掛け】 『大日本人』では、このような効果を作りだす仕掛けがもう一つあります。それは、観客が現場に立ち会って出来事を直接見ていると感じる場面で、その映像が、そのままカメラなどのモニタ画面に切り替わり、ある人物がモニタ画面でその出来事を見ていたことになる、という仕掛けです。これによって、観客の直接的経験(事実の体験)が、映画の中のある人物の間接的経験(事実の伝聞)に切れ目なく移行します。観客固有の経験の中身が、他人と共有できる一般的な再現表象に融合する。
 この仕掛けは、『大日本人』の中で2回使用されます。一つ目は、大佐藤の妻のインタビューの場面。二つ目は、大佐藤が赤鬼怪獣との最後の戦いに臨む直前に深夜の街を蹌踉と歩いて帰宅する場面。

4.49. 【妻のインタビューの例】 大佐藤は妻と娘に愛想づかしされて別居中です。大佐藤は落ち目で、周囲から疎んじられている。それを示す脇筋として、妻に対するインタビューの場面が挿入される。インタビューでは夫婦間の行き違いなどの話題が登場します。この場面は、レポーターはいますが、手振れのない固定カメラで撮影されている。そのせいで、通常の映画と同様に、観客がそこに立ち会って直接的に体験していると感じられます。

4.50.  ところが、レポーターに答えて妻が語る映像は、最後の方で急に解像度の低い家庭用ビデオカメラのモニタ画面に切り替わる(同時に、手振れも生じる)。次いで、その家庭用ビデオのモニタを大佐藤が見ている場面が続く。こうして妻のインタビューの場面は、取材班が撮影したものであって、その映像を大佐藤が見ていたと判明するわけです。観客の見た妻のインタビューの映像は、一方では観客が現場に立ち会った直接的経験の中身である。と同時に、他方では取材班が大佐藤に見せた映像でもあった。こうして観客の直接的経験の中身は、切れ目なく、他人と共有される再現表象に流れ込みます。

4.51. 【自衛隊の監視の例】 大佐藤は、飲み屋でレポーターとひとしきり議論した後、深夜、ひと気のない街を傘をさして歩いていく。この雨の中の深夜の帰宅場面は、大佐藤を正面から撮ったり、俯瞰で撮ったり、ずいぶん長く続きます。通常の映画と同様に、観客はその場面に立ち会って帰宅する大佐藤を直接見ていると自然に感じます。すると、自宅前の路地の、帰宅する大佐藤を俯瞰で撮った映像になる。それは赤外線暗視カメラのぼやけた濃緑色の画面です。

4.52.  通常の画面に切り替わると、「防衛庁中継車両」という垂れ幕を装着した軍用車両が大写しになる。中継車両の内側、多数のモニタ画面の幾つかに大佐藤を映す暗視カメラの濃緑色の映像がある。大佐藤は防衛庁にずっと監視されていたのです。こうして、観客の見た帰宅場面も、防衛庁の監視カメラの映像だったという解釈が可能になる*。この例でも観客の直接的経験の中身は、切れ目なく、他人と共有される再現表象に流れ込みます。

注*: 飲み屋を出る場面で、後ろ姿の大佐藤の映像に、レポーターの声で「もしもし、あ、いま出ました」と電話をかける声がかぶさります。レポーターは常に防衛庁と連絡を取っているらしい。これによって、帰宅途中の映像もすべて監視カメラで撮られたものだった、という解釈が成り立ちます。

4.53. 【レポーターの常駐する世界】 大佐藤はレポーターにつきまとわれていて、映画の観客は、そのやり取りを傍らで見聞きしている。レポーターは大佐藤を管轄する防衛庁と繫がりをもっていて、大佐藤はおそらく常時監視下にある。私たちは、大佐藤の家庭生活や月収、不幸な幼年期、マネージャーとの確執、落ち目になることへの不安、世間の誤解への不満、といった私事を逐一知っている。書き並べてみると、これは成功した芸人、松本人志の日常なのだと気づきます。なぁんだ、そういうことだったのか、という感じもするけれど、衆人環視の的になるとはこういう世界を生きることなのだ。

4.54.  私たちは大衆の一人としていろいろな事柄に関心を寄せて生きている。関心の的となった事柄については、さまざまに問われ、解説され、レポートされるだろう。だが、それらの事柄について、私たちが直接的な経験をもっていることはほとんどない。よく知っているつもりでいて、間接的経験を積み上げているだけだ。私たちは、現実にレポーターの常駐する世界を生きていて、事実と事実の伝聞を判明に区別できなくなっている。『大日本人』は、大衆の関心につきまとわれる側から、このような、事実に無頓着で無責任な世界を描いています。

Ⅱ-3.『大日本人』の描き出す世界

4.55.  国家的水準での暴力行使という視点から、『大日本人』の描き出す世界をとらえなおしてみます。先に(4.26)映画のなかでドキュメンタリー映像を見るとは、〈虚構世界の直接的経験の流れのなかに、映像を通じた間接的経験がある〉という構造を体験することだ、と言いました。ところが『大日本人』では、虚構世界の直接的経験が、間接的経験と判明に区別できなくなる。この映画の観客は、作品の提示する虚構世界の中で、自分は事実を直接的に経験しているとも、媒体を介して間接的に経験しているとも、どちらとも取れるような曖昧な状態に置かれる。観客は、他人と容易に共有できない確固とした直接的経験という領域がほとんど成立しない世界に参加することになる。

4.56.  私たち(観客)がその世界に参加すると、そこは変に閉じた世界である。自分が直接的に経験していると思っている事実が、気づかぬうちに、なんらかの仕方で編集された事実にすり替わっている。編集以前のなまの事実は、編集された事実の向こうにあるはずだが、そこには手が届かない。このことを、この世界に参加する者は受け入れるしかないらしい。
 この世界では、国を守るための暴力の行使は、長く受け継がれてきた役割として存在している。メディアを通じて皆がその存在を知っている。人はあれこれそれを論評する。だが熱心に支持したり応援したりするわけではない。真面目に取り上げるに値するものだと思われておらず、あまり人気のない娯楽として消費されている。

4.57.  このように要約してみると、『大日本人』は、2000年代の日本における国家的暴力のあり方の、意外なくらい的確な描写になっています。そして、なまの事実にどうしても手が届かないような経験の構造が存在することと、国家的な暴力行使がおちゃらけた扱いを受けていることの間には、なんらかの内在的な繫がりがありそうに思われます。その繫がりを明るみに出すには、経験の構造を問い直す必要がある。それはこの映画では行なわれません。むしろ、それがけっして行なわれないのがこの映画の世界であり、2000年代の日本社会だったのだ、と言えるでしょう。

 次回は、正義といのちついてのやり取りと、映画終幕の着ぐるみによる特撮の場面について考える予定です。

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