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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の22]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

4.4.3.3 アガペー(愛)について

アガペーの四つの特徴

882 前回はキリスト教的な愛としてのアガペーの四つの特徴を、ニーグレンの『アガペーとエロース』*から抜き出して示しました。アガペーは、

第一に、自発的であり(spontaneous)、外からの動機づけによらない(unmotivated)。すなわち、外なる対象に接することから生まれる愛ではなく、もっぱら主体の内なる本性によって生まれる愛である。

第二に、アガペーは対象の価値に無関心である。つまり優れたものを愛することではない。

第三に、アガペーは対象の価値を創造する。

第四に、アガペーは神が人の許へ来ることであって、これによって神と人との交わりが始まる。言いかえれば、人の側のなんらかの努力によって人から神に到る道は無い。(2の21:871-875)

注*: アンダース・ニーグレン『アガペーとエロース Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』岸千年・大内弘助共訳、新教出版社1954-1963。

883 第二の特徴については、前回、ある程度立ち入って説明しました(2の21:864-868、872)。価値に無関心であるということは、「私は義人を招くためでなく、罪人を招くために来た」(マルコ2:17)というイエスの言葉に由来します。ニーグレンの理解では、イエスは、罪人の方が義人より優れていると言っているのではなく、地上における優劣の価値づけの体系そのものの廃棄を意図している。「父はその太陽を悪しき者にも善き者にも昇らせ、義人にも不義なる者にも雨を降らせ給う」(マタイ5:45)のだから、神の愛(アガペー)は対象の価値に無関係に降り注ぐ。イエスの行動はこの無差別の愛を体現している。

884 なお、私の考えは、ニーグレンとは少し違います。イエスは、おそらく当時の社会の価値体系の拒絶や転覆を意図していた。と同時に、地上の価値づけの体系そのものの廃棄も意図していただろう。両者は明快に区別されていなかったのではないか。というのも、現行の価値体系を一旦ひっくり返すことなく、地上的な価値づけの全体を無効化するというのは、まず無理だと思われるからです。

885 また、第三の特徴の、アガペーが対象の価値を創造するという主張は、前回述べた通り、私にはピンときません。神はすべてを創造した。神の創造のわざそのものが世界への神の愛である。神が愛し、創造したかぎりにおいて、すべての被造物に価値がある。このような、創造主である神の理念にもとづく教義上の主張としては、神による価値の創造という主張が成り立つことは理解できます。

886 しかし、愛を人間の心理学的なはたらきの一種としてとらえた場合、愛が価値を創造するという考え方は、「あばたもえくぼ」のような現象としてしか理解しようがない。だが、神の愛(アガペー)とこの俚諺は結びつきません。そういう次第で、上の教義的な主張を愛の心理学的な体験に落とし込もうとすると、どうも私にはピンと来ないわけです。

887 ただし、神が人間を愛する以前に、人間になにか特別の価値があるわけではない、という否定的な主張としては、一応理解できます(2の21:874)。という次第で、今回は、第一と第四の特徴について考えます。まず、第四の特徴に関して。(第一の特徴は次回に取り上げます。)

第四の特徴について

888 宗教の教義として見た場合、第四の特徴はずいぶん不可解なものです。人の努力で神の許へ到ることはできない。人が善行を積もうと、祈ろうと、あるいは供物を捧げようと、その他どんなことをしようと、人間の側の努力を通じて人間が神に到ることはない。こう言っていることになる。キリスト教には、最後の審判という教えがあります。だが、人から神に到る道はないのなら、審判を念頭において善を行なうのは無意味になる。

889 人間の為すべきことは、望ましい審判を求めて善を為すことではない。現世および来世の報いとは無関係に――つまり、現世利益も極楽往生も一切求めずに――ひたすら自発的に神を愛し、隣人を愛して生きることだけなのです。この場合、〝自発的に〟とは、報酬への期待によって動機付けられずに、ということ。

890 神は、もとより自発的に、そして無差別かつ無条件に、すべての存在を愛しています。神の愛は、したがって、人から神への愛に先行して、すでにすべての人の許へ届いています。原理上、イエスの十字架上の死という贖いによって、すべての人は罪から解放され、神との交わりに再び参与することができるようになった。そして、人は、報酬の期待とは無関係に、自発的に神を愛し、隣人を愛して生きる。

891 神の自発性(本性としての愛)と人の自発性(報酬の期待をともなわない愛)が交錯するなかで、神による審判が行われます。その結果、人のなかで救いに与る者もいれば、与らない者もいることになる。いったいこれで宗教として成り立つのかしらと疑われますが、理屈としてはこうなるでしょう。

892 極端にいえば、およそどんな振る舞いをしても、地獄に堕ちる者は堕ちるし、天国に行く者は行く。神の審判は人の努力に左右されないというのは、突き詰めればこういうことです。宗教として成り立つのかという懸念は、この点に由来します。ある人の行ないの善悪がその人の処遇を左右しないなら、審判という概念は無効になるのではないか。

893 ここはニーグレンも気にしていて、アガペーと審判の結びつきについて説明しています。そのカナメの部分を下に引用しておきます。しかし、その説明は大変わかりにくい。

「愛でないすべてのものに審判を下す愛のみが、もっとも深い意味において、回復し救済する愛である。同時に、いかなる審判も、愛による審判ほど深く心に突き刺さることはない。愛の向こう見ずな自己投与によって勝ち取ることのできないものは、いかにしても勝ち取ることはできないのだ。」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.73)

なお、この箇所は、英語版(Anders Nygren, Agape and Eros, translated by Philip S. Watson. London: S. P. C. K., 1954, p.104)を参照して、邦訳を少し改めました。

894 解釈を試みると、まず、「愛でないすべてのもの」とは「アガペーでないすべてのもの」ということでしょう。ニーグレンの関心は、アガペーとエロースの対比にある。アガペーでないすべてのものとは、さまざまな対象へと向かうエロースのことです。エロースは自分に欠けている美しく善きものを恋い求める欲求であり、そのものを永遠に自分のものとして持つことを目指すものでした(2の17:698)。エロースは利己性に貫かれている。

895 これに対し、アガペーは十字架上のイエスの死を原型としている(2の20、特に839, 840)。神は、罪の手から人類を解放するために、我が子の命を身代金として差し出した。それは人類のためであり、純粋に利他的な行為だった。神の愛(アガペー)は利他性に貫かれている。

896 すると、引用の冒頭の一文、「愛でないすべてのものに審判を下す愛のみが、もっとも深い意味において、回復し救済する愛である」というのは、欲求的な愛(エロース)をしりぞける神の愛(アガペー)だけが、人の利他性(アガペー)を回復し、救いをもたらす、といった意味になるでしょう。(ただし、どのようにして回復と救いがもたらされるのか、詳細は依然不明です。)

897 次の、「いかなる審判も、愛による審判ほど深く心に突き刺さることはない」という一文は、極めてわかりにくいのですが、神の自発的で無差別の愛に接して、人が、同じように自発的で無差別の愛を神および隣人に与えるかどうかが、もっとも深い意味での審判となる、といったことではないだろうか。

898 人から神に到る道はないのだから、審判のありかたについて云々するのは無駄です。しかし、審判は、少なくとも、律法の「主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛すべし」(ルカ10:27*)という命令にはかかわるはずです。さもなければ、聖書のこの命令は虚言だったことになる。だから、審判は、人が神および隣人を愛するかどうかにかかわるとまでは言えるわけです。

注*: 並行記事、マルコ12:30-31、マタイ22:37-39。

899 そこで、「愛による審判」というのは、律法の愛の命令を履行できるかどうかということであり、それが「深く心に突き刺さる」とは、神を愛し、隣人を愛することができるかどうかが、もっとも根源的な審判を構成するということだ、というように解されるわけです。

900 最後の「愛の向こう見ずな自己投与によって勝ち取ることのできないものは、いかにしても勝ち取ることはできない」というのは、まず、「愛の向こう見ずな自己投与」が、神の子イエスの自己犠牲を暗示することは明らかです。したがって、この一文の全体は、イエスのようなアガペー(愛)に発する行ないによってのみ、人もまた勝ち取るべきものを勝ち取る、ということになるでしょう。

901 すると、上の 893 の引用の全体は、以下のような趣旨と解されます。

〈人がエロース的な利己性を脱してアガペー的な利他性において生きることが、救済を含めて人が勝ち取ることのできるすべてをもたらす。利他的な愛において生き、利他的な愛を通じて得られるものを得るということが、神の審判そのものなのだ〉

つまり、アガペー(愛)において利他的に生きよ、そうすれば必ず救われるというわけではないが、そのように生きて得るべきものを得るということが神の審判なのだ、ということです。しかし、突き詰めれば、これは〈アガペー(愛)において生きよ、審判はある〉と言っているだけです。

902 人に可能なのは、愛(アガペー)において生きることのみであり、審判がどういう仕方で下されるのかは語りえない。この解釈が的外れでないとすると、これでは審判への畏れがあまり私(たち)の心に響かないうらみがある。愛において生きても生きなくても、結局、同じことかもしれないからです。でもこのあたりは、私がキリスト者でないからこんな無責任な感想をいだくのだ、ということにしておくしかなさそうです。

903 なお、人間が善根を積んでも神を動かすことはできないというのは、ルター(1483-1546)以降、プロテスタンティズムに特徴的な教えで、カトリックの場合は多少違います。宗教改革の一因となった免罪符の話はさておくとしても、私の経験の範囲で言うと、子供のとき、土曜学校で、神父からこういう逸話を聴いたことがあります。

〈ある女性が人生に絶望して投身自殺した。だが彼女は、身を投げるとき思わず「めでたし」(アヴェ・マリア)を唱えた。それで彼女は煉獄に行くことになった〉

 神父様、なんであなたが、本人以外は知り得ないそんな事情をご存じなんですか、という疑問は、子供の私には浮かびませんでした。

904 自殺は大罪であり、地獄へ堕ちる定めです。「めでたし」ないしアヴェ・マリアは、正式名を「天使祝詞」といって、聖母マリアを讃えるカトリック特有の短い祈禱です。マリアに処女懐胎を告げる大天使ガブリエルの祝いの言葉に由来する(ルカ1:28-33)ということになっている。その後半は、「天主の御母聖マリア 罪人なる我らのために 今も臨終のときも祈り給え」というもの。罪を犯した者、即ち人類すべてが、聖母マリアに主なる神へのとりなしを頼む文言です。

905 「天使祝詞」(アヴェ・マリア)の全文は以下のとおり。なおこれは、私になじみのある文語版です。ウィキペディアなどを参照して思い出しました。現在、カトリック中央協議会は口語版を正式承認しているようです(アヴェ・マリアの祈り | カトリック中央協議会 (catholic.jp))。

めでたし、聖寵せいちょうてるマリア 
しゅ御身おんみとともにまします
御身おんみは女のうちにて祝せられ
御胎内の御子おんこイエズスも祝せられ給う
天主の御母おんはは聖マリア
罪人なる我らのために
今も臨終のときも祈り給え アーメン

 かつては、冒頭の句をとって「めでたし」と呼ぶのが普通でした。今はどう呼ばれているのかはわかりません。

906 問題の女性は自殺という大罪を犯したけれど、アヴェ・マリアを唱えたので、罪一等を減じられ煉獄に送られた。これは、マリア信仰の功徳を教える逸話です。このように、カトリック教会の場合、人から神へ到る道が、典型的には聖母のとりなしといった形で設定されている。プロテスタントの諸教会にはマリア信仰は無いはずです。

前途瞥見

907 さて、続いて第一の特徴、アガペーとしての愛は〝自発的であり(spontaneous)、外からの動機づけによらない(unmotivated)〟という特徴の検討に入る予定でしたが、それがだんだん長大になって、まとまりがつかなくなってしまったので、今回は、以上の第四の特徴の検討だけを公開します。

908 人から神へと確実に到る道はない。だが、人は自発的に、かつ外からの動機づけによらずに、神を愛し、隣人を愛し、敵を愛することはできる。このように愛(アガペー)において生きるというのは、何をどうすることなのか。また、いったいどのような社会的関係を人々のあいだに作り出すのか。そして、そのようにして作られるキリスト教的な社会は、日本語人の社会的直観とどのように食い違うのか。そのあたりは、また次回以降に取り上げることにしたいと思います。

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