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4.暴力をめぐる点景、2000年代の日本(西洋近代と日本語人 その14)

Ⅱ 松本人志『大日本人』(つづき)

Ⅱ-4.前回の論点と、この先の論点

4.58. 前回(その13)、映画『大日本人』(2006)について、こう記しました。

「この映画は、日本を守るヒーローが存在する世界を描いている。ヒーローといっても人気は落ち目である。この世界は真剣な意見の表出が決してまともに取り合ってもらえない世界である。正義といのちについて、素朴だが真っ当な意見が開陳されても、誰にも理解されずに切り捨てられる。私たち(観客)がその世界の事実に触れようとすると、いつも他人による編集を経た事実を見せられることになる。編集を経ない事実に到達したときには、その世界は書割じみた子供だましでしかない。これが、日本を守る戦いが娯楽として消費される世界なのだ。」(4.21)

4.59. 前回は、上のまとめの後半部分の、映画の中での〝事実〟をめぐる問題を考えました。この映画は、観客にとって、自分が映画の中で直接的に経験すること(事実の経験)と、間接的に経験すること(事実の伝聞)の境い目が不明瞭になるように作られている(4.47)。いいかえると、大日本人の行動をじかに目撃することと、大日本人の噂話に興ずることの区別がはっきりしなくなるように出来ている(4.42~4.47)。

4.60. 事実をめぐるこの効果は、映画の主題として意図されたものではなかったと思われます。落ち目のヒーローにレポーターがつきまとうという設定のせいで、結果的に、映画の観客が常にレポーターを介して大日本人について知って行くという構造ができてしまった。たんにそういうことのように見える。

4.61. これには、企画・監督・主演の松本人志がテレビ界の超有名人であることが影響しているかもしれません。私たちが松本人志について知っているすべては伝聞に過ぎない。有名人は伝聞を事実と混同する大衆に取り囲まれて暮らしている。人々は噂話と事実をわざわざ区別したりしない。世間は事実に無頓着で本質的に無責任なものだ。大衆の気まぐれな視線に常にさらされる人物が映画を作れば、おのずとこんな世界観が表現されても不思議はありません。

4.62. 『大日本人』の世界は、レポーターがつきまとってヒーローを監視しながら、人々はその噂話に打ち興ずる閉じた世界です。そこでは国を守るための戦いもさほど人気のない気晴らしになっている。正義もいのちもその世界の人々の視界には入らない。2000年代の日本はこういう作品を生んだのでした。

4.63. この世界で、国家的水準の暴力行使がどのように描き出されているのかという問題が、この先の論点です。何がどのように描かれているのか、また、描かれていないのか、それを考えていきます。先回りして言っておくと、この映画では、大日本人が怪獣と戦う理由が描かれない。つまり、暴力の存在理由が述べられていない。だが、大日本人が防衛庁の管轄下にあるということははっきりしていて、だから、行使されるのが国家的水準の暴力なのだということは分かる。そして、レポーターが正義といのちについての意見の開陳を拒絶するさまが描かれており、スーパージャスティスという名前のアメリカ渡りのヒーローへの違和感が描かれている。

Ⅱ-5.大日本人の存在理由

4.64. 大日本人が怪獣を退治するときは、防衛庁の命によって出動する。そういう設定になっています。しかし、もはや人気の落ちた大日本人を出動させるより、自衛隊が出動する方がいいという意見もある。レポーターは、「自衛隊が出た方がはやく済むんじゃないか、ていう意見もあるじゃないですか」と尋ねます。大日本人はこう答える。

 「あのぉ、そういう心ない意見はたまに、その、耳にはいってくるんだよね、うん、それはもう、ナンセンスだよね、うん、その、伝統っていうものをどう考えているんだ、っていう怒りももちろん生まれてくるし、けっきょく、その、生き物と生き物が戦って、そして弱い生き物が死んでいくさまを、生き物たちに見せるていうこの文化をね、ぼくはやっぱり絶やしてはいけないと思うんだよね」

4.65. すると、レポーターは、弱い生き物が死んでいくのを生き物に見せるという、その後者の生き物とは何かと反問します。

 「だからぁ、要するに、そのぉ、カブトムシとかをオモチャだと思ってるような世代だよ! その、コントローラーでものごとが何でも片付くと思っているような、そういう世代だよ!」

 レポーターの返事は下のとおり。

 「ゲームやんないんで、ちょっとよくわかんないんですけどね」

 肩すかしにあった大佐藤は、レポーターの方を睨み付ける。だが、すぐに場面が切り替わり、以後この意見は映画の進行にまったく関与しません。大日本人の存在理由は、この映画の世界では真面目に取り上げるに値しないものとみなされている。

4.66. 大佐藤は、自分の存在理由について、どうやら真剣に自分の考えを述べている。しかし、それは「心ない意見」「伝統……をどう考えているんだ」「文化を……絶やしてはいけない」といった決まり文句に、「弱い生き物が死んでいくさま」という刺激的な言い回しを混ぜ、全体をありがちな教育上の目的に結びつけてまとめたものにすぎない。いわば〝絶妙に平凡な〟意見です。

4.67. 大佐藤がひと癖ありそうに見えて、ほんとは中身のない人間であることが活写されている。脚本家の才能を感じさせます。ちょっと気が利いて聞こえるが、本質的には紋切り型で、にもかかわらず本人は大真面目である。それを聞かされる側は、なんだかがっかりさせられる。レポーターのそっけない受け流しにはそんな気持ちがこもっています。こういう意味ありげで無内容な台詞を思いつくには、ある種の才能が要るはずです。

4.68. 大佐藤の意見は、〝絶妙に平凡〟なだけでなく、〝微妙に的外れ〟という点でも興味深い。怪獣と戦うのだから、地球を救うとか、愛する人を守るとか、そういう目的があってもいい。オレが戦うのは、そのためだという理由づけがありそうなものです。弱い者は死ぬという現実に子供たちを目覚めさせる、という教育的な目的は、たかだか戦いの副次的な効果であって、主目的にはならないんじゃないか。

4.69. ヒーローは、みずからの存在理由がわかっているものだと思います。たとえば、『スーパーマン・リターンズ』(2006)では、スーパーマンの存在理由はこんな風に荘重に語られます。

 「地球で育ってもお前は人間ではない  人間にはよき資質がある  だがそれを導く光がない  彼らの善の能力を照らし導くため  ひとり息子のお前を地球へ送った」

 スーパーマンは人間を善へ導く光となるために存在している。これはスーパーマンの父が息子をクリプトン星から地球に送った理由として語られる言葉です。キリスト教の図式そのままですが、息子はこれをみずからの使命として肯定しているようだ。

4.70. 大佐藤は、六代目の大日本人です。父も祖父もいる。しきりに、四代目の頃は大日本人の人気も凄かったと回顧される。先々代の壮年期は昭和の戦前期とおぼしい。和服を着た婦人たちが小旗を打ち振って四代目を送るさまや、巨大な四代目が人々に囲まれて行進するさまが、黒白のニュース映画調の映像として挿入されます。大日本帝国の軍隊を匂わせているのは明らかで、私たち観客は、人々が歓呼の声で出征兵士を送り、勝ち戦さの報せに提灯行列した現実の昭和戦前期を自然に連想します。しかし、四代目が何ゆえに、何者と戦ったのかは語られません。

4.71. おそらく初代の大日本人の壮年期は、幕末から明治維新のころではないか。怪獣と戦って国を守る活動が、どうしてそのころ始まったのだろう。大佐藤家の当主はなぜ巨人化するのだろう。大日本人の戦いの本来の目的は何だったのだろう。一切わかりません。大日本人の存在理由の説明はこの映画の中にはないのです。誰が、いつ、どういう理由で、どのようにして、大日本人としての戦いを始めたのか、当初の意図は何だったのか、まったくわかりません。

4.72. この映画の描き出す物語世界には、戦いのもっともらしい副次的な理由付けだけがあって、本来の目的は語られない。それは空白になっている。だから、六代目大佐藤には、主体としての意志はないのです。「主体としての意志」というのは、伝統や文化といった決まりごとに服従するのではなく、決まりごとにかかわりなくみずからが計画立案し、実行する意志という意味です。

4.73. 娯楽映画のなかの問答に、それではどうも納得が行かないと文句をつけるのは野暮の極みです。そもそも、現実の日本社会でも、本来の目的にあえて触れず、副次的な側面を強調して理由づけにする、という上の問答のような論点ずらしは珍しくない。たとえば、自衛隊のあり方がその一例です。自衛隊は国家の対外的な暴力装置です。ところが、国際的紛争の解決能力の裏づけという対外的な暴力装置の本来の目的(その2:3.3)には触れず、〝自衛〟隊という名付けと、専守防衛という行動様式の細目を強調することによって、論点ずらしが行なわれ、憲法と軍事力保有の矛盾が覆い隠されてきました。

4.74. この映画は、もちろん自衛隊を疑問視したりしてはいませんが、怪獣映画のパロディという虚構の設定のなかで、期せずして、国家的水準の暴力行使をめぐる私たちの欺瞞的な態度を浮かび上がらせる結果になっています。大日本人の存在理由への問いに対して、意味ありげだが焦点を外した答えがあり、問答はどこにも到達せずに打ち捨てられる。大佐藤本人はそれなりに真剣に意見を表明するが、聞き手をうんざりさせただけで、期待された反応は返って来ず、空振りにおわってしまう。

4.75. 真剣な意見の表明が決してまともに取り合ってもらえないという状況は、『大日本人』の虚構世界の特徴になっている。漫才の掛け合いの類型が、映画のなかの言葉のやり取りに流れ込んだ結果かもしれない。正義といのちについての意見の表明もそういう扱いを受けます。

Ⅱ-6.正義といのちと懐疑論

正義といのち
4.76. 正義といのちについての意見を述べるのは大佐藤ではなく、防衛庁の職員です。大佐藤は怪獣と戦うために防衛庁所管の「電変所」という変身用施設に出頭する。神道風の儀式と変身のための通電がそこで行なわれる。

4.77. レポーターは、変身のための儀式を傍らで見守っている二名の防衛庁職員に、唐突に「正義ってなんだと思います?」と質問します。怪獣とヒーローの戦いは、善玉と悪玉のいる世界で成り立つ。だから正義についての問いはけっして場違いではない。しかし、問いかけにとまどう防衛庁職員の演技は秀逸です。予測されていない問いだった、という扱いであるのは明かです。

4.78. 「せいぎ? 正義っていうのは、あのぉ、読んで字のとおりですね、やっぱりあのぉ、せいぎねぇ、(隣の職員に)むずかしいなぁ。」
 隣の職員、渋面でうなずく。

 「なんだと思います?」

 「ま、正義て、あのぉ、正義正義ってこう、質問しますけども、その、正義ってのは、あの、誰がそれを正義って言うかね、ひとの見方はありますんでね、みんなそれぞれ、自分が正しいと思うのは、それが正義だと思ってるしね、だからひとがこれだということは、正義だということは、ないんじゃないですか、この世のなかには、はい」

4.79. レポーターは重ねて、「いのちってなんだと思います?」と訊ねる。

 「へ?」

 「いのち」

 「あ、いのちですか、……ま、この、いのちっていうのもね、特にむずかしい問題なんですよね、……これ、……いのちっていうのは、あのぉ、自分のいのちは今ここにありますけど、いのちっていうそのものは、やはりこの、先祖代々から続いてきているね、そういうつながりがいのちですよね、自分がいのちだと言ったって、あの、死んだって、それあ自分が死んだだけのことですからね、あの、その、自分がなくなったいうことは、あのぉ、だ、だいじですけどね、え、あのぉ、もっと大事なことがあるんじゃないんですか」

 「いのちよりも?」

 「えー、ま、生命っていうのは、もちろん大事ですけどね、ええ、あのぉ、生命そのものは、あのぉ、こうやっぱり、うー、殺したり、痛めたり、植物でも何でもそうですよ、いのちは、動物でも、そういうものってのはもう、あのぉ、いちばん」

「いちばん」と発した瞬間に画面が暗転し、大日本人の変身から戦いの場面に移行する。

4.80. 正義といのちについての意見は、こうして切り捨てられます。前半は正義の相対性の主張である。後半のいのちについての意見は、個々のいのちの大事さと、いのちの連続性の主張であり、自分のいのちの大事さからすべてのいのちの尊重へと向かう可能性を示している。いずれも素朴とはいえ、十分まっとうな主張なのですが、言い終わらぬうちに打ち切られる。みなまで聴くに値しないと判断された印象です。しかし、ここで述べられている意見は、どちらも傾聴に値します。

懐疑論
4.81. 「みんなそれぞれ、自分が正しいと思うのは、それが正義だと思ってる」のだから、人の言うことでこれが正義だというものはない。これは、普遍的ないし客観的な正義に関する懐疑論の主張です。「本当だ」とか「正しい」というのはそれぞれの人のものの見方に相対的だから、誰もが納得するような正しい主張は現実には存在しない。今の日本社会では、お互いに対する寛容の奨めとして、こういう考え方をとりあえず認めておくのがお作法のようになっています。

4.82. 各人のものの見方の違いを認めよう、という寛容の奨めはたしかに正しいように思われます。無駄な軋轢は避けるに越したことはない。日常生活の作法として、ものの見方の各人への相対性を認めることに、特に問題はないでしょう。とはいえ、これを一般化して、ものの見方は相対的だから、ある主張が客観的に正しいということは決して言えないのだ、と言い始めると、すぐに問題が生じます。たとえば、本段落冒頭の「寛容の奨めはたしかに正しい」という主張自体が成り立たなくなる。ある人にとっては正しいが、別の人にとっては正しくない。結局、何につけても、一般的に正しいということはない、寛容といえども一般的に正しいわけではないのだ。こう言わねばならなくなります。これは懐疑論の泥沼に足を取られた状態です。

4.83. この種の懐疑論は、西洋哲学史において、古くから存在します。その系譜を簡単に振り返り、防衛庁職員の発言をそこに位置づけてみます。古代ギリシアの書物では、ものの見方は各人に相対的だということは次のように例示されています。

「ある人たちは、魂は可死的なものであると表明しているけれども、別の人たちは、魂は不死なるものであると表明している……ある人たちは、われわれの世界の事柄は神々の摂理によって治められていると表明しているけれども、別の人たちは、摂理には拠っていないと表明している……」

 これは、セクストス・エンペイリコスの『ピュロン主義哲学の概要』という書物の一節です。セクストスは、古代の懐疑論を集大成した人物で、古代末期、二世紀末から三世紀初め頃のギリシアの哲学者であり医学者でもありました。「ピュロン」とは、紀元前四世紀半ばから三世紀始めに生きた懐疑主義哲学の始祖の名前です。ただし、懐疑的な議論そのものは、ピュロンに先立つ紀元前五世紀のアテナイのソフィストたちの論法にすでに鮮明に現れています。

注: セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』金山弥平・金山万里子訳、京都大学学術出版会1998。引用はpp.73-74から。

4.84. 典型的な例は、プラトン『テアイテトス』におけるプロタゴラスの主張です。プロタゴラスは「あらゆるものの尺度であるのは人間だ」(『テアイテトス』152A*)と言ったとされます。事物が、ある人間に何らかの様子で現れているとき、その事物はその人間にはそのようなものとして〝ある〟。だが、また別の人間には何か別の様子で現れているなら、それはまた別の人間には別のようなものとして〝ある〟。したがって事物が何で〝ある〟のかは、一概に言うことはできず、〝ある〟と〝あらぬ〟の尺度となるのは個々の人間にほかならない。プロタゴラスの主張はソクラテスを通じてこのように紹介されています(152A)。この種のソフィストの論法を論駁するのは、ソクラテスとプラトンの最大の課題でした。いいかえれば、どうやって懐疑論を論駁するかという問いは、西洋哲学の始まりをなす問いでした。

注*: プラトン『テアイテトス』田中美知太郎訳、岩波文庫2014。プラトンからの引用は、著作名とステファヌス版全集のページ数およびページ内のABCDEという段落記号で示すのが通例です。これは各種の翻訳では欄外に記されています。

4.85. セクストスは、上(4.83)の引用の前後で、人々の生き方や習慣、法律、神話、主義主張などが対立し対置される例を数多く挙げています。存在する事物について私たちに言えることは、ある生き方や法体系や主義主張などと相対的に、どのようなものとしてその事物が現れるかということだけである。だから、「諸々の物事の自然本来のあり方についてわれわれは判断を保留しなければならない」(前掲書p.77)というのです。この判断保留という態度がピュロン主義に特有のものだったようです(前掲書、訳者解説pp.448-449)。セクストスは、人が判断保留にいたる道を詳細に分類していますが、ここで引用したのはその一つ、「第十の方式」で挙げられている例です。

4.86. わざわざセクストスの著作に言及したのは、この『ピュロン主義哲学の概要』が西洋近代に多大な影響を与えたからです。1562年にこの書物のラテン語訳がヨーロッパで出版され、懐疑論が人々に知られるようになる。この書物は、モンテーニュをはじめ、デカルト、ヒューム、カントなど、名だたる西洋近代の思想家すべてに、人間はいったい何かを確実に知ることができるのか、という問いを突き付けました。

4.87. 周知のように、デカルトは、すべてのことを疑っても「考える私」の存在は疑うことができない、という原理(「私は考える、ゆえに私はある」)を見出すことを通じて、新たな学問(数学的自然学)を基礎づけ、学問全体を刷新しました(その1:2.13~2.15)。懐疑論をどのようにして論駁するかという問題は、西洋哲学すべての始まりをなしただけでなく、自然科学を一つの核とする近代文明の大きな部分を生んだといってさしつかえない。

4.88. 懐疑論は、人々の現時点の確信を疑い、探究をさらに進めるように促すという働きを持ちます。「懐疑論者」を表わす古代ギリシア語「スケプティコス」は、名詞「スケプシス」に由来しますが、この語は、元々は「見ること、考察すること、探究すること」を意味する言葉でした。探究する態度から疑っている心理を意味するように拡張されたらしい。

4.89. しかし、どこまでも疑い続ける姿勢は、真理や善や美をめざしてもけっして到達できはしない、探究は意味をなさない、という絶望をもたらすこともある。探究を進めることと探究に絶望することは、隣り合わせです。懐疑論にどう対処するかは、突き詰めれば、探究を進めるか立ち止まる(判断を保留する)かの選択を意味している。

4.90. 懐疑論を論駁する姿勢は、人間は「物事の自然本来のあり方」を知ることができると考えて、探究を進めて行くことを意味する。懐疑論を受け入れる姿勢は、「物事の自然本来のあり方」を知ることはできないと考えて、判断を保留することを意味する。もちろん、これは過度な単純化で、懐疑論の論駁にも、受け入れにも、さまざまな形式があり、判断保留にもいろいろな含みがある。それはそうですが、懐疑論にどう対処するかが、ひとりひとりの人生を方向づけ、文明社会のあり方を決める重大な選択であることは明かです。

4.91. 『大日本人』の防衛庁職員は、「みんなそれぞれ、自分が正しいと思うのは、それが正義だと思ってるしね、だから、ひとがこれだということは、正義だということは、ないんじゃないですか」と言っています。この職員は、相対主義を受け入れている、つまり懐疑論は論駁できない、と言っている。この発言は重大な選択を実行しているわけです。

4.92. 果してそれで済むのかという疑問が、続けて問われた「いのちってなんだと思います?」という問いに含まれています。いのちを守ることは正義ではないのか、それは誰もが認めるのではないか。そういう含みがある。答えは迷走します。

4.93. 「先祖代々から続いてきている……そういうつながりがいのち」であり、「自分が……死んだって、それあ自分が死んだだけのこと」であって、それより「もっと大事なことがある」。整理すれば、先祖代々のつながりがいのちであり、自分のいのちよりも大事なことがあるが、それは先祖代々のつながりである、ということのようです。レポーターは、(自分の)いのちよりも大事なことがあるという含みに反応して、「いのちよりも?」と重ねて問いただします。すると、答えは少し違う方向にそれて行く。

4.94. 「生命……は、もちろん大事です……生命そのものは……殺したり、痛めたり、植物でも何でもそうですよ、いのちは、……あのぉ、いちばん」と言ったところで、突然収録が打ち切られます。続きを推測して整理すれば、全体はこんな意見になりそうです。

〈自分のいのちはもちろん大事だが、自分のいのちは先祖代々のつながりがあってここに存在している。そう考えてみれば、自分に限らずすべての生命のつながりが大事なのであって、植物でも動物でも、その生命を毀損するような、即ち、それを殺したり、痛めたりするようなことは正義ではない。すべての生命を尊重することが正義である。〉

この意見は、大きな方向を示すものとして、十分傾聴に値します。しかし、この映画の中では、みなまで聴くに値しないと判断されたらしく、途中で切られています。途中で切られてしまうことの意味は、のちに考えることにしましょう。

Ⅱ-7.正義といのちと自然法

正義
4.95. この問答のなかで、正義といのちがおのずと結びついて出現するのは興味深いことです。現代日本語の談話で、正義といのちが自然に結びついたのはどうしてか、以下で、思想史を振り返って確かめます。私の見るところ、古代ローマの「自然法」の概念が重要な役割を果しています。でも、まずは漢語としての由来を簡単に確認しておきましょう。「義」は儒家の重要な概念で、「社会で認知された規範性」という意味合いが強いとされます*。「正義」は荀子に「正義而為、謂之行」という用例があって、正しい規範に沿って行動するという文脈で、「正義」と言っているらしい**。いずれにしても、いのちと直ちには結びつかない感じがします。

注*: 『岩波哲学・思想辞典』「義」(土田健次郎)より。
注**: 松尾義弘「荀子の弁証法的・史的唯物論」(鹿児島大学人文学部研究紀要 人文・社会科学編 第48巻、1997、pp.1-16)。「正義而為、謂之行」(正義のもとで動く、これを行なうという)の解釈については、同論文のp.13、および注7を参照のこと。

4.96. 「正義」は現代の日本語では、漢語の「義」や「正義」よりも、英語の「justice」との結びつきから理解されていると思われます。以下に述べるように、正義といのちが結びつくのは、「正義」が「justice」の訳語であることに由来する可能性が高い。

4.97. 「justice」の語源は、ラテン語の「justitia(ユースティティア)」であり、そのまた起源には「jus(ユース)」という語がある。「jus」は、「公正、法、権利」などを意味します。日本語で「jus」を一語で言い表すのは無理でしょう。英語では「right(s)」が「正しさ、権利」を意味するので、ある程度近いようだ。他方、ラテン語では「lex」(レークス)という語も「法」を意味します。「lex」は、動詞の「legere」(レゲレ)から派生した語で、辞書を見ると「legere」にはいろな意味がありますが、ここで関係するのは「読む、朗読する」という意味です。

4.98. 古代ローマにおいては、公的に宣言された(読み上げられた)法が「lex」であり、「jus」の方は、読み上げられた法律条文たる「lex」の基礎にある慣習としての法規範を言ったものらしい*。要するに、「jus」は法律の条文の根底にある法的な正しさを言い表しており、ここから「justitia(justice)正義」という抽象概念が派生した。大体こういうことのようです。

注*: ピーター・スタイン『ローマ法とヨーロッパ』ミネルヴァ書房2003、p.6。

正義からいのちへ
4.99. しかし、まだ正義といのちは結びつかない。その結びつきを見出すには、もうひと手間かかります。
 古代ローマの法体系は、6世紀前半(534年頃)にユスティニアヌス帝の下で編纂されたいわゆる「ユスティニアヌス法典」として知られる一群の書物によって現代に伝えられています。この書物群は、11世紀後半に、イタリアのとある図書館で発見されました。法制史家のハロルド・バーマン(Harold Berman 1918-2007)は、「1080年頃のユスティニアヌス法典の発見は、仮に長く失われていた旧約聖書の一篇が発見されたら生じるであろう精神的な姿勢において受けとられた」(Berman 1983*, 122)と記しています。西洋中世の人々は、聖書を真理であると考え、プラトンとアリストテレスの著作を真理であると考えた。これと同じく、新たに発見されたユスティニアヌス法典こそ、「真理なる法、理想的な法、理性の実体化(the true law, the ideal law, the embodiment of reason)」(Berman 1983, 123)であると考えたのでした。

注*: Berman, Harold. (1983). Law and Revolution: The Formation of the Western Legal Tradition. Harvard University Press.

4.100. ユスティニアヌス法典の写本は、『法令集(the Code)』、『新法令集(the Novel)』、『学説集』(the Digest)、『法学提要』(the Institute)という4つの部分から成っていました(Berman 1983, 127)。このうち『法学提要』以外の3篇は厖大な資料集ですが、『法学提要』は初学者向けの簡潔な教科書です。その冒頭、第1巻第1章「正義と法」の第1節にはこうあります。

「正義とは、すべての人々にとっての正当な事柄を承認する揺るぎない永遠の裁定である。」*

「正義」は「justitia」、「正当な事柄」は「jus」です。上の文言は、〈正義(justitia)とは、人々に帰属すると慣習的に認められてきた正当な事柄(jus)を、ゆるぎなく永遠に定めることだ〉という趣旨でしょう。

注*: Birks, P. and McLeod, G. (eds.). (1987).  Justinian's Institutes. London: Duckworth.

4.101. この正義の定義のすぐあと、第1巻第1章第3節で、「それぞれの人に与えられるべきものを与えよ」ということが、「法の命令」(Juris praecepta;the commandments of the law)の三つ目として挙げられます。ちなみに、一つ目は「名誉ある生き方をせよ」、二つ目は「誰をも害するな」です。初学者は法律の細目でなく、まず、法の命令とはこの三つであると肝に銘じよ、というわけです。

4.102. 法は、ここでは「lex」でなく「jus」です。だから、すべての法律の条文の根底にある正しさ、慣習的規範の命令するところとは、「名誉ある生き方をせよ、誰をも害するな、それぞれの人に与えられるべきものを与えよ」に尽きるのだ、と教えているのです。初学者としては、それなら「それぞれの人に与えられるべきもの」とは何なのかを説明してほしいところです。『法学提要』はよくできた教科書で、すぐに説明が与えられます。

自然法
4.103.  第1巻第2章「自然法、万民法、国家法」の冒頭で、「それぞれの人に与えられるべきもの」は、「自然法」として、次のように語られます。

「自然法は、自然によってすべての生き物に教え込まれている法である。それは、単に人間のためだけにではなく、天と地と海のすべての生き物のためにある。男性と女性の結びつきは自然法に由来する。これを我々は結婚と呼ぶ。子を生むこと、子を育てることも同様である。他の動物も自然法の力を認めていることは観察により明らかである。」

 「自然法」は、「jus naturale」なので、自然における正しさ(jus)のことを言うと考えられます。それは、まずもって〈雌雄両性の結びつきと子を生み育てるという正当な事柄〉であり、これは人間のみならず、すべての生き物に共通する。こう言っています。正しさといのちの関係が見えてきました。

4.104.  4.100で述べた「正義justitia」の定義「正義とは、すべての人々にとっての正当な事柄を承認する揺るぎない永遠の裁定である」の「正当な事柄」の箇所に、正しさ(jus)の一つとして、上の〈…〉で括った文言を代入するとこうなります。

「正義(justitia)とは、すべての人々にとっての〈雌雄両性の結びつきと子を生み育てるという正当な事柄(jus)〉を承認するゆるぎない永遠の裁定である」

ぎこちない文ですが、いのちを生み育てることは正しい行ない(jus)であるということをすべての人々に認めることは、自然における正義の一例である、という考え方が浮かび上がっています。正義といのちは、jus > justitia > justice という概念史のなかでは、おのずと結びつきます。

4.105.  では、『大日本人』の制作者たちは、この古代ローマの自然法思想を念頭において、正義といのちについての問答を作ったのだろうか。それは違うだろう。そうではなくて、現代日本語の無数の表現が形成している概念の網の目状の組織が、ある部分で古代ローマの自然法思想と間接的に結びついていて、その部分を通じて知らず知らずのうちに、正義といのちについての連想が生じたのだと考えられます。母語の諸概念は、話者個人の意識する範囲を越えて、それ自体として地下水脈のように相互に連繋しており、その繋がりは一言語を越えて他の言語たちに及んでいる。個人の心は、母語と他の言語の繋がりを通じて、遠い過去の見知らぬ人々が考えたことがらに規定されています。

4.106.  まず、現代日本語を使うとき、正義といのちが連繋しやすいのは、一つには、アジア・太平洋戦争を経験して、いのちより大切なものはないということを、多くの日本語人が学んだ結果でしょう。國體護持のためにいのちを投げ出したのは、死んだ者たちにとって、引き合わない取り引きだった。國體護持という正義(ここでは、「社会で認知された規範」という儒家的な意味の正義)は、いのちを越える価値を持たなかった。世の大義は、いのちを越える価値を持たない。よって、いのちこそが大義となる。

4.107.  しかし、もう一つには、敗戦のあとアメリカ合衆国から民主主義と自由主義と個人主義が伝来したことが大きかった。個人が自分の幸福を追求することを通じて国家が形成できる、という考え方を教えられた。日本国憲法第13条にはこう記されている。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

個人の生命、自由、幸福追求の権利にもとづいて国家が形成できるかどうか、本心では納得がいかない日本語人はたぶん数多くいたし、今でもいるはずですが、とにかく考えとして学ぶことは学んだ。

4.108.  個人の権利(jus)にもとづく近代の国家制度は、ルソーやロックの自然法思想に立脚しており、これら近代の自然法思想は、中世に体系化されたキリスト教的自然法思想を受け継いでいる。その中世の自然法思想は、ユスティニアヌス法典の研究から生まれた。そういう次第で、日本語人が20世紀半ばにアメリカ経由で学んだ体制は、その起源において、正義(jus)とは、まずもってそれぞれの人にいのちを生み育てることを認めることである、という考え方をもつものだった。現代の日本語人は、まったく意識していなくても、ローマ人の卓越した法思想のおかげを日々こうむって生きていることになります。

4.109.  國體護持の正義がいのちを越える価値を持たなかったという体験(4.106)は、正義への懐疑を生んだ。だがしかし、近代の国家体制は、それぞれの人がいのちを生み育てることの正しさ(正義)にもとづいている(4.108)。現代日本社会には、正義への懐疑論と正義の積極的主張が同居している。上で取り上げた問答(4.78~4.79)の迷走ぶりは、対立する主張が同居するとどうなるのかを表わしています。これが正義だという一般的な主張は成り立たない。だが、個々のいのちより大事なものがある。とはいうものの、あらゆる生命を毀損してはいけない。よく整理して考えないと、この混乱を脱け出すのは難しい。

4.110.  『大日本人』という映画におけるこの混乱の解決法は、みなまで聞かずに収録を打ち切ることでした。真剣な意見の表明は、決してこれをまともに取り扱ってはならない、という漫才の掛け合いの原理が映画世界を支配しているとも言える。現実世界では、映画と違って、「正義ってなんだと思います?」「いのちってなんだと思います?」と問いただされることはまずない。だから、現実世界の私たちも、真剣な意見はまともに取り扱わないという漫才原理より優れた解決策を、じつは持っていないんじゃないか。そう疑われます。

Ⅱ-8.むすび

4.111.  映画は、北朝鮮から来た赤鬼のような怪獣との戦いの場面で終幕を迎えます。赤鬼怪獣に大日本人はどうしても敵わない。すると、アメリカ出身のスーパージャスティス一家が登場して、赤鬼をさんざんにやっつけてくれる。CGによるリアルな表現は使用せず、スーパージャスティス一家は着ぐるみで登場します。ちゃちな書き割りのなかで、スーパージャスティスの一行がよってたかって赤鬼をいたぶる場面がかなり長く続く。この場面にレポーターや取材カメラは介在しません。観客は、虚構世界の出来事を直接目の当たりにする。しかし、そこで見せられるのは、ちゃちな書き割りのあいだで着ぐるみの超正義(スーパージャスティス)が弱い者いじめを執拗にくり返す場面です。

4.112.  制作側に、現実感が生じるように映像を見せようという意図はまったくない。むしろ、現実味を破壊するように、お笑い草として、取るに足らないちゃちなものとして見せようという意図がある。それゆえ、逆説的に、アメリカからやって来る正義の使者の戦いにマジメに取り合ってなんかいられない、という批評的な意図が、かすかに伝わってきます。

4.113.  存在理由をもたない巨人が戦う虚構世界は、最後の場面に到って、ちゃちな書き割りと雑な着ぐるみこそが、その世界の真実の姿なのだとみずから暴露したくなったようだ。あらゆることを茶化して終ろう、この映画自体を無化してしまおう、そんな自己破壊の欲求が感じられます。自己破壊をダメ押しするために、エンドロールでは、すべてが茶番だったとほのめかすスーパージャスティス一家の会話が流されます。

4.114.  だが、私の見るところ、この試みは成功していません。もう一回ひっくり返してすべて茶番にしてみせる手品はうまく行かなかった。作り出してしまった物語世界は、無かったことにはできないからです。存在理由をもたない巨人が中途半端な戦いを惰性で繰り返す虚構世界は、2000年代における日本社会の国家的暴力の戯画としてそこにあります(その13:4.57)。事実と伝聞のはっきりした区別の否定、暴力の存在理由の曖昧化、正義といのちについての言論の拒否、すべてを茶番とみなす意志。この四つの点で、『大日本人』という映画は、現代の日本社会を映し出すことに成功してしまったのです。

4.115.  以上で『大日本人』についての議論は終りです。次回は、村上隆を論ずるか、あるいは自然法についてもう少し補足するか、ちょっと考え中です。

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